電通「鬼十則」を執筆した4代目社長「吉田秀雄」 人見知りする性格で愛称はゴジラ

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学生で妻子のいた吉田

 光永星郎は熊本県の出身。日清戦争当時、従軍記者として中国に渡ったが、通信手段の不備が原因でせっかく書いた記事の掲載が大幅に遅れたという苦い体験から、通信社の設立を思い立つ。

 同時に広告代理店を設立し、新聞社から得る通信料金と新聞社に支払う広告料金を相殺することを考えついた。

 1901(明治34)年7月、光永は広告代理業を兼ねた電報通信社を創業。5年後の1906(同39)年12月に日本電報通信社とした。

 吉田秀雄は1928(昭和3)年に日本電報通信社に入社した。

 光永が公募で大学卒業者を採用した第1号である。当時は金融恐慌直後で空前の就職難だった。吉田は新聞社をいくつか受験したが、どこも不合格だった。新聞社にこだわったのは、父親がいないというハンデキャップがあったし、学生の身でありながら既に妻子持ちだったため、大手企業の採用条件には合わないとわかっていたからだ。

 口頭試問で吉田は2番目に呼ばれた。

《扉を開くと、正面には丸坊主、鼻の下にたくわえた太い八の字の髭の男が、革のソファにどっかと腰掛けていた。この風貌の(男の)前の椅子に、吉田は座った。その俗離れした威風威容の顔だけが目に入った》(以下、前掲『われ広告の鬼とならん』より)

「走れ、走れ」

《「君は扶養の義務がありますか」。目の前の陸軍大将のような髭の光永が、癖のある話し方で問うた。吉田は直感的に九州弁だと解った。光永の丸い眼鏡越しの目はやさしかった》

《「……私は、女房も子供もあります」と、吉田は不利になるかもしれない家族のことにも正直に答えた。これが吉田と光永の最初の会話だった》

 光永は「我々は常に一歩先に進まねばならぬ。併行を以って満足するものは、必ず落伍する」として、社員の駆け足会を発足させた。「走れ、走れ」と言い、得意先を回るときでも、「わき目もふらず、駆ける」ことを課した。朝は、始業時間とともにすぐ広告主のところに行くことを唱え、のんびりと社内でたむろし、雑談などで時間を無駄にすることを非常に嫌った。

 臥薪嘗胆を信条とし、新年は払暁戦(ふつぎょうせん)に限ると言って、午前3時に新年の仕事始め式を行った。

 さらには寒詣り、富士登山などが実施された。寒詣りとは、社員が白装束に身を包み、提灯を片手に列をつくり、得意先から得意先へと回り、それぞれの店の繁栄と寒中見舞い述べるものだ。

 富士登山は毎年7月に、社長以下全社員が参加し、山頂の郵便局から暑中見舞いの葉書を顧客に送る。払暁は夜の明け方、あかつきを意味する言葉だ。

 吉田はこうした社員鍛錬に率先して参加して、光永イズムを身につけ、光永のDNAを引き継いだ。

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