“どつき漫才”の正司敏江さんが離婚後も玲児さんとコンビを続けた理由【2021年墓碑銘】

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「いくら夫婦でもやりすぎだ」

 夫・玲児さんの浮気に悩まされて離婚するも、「恨みはありません」と語っていた正司敏江さん。別れても名コンビと言われたどつき漫才の原点と魅力とは――。

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 正司敏江・玲児のどつき漫才は目に焼きついた。玲児さんが敏江さんの頭を思いきり叩く。敏江さんも平手打ちを返すが、今度は飛び蹴りや体当たりを食らい、舞台を吹っ飛んでいくのだ。

 松竹芸能で正司敏江・玲児のマネージャーを務め、現在は演芸評論家の相羽秋夫さんは述懐する。

「いくら夫婦でもやりすぎだ、という声もありました。でも敏江ちゃんは童女のようであっけらかんと明るい。敏江ちゃん、負けんと頑張りや、とお客さんの気持ちをつかんで大喝采でした」

 ふたりは1976年に離婚後も2010年の玲児さんの他界までコンビを保つ。敏江さんは週刊新潮の墓碑銘欄で玲児さんを偲び、「根性を植えつけてくれた人。好きとか単純なもんやない。世間に出してもろて、コンビの名前のおかげで舞台にずっと立てた。玲児さんに絶対に恥をかかしたらいかんと続けた。飲む打つ買うでね。怒るし勝手やったけど恨みはありません」と語った。

「本能的で華がありました」

 敏江さんは、40年、香川県の小豆島生まれ。中学を卒業すると大阪で働き、家計を支えた。やがて音曲漫才で人気のかしまし娘の正司家で女中に。芸事に縁がないのに津軽三味線を弾く姉妹とトリオ結成を勧められ、62年、ちゃっかり娘としてデビュー。

 一方、玲児さんはその頃、横山ノックら漫画トリオの事務所で働いていた。敏江さんに惚れ、芸人に手を出したと責められるが、64年に結婚。敏江さんは芸事を離れ、アパートの管理人になる。女児を授かるが生活は苦しい。かしまし娘の正司歌江さんに夫婦漫才を勧められ、正司の名を使うことも許された。こうして68年、正司敏江・玲児が誕生する。

「最初は普通の漫才でした。敏江ちゃんは台本の覚えがよくなかった」(相羽さん)

 漢字が苦手で台本にふりがながつけられていた。それでも読むのが面倒でアドリブ任せ。ある日、舞台で言葉に詰まった敏江さんに玲児さんは激怒し、叩いて突き飛ばした。ネタと思ったお客は沸いた。これがどつき漫才の原点である。

 翌69年に上方漫才大賞の新人賞。全国的なスターに。

 放送作家の保志学さんは思い出す。

「勘所が素晴らしくて、お客さんの生の反応、舞台の呼吸をつかむ力が抜群でした。考えた笑いではなく、本能的で華がありました」

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