ヤクルトVSオリックスの日本シリーズは過去3回 大杉勝男の本塁打を巡って乱闘、ID野球に封じ込められたイチローを振り返る

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 今年のプロ野球日本シリーズは、ともにリーグ優勝チームの東京ヤクルトスワローズ対オリックス・バファローズという顔合わせになった。この対戦はオリックスの前身だった阪急ブレーブス時代を含めると2度、近鉄バファローズ時代にも1度あり、今回が4度目となる。過去3回の対戦を振り返ってみたい。

 最初の対戦は1978年だった。パ・リーグ代表の阪急は、名将・上田利治監督が率い、前年まで日本一3連覇を達成。まさに黄金時代を迎えていた。対するセ・リーグ代表のヤクルトは広岡達朗監督の指揮のもと、初出場を果たした。戦前の下馬評は当然のように阪急が圧倒的有利とされていた。加えてヤクルトには1つの不安要素があった。本拠地の神宮球場が使用できなかったのだ。日程が大学野球の開催日と重複していたためで、シリーズのナイター開催、または大学野球のナイター開催が検討されたものの、折り合いがつかず。よって、ヤクルトの主催試合は後楽園球場で行われることとなった。

 シリーズは“横綱”阪急に、“新鋭”のヤクルトが胸を借りる形でその幕が開いたが、いざ始まるとヤクルトが予想外の大健闘。エース・松岡弘が先発にリリーフにと大車輪の働きをみせ、第5戦を終わって3勝2敗と日本一に王手をかけた。だが、このまま終われない阪急は第6戦でヤクルト投手陣を打ち込み、12-3で大勝を収める。快勝で逆王手をかけたことで流れは阪急に傾いたという見方が大半を占めるわけだ。

シリーズ最長の中断事件

 迎えた運命の第7戦。ヤクルトは3度の登板がいずれも勝利に結びついている松岡、一方の阪急は第3戦を完封し、76年の第7戦から続くシリーズ無失点記録を21イニングに伸ばしている足立光宏の先発で試合開始となった。試合は5回裏にヒルトンの適時内野安打でヤクルトが1点を先制し、足立のシリーズ連続無失点記録を25回でストップさせると、続く6回裏、1死から主砲の大杉勝男が放った打球が大事件に発展することとなる。

 打球は左翼ポール際への大飛球となりスタンドへ落ちたが、フェアかファウルか微妙な当たりであった。しかしレフト線審の富澤宏哉は「ポールの上を通過した」と判断し、ホームランと判定。するとこれを不服とした上田監督が左翼ポール下まで行き、「ポールの左側を通過したからファウル」と猛抗議、さらに全選手をベンチに引き上げさせる事態にまで発展してしまう。

 こうして全審判と阪急首脳陣、レフトを守っていた蓑田浩二など一部の選手も交えて協議を続けたが、結論に達することはなかった。この間、興奮したファンが外野スタンドから飛び降り、三塁側ベンチ裏で阪急の応援団とつかみ合いのケンカを始めるなどして騒ぎが大きくなっていく。この事態を見かねた金子鋭コミッショナー、工藤信一良パ・リーグ会長がグラウンドへ来て上田監督を必死に説得。最後はオーナー代理、球団代表が「なんとかゲームを始めるように」と説得し、ようやく抗議が取り下げられたのである。中断時間は1時間19分にも及び、シリーズ史上最長となった。

 この後、阪急は先発の足立からルーキー左腕の松本正志にスイッチするも、マニエルにソロを浴び、さらに突き放される。8回裏にはエース・山田久志が大杉に2打席連続となる左中間スタンドに飛び込むソロを打たれ、万事休す。

 4-0で快勝したヤクルトは4勝3敗。シリーズ初出場で日本一に輝いた。実に球団創立29年目での栄冠であった。この日本一により、セ・リーグは73年の読売ジャイアンツのV9以降、パ・リーグに奪われていた覇権を奪回したのだった。

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