城下町はグルメの宝庫? 現存する「12天守」とともに楽しめる郷土料理一覧

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「天守代用」の三重櫓

 全国の城に設置された案内板を読んでいると、「天守代用」という言葉をよく目にする。1615(元和元)年、江戸幕府が「武家諸法度」を公布すると、天守の新造が規制された。これを受け、天守に匹敵する三重櫓を築き天守の代用とする城が多くあったのだ。

 1810(文化7)年に再建された弘前城天守は、天守代用の櫓だ。初代天守は落雷により焼失したため、本丸辰巳櫓の改築という名目で幕府の許可を取得し、三重櫓が建てられ、天守代用とされた。城外側の壁面に破風や出窓などの装飾がつくのに対し、城内側には窓しかないのはそのためだ。天守は4面に装飾を施すが、櫓は基本的に城内側には装飾がつかない。

 1660(万治3)年に建造された丸亀城天守も、同じく天守代用の三重櫓だ。丸亀城は1615(元和元)年の一国一城令により廃城となるも、1641(寛永18)年に丸亀藩が立藩し復活。初代藩主となった山崎家治により現在の姿へ大改修された。3重3階の現存天守は、山崎家断絶後に京極高和が建造。天守の鬼瓦や丸瓦には、京極家の家紋・四つ目結紋が輝く。

 小さな天守が城下から少しでも大きく見えるよう工夫されたようで、正面には左隅に出窓のような張り出しを設け、素木の格子をつけてデザイン性を高めている。よく見ると、最上重の東西の棟側が極端に短い、不思議な構造だ。一重目が東西に長い場合は最上重の入母屋屋根の棟は東西に向けるのが一般的だが、丸亀城天守の棟は南北に向く。これも、北面に入母屋破風の妻面を向けて大きく見せようとしたためだろう。

63年ぶりの国宝天守

 現存12天守のうち、国宝指定されている5棟を擁する城(姫路城・彦根城・松本城・犬山城・松江城)を「国宝5城」と呼ぶ。長らく「国宝4城」だったが、2015(平成27)年に松江城天守が五つめの国宝に指定された。国宝天守の誕生は実に63年ぶりだった。

 国宝化の決め手のひとつは、独自の建築技法の解明だ。最大の特色は、通し柱の使い方。姫路城天守が地階から6階の床まで貫通する2本の通し柱(心柱)で支えられているのに対し、松江城天守では地階と1階、1階と2階、というように2階分の通し柱を交互に配置して荷重を分散させている。長大な通し柱が調達できず、代替策として編み出された工法だろう。

 さすがは豊臣秀吉のもとで実戦経験を積み、城づくりの技術を磨いた堀尾吉晴の築造と唸らされる。天守から附櫓に向けた狭間や隠し石落としなど、天守に軍事的側面が強い設計も、乱世を生き抜いた武将ならではかもしれない。幕府に対する配慮も見え隠れし、秀吉政権の栄華と憂いを感じずにいられない。

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