米国「原爆警告ビラ」は本当にあったのか アメリカ人の“正当性”主張の根拠を徹底検証

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内容を吟味すると

 しかし、このビラにはつぎのような一文がある。

「そのためにソ聯は日本に対して宣戦を布告したのである」。したがってこのビラが作られたのは、ソ連が日ソ中立条約を破る8月9日以前ではなく、いくつかの都市に撒いたのも、そのあとだと普通は思う。

 また、その先の文章にも「広島に唯一箇だけ投下された際」とあるから、ここでも8月6日以降ではないかと考えるのが普通だ。だが、冒頭でも述べたように、日本人でこのビラをしっかりと読んでいた人はいなかっただろうし、アメリカ人にしても「予告ビラをばら撒いた」という、思い込みありきで、このビラを精読しているとは思えないのだ。

 ソ連参戦については、ビラを原爆投下の事前警告だと思いたい人は、「アメリカは、同盟国ソ連が8月9日に対日参戦することを当然知らされていただろうから、8月6日作成のビラにそのことを書いても不思議はない」と言い張るだろう。

 拙著『原爆 私たちは何も知らなかった』(新潮新書)にも書いたように、実際には、アメリカは、8月9日に実際にそれが起こるまで、ソ連の対日参戦を知らなかった。

 トルーマンがポツダム会談中つけていた日記の7月17日の記載にしたがえば、スターリンは彼に8月15日あたりに参戦すると告げていた。だから、トルーマンは完成したばかりの原爆を8月はじめに使用することにこだわった。

 ソ連が参戦しないうちに原爆によって日本を降伏に追い込めば、ヤルタ極東密約、つまり対日参戦と引き換えに、南樺太、千島列島、満州の権益をソ連に与えるとした約束は無効にできるからだ。

 トルーマンが広島への原爆投下が成功したと知ったとき、彼は「してやったり」と思っただろう。日本はこれによってすぐにでも降伏するだろうから、ソ連の参戦はもう間に合わないと思ったはずだ。

 だが、スターリンは、「無理だし、危険だ」と渋るアレクサンドル・ワシレフスキー将軍を叱咤して8月9日に満州侵攻(8月の嵐作戦)を敢行させた。これは、トルーマンにとって予想外のことだった。

 このことから、アメリカ軍がソ連から事前に参戦の日付を知らされていて、8月9日以前にビラにそのことを書けたという可能性は消える。

 このビラは8月9日以後でなければ、作成できなかったし、日本の都市にばら撒くこともできなかったのだ。原爆投下の事前警告はあり得なかった。

 さらにダメを押すと、そもそもアメリカ側は、真珠湾の生き残りストラットンの思い込みとは裏腹に、日本に対して原爆投下の事前警告をしないことを決めていた。原爆と原子力の使用について大統領に助言する暫定委員会は、1945年5月31日の会合で、原爆を軍需工場で働く労働者の住宅がある都市に「無警告」で投下すると決めた。

 陸軍長官のヘンリー・スティムソンはこの決定を尊重して、自らが作成していたポツダム宣言(正式名称「日本の降伏条件を定めた公告」)に原爆投下を意味するととれる文言は入れないことにした。それを、ポツダム宣言発出の最終段階になって「さもなければ、迅速で徹底的な破壊がもたらされるだろう」というこの宣言の最後の一文を加えたのは、親日家で知られる国務次官のジョセフ・グルーだった。

 彼はこれによって気が付いてくれればと願ったのだが、日本側はこれが何を意味するのか理解できなかった。グルーですら、暫定委員会の決定がある以上、原爆の事前警告をより強く匂わす文言を入れることができなかったのだ。

 アメリカ軍は当然ながら暫定委員会の決定に基づく政権幹部の命令に従った。だから、歴史的事実として、原爆の投下を予告するビラは撒かれなかったし、他の方法でも事前に日本側にそれが通知されることはなかった。

ビラを撒いた目的とは

 では、広島、および長崎への原爆投下の事前警告でないとすれば、前に見たビラの目的はなんだったのだろうか。その答えは、アメリカのスティーヴンス工科大学助教授でアメリカの核兵器開発の歴史に精通するアレックス・ウェーラースタインがウェブ記事「遅すぎた日」(“A Day Too Late”)で出してくれていた。長い話を短くするとこういうことだ。

 このビラは、広島への原爆投下の1日あとの8月7日にヘンリー・アーノルド将軍が作成を命じたものだ。目的は、広島市周辺以外に居住する日本人に早期降伏を呼びかけるためだった。つまり、原爆投下の事前警告でなく、早期降伏を促すプロパガンダだったのだ――。

 彼はこれを人口10万人以上の47都市に600万枚ばら撒くつもりだった。だが、文面を日本人捕虜にチェックさせるなどして手間取ったために、8月9日を過ぎてもこの作戦を実行できなかった。

 そうしているうちにソ連が対日参戦してしまった。だから、そのことがビラの文中で言及されることになった。こうすれば日本人に与える心理的ダメージがさらに大きくなるからだ。

 かくてビラは8月10日以降に、当初の計画をかなり縮小したうえで、いくつかの日本の都市にばら撒かれた。だから、ビラの現物が今も残っているのだ。

 真珠湾で日本軍は卑怯なだまし討ちをし、一方、アメリカ軍はそのようなことをしなかったとストラットンは主張したかったのだろうが、こと原爆投下に関しては、無数の無辜(むこ)の民の命が奪われることを知りながら、アメリカも同じことをしていた。そして、真珠湾攻撃のおよそ3千人の犠牲者に対して、広島と長崎のそれは桁が二つも違っていたのである。

 あるいはストラットンおよびトルーマン擁護の歴史学者たちは、8月6日のトルーマンの原爆投下についての声明が長崎への投下の予告になっていると主張するかもしれないが、長崎の名前を示さない限り、数万の市民が事前に避難することはできなかった。

 また、日本軍が理化学研究所の仁科芳雄を広島に派遣したのは8月8日で、投下されたものが原爆だと判明するのは8月10日だった。つまり、日本側が広島に投下されたのは原爆だということをはっきり認識し、その威力を確認したのは、長崎への投下のあとだった。やはり、はっきり「広島と同じものを長崎に投下するので避難せよ」と明確に警告しない限り長崎の惨劇は避けられなかった。

 こういったことを踏まえると、腑に落ちないのは、トルーマン大統領図書館のデジタル・アーカイヴが、去年までは、このビラの作成の日付を8月6日としていたことだ(現在は10日になっている)。これによって、広島の原爆投下の事前警告のビラであるかのような印象を与えてしまっていた。

 裏を返せば、これは、トルーマンの決定を擁護するアメリカ人たちのなかにも、国際法に違反した非人道的な原爆の無警告投下を気に病んでいる人々がいるということではないだろうか。

 アトミック・ヘリティジ財団もこの「予告ビラ」を掲載していたが、最近、前述のウェーラースタインのウェブ記事のリンクを貼ってこのビラの作成にまつわる経緯を明らかにしている(註2)。トルーマン大統領図書館もそうすべきだろう。

(註1)検索サイトで「原爆投下ビラ」と検索すると、同文のビラはたくさん見つかる。

(註2)https://www.atomicheritage.org/key-documents/warming-leaflets

有馬哲夫(ありまてつお)
早稲田大学教授。1953年生まれ。早稲田大学卒。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。メリーランド大学、オックスフォード大学などで客員教授を歴任。著書に『原発・正力・CIA』『歴史問題の正解』など。

週刊新潮 2021年8月26日号掲載

特集「米国が正当主張の証文 『原爆警告ビラ』は本当にあったのか」より

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