理研が脱毛、薄毛を克服する「毛髪再生医療」を開発  実用化のタイミング、費用は?

ライフ 週刊新潮 2021年7月29日号掲載

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 日本を代表する自然科学の研究機関「理化学研究所」のチームが、脱毛症や薄毛を完全に克服する世界初の治療法を確立した。国内だけで2400万人という、男性型・女性型脱毛症患者への福音はいかに実現されたのか。開発責任者が語った“夢の技術”のレポート。

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 新東京国際空港(現・成田国際空港)が開港し、日中平和友好条約が締結された昭和53年、遠ざかって行くカウボーイに向かって、少年が「シェ~ン! カミ(髪)バ~ック!」と叫ぶ西部劇風のアニメCMがあった。

 第一製薬(現・第一三共ヘルスケア)が売り出した、脱毛予防・発毛促進・育毛剤の「カロヤン」の宣伝で、「抜け始めて分かる、髪は長~い友達」とのキャッチコピーで話題を呼んだ。ご記憶のある読者の中には「もはやカミバックなんかできない」と嘆息している方もいるかもしれない。

 そうした薄毛に悩む人々が待ち望んだ朗報が、業界の内外で注目を集めている。先の育毛剤などに頼るものとは一線を画し、先端科学を用いた研究の賜物で、いうなれば「人体の器官を丸ごと再生する技術」でフサフサの髪を蘇らせるものだ。

「私のチームは、この技術を『器官原基法』と呼んでいます。2007年(平成19年)にイギリスの科学雑誌『ネイチャーメソッズ』に、歯や髪の毛が再生できることを証明した論文を発表したところ、国内にとどまらず、世界各国から大きな反響がありました」

 こう語るのは、兵庫県神戸市の理化学研究所生命機能科学研究センターで、器官誘導研究チームを率いる理学博士の辻孝氏(59)だ。

「ただ、この時は細胞の正しい組み立て方を開発したことを報告しただけで、何かを再生したわけではありませんでした。にもかかわらず、それこそ世界中から私宛てにメールが届きましてね。中には“ボランティアとして日本に行くから、俺の頭を実験に使ってくれ。とにかく早く実現させてほしい”という切実な訴えもあったほどです。一方で、どこかで私の顔写真でも見た方なのか“本気で実用化を急いでほしい。あなたは脱毛症に悩んでいるように見えないが、本当に真剣に研究しているのか?”といった声も寄せられました。改めて、世界中の多くの人にとって、薄毛や脱毛症は深刻な悩みだということを痛感しました」

 早速、研究内容を伺うと、

「私たちが研究しているのは『毛包』という髪の毛を作り出す“工場”と、さらにその元となる『毛包原基』と呼ばれる毛包の“タネ”になるもの。毛包は人体を形成する『器官』のひとつです。複数種類の細胞が集まって固有の機能や構造を持つに至ったもので、耳や目もそうだし、臓器と呼ばれる心臓や肺、胃なども器官に含まれる」

 辻氏は「究極の再生医療は器官を作ること」と言う。キーワードはあくまで「器官」なのだ。

「例えば、肝臓を丸ごと1個作り、ガン患者のそれと入れ替えるという治療法です。ただ、大型で機能や構造が複雑な器官は再生する際の難度があまりに高い。そこで同じ原理を利用できる実験モデルとして、歯や毛髪の器官再生を目指しました。ここで技術が確立できれば、将来的には肝臓をはじめとする臓器の再生にも応用できると考えたからです。結論から言えば、その一歩はすでに始まっているんですよ」

 その辻氏は、新潟大学大学院の理学研究科を修了後、山之内製薬や日本たばこ産業など民間企業の研究施設を渡り歩いた。それらに在籍した当時は血液細胞の研究、とりわけ白血病治療のための造血幹細胞(骨髄細胞)や肝臓の再生をテーマにしていたという。

 辻氏が独自開発した毛髪再生のメカニズムを紹介する前に、その前提となる再生医療の原理を詳らかにしておく必要がある。

 再生医療における技術開発は、三つのステージに分類される。

毛髪の“タネ”

 第1ステージは骨髄移植のように幹細胞を移入して行う治療法だ。その代表例が急性骨髄性白血病患者への造血幹細胞移植で、東京五輪に出場する女子競泳の池江璃花子選手(21)が一昨年に受けた治療法も、この造血幹細胞移植だった。

 続く第2ステージは人体の組織を再生するもの。例えば、腕や足などに酷い火傷や熱傷を負った際、お尻や背中の皮膚を採取・培養して患部に張り付ける治療法。これは皮膚という同じ細胞種を組織化して移植する治療法だ。

 そして辻氏が率いるチームが取り組む再生医療が、第3のステージだ。

「人間を含め、哺乳類の身体は受精後の初期発生から作られ始めます。哺乳類のほとんどすべての器官は、それを作り出す能力を持つ上皮性幹細胞と間葉性幹細胞という2種類の細胞からできています。この二つを上手く組み合わせることで、細胞同士がコミュニケーションを取ってあらゆる器官や組織の元になる細胞の塊である“タネ”に相当する器官原基を作ります。使う幹細胞の種類を変えるだけで歯や毛包はもちろん、臓器を含めたさまざまな器官原基を作ることが可能。つまり、それぞれのタネを、器官が本来ある場所に移植すれば、後は増殖と分化を繰り返して器官固有の形と機能を獲得していきます」

 本来ある場所での再生とは、髪の毛なら頭部、歯なら口の中、心臓や肺なら胸部に移植するということ。米なら田んぼに稲を植え、キュウリは専用の畑にタネを蒔いて生育を待つのと同じ理屈だ。

「器官原基を作る際に、上皮性幹細胞と間葉性幹細胞を一緒に培養する必要があることは、かねてから研究者の間で知られていました。ただ、長らく効果的な培養方法が見つからなかったのです。その点、私たちはネバネバした液体コラーゲンの中に、高い密度で区画化したおよそ10万個の上皮性幹細胞を入れ、そこに間葉性幹細胞をピッタリ貼る方法により、生体内、つまり人間の体内と同じ環境を作り出すことに成功したのです」

 こうして作られる器官原基の大きさは、約100マイクロメートル(0・1ミリメートル)。顕微鏡でしか目にすることができない極小さだ。

「本来、器官のほとんどは胎児期にしか作られません。そのため心臓や肝臓、胃などのひとつしかない器官(臓器)が機能不全に陥れば、代わりに新たな臓器を入れ替える治療法、いわゆる移植治療を受ける必要が出てきます。ところが例外的なのが人間の歯です」

 人間の歯は、最初に乳歯が生えてくるが、6歳前後になるとそれが抜け落ちて永久歯に生え替わる。理由は、母親の胎内にいる時に歯胚と呼ばれる歯の器官原基を二つ授かって生まれてくるからだという。

「そこで私たちは最初の実験をマウスの歯で試すことにしました。09年のことです。器官原基法で作った歯胚を成体マウスの歯を抜いて歯がない状態にした歯茎に移植したのです。すると、神経線維もそろった完全な歯が新たに生えてきた。これで器官原基法が、正常な組織構造を有する新たな器官を再生できると実証できたのです」

 さて、問題は頭髪である。すでに触れたように、人間のほとんどの器官は胎児の時にしか作られることはない。ところが人体には周期的に再生を繰り返すものがあった。言うまでもなく、頭髪や体毛などの毛髪である。

 頭髪を例にその構造を見てみると、毛髪は皮膚の上に出ている毛幹と皮膚の中に埋もれている毛根の部分とに分けられる。毛根の最も深いところには毛乳頭と毛母細胞があり、毛球と呼ばれる。

 毛包は「毛髪の製造工場」といわれ、一定期間ごとに毛髪を生み出していく。その周期が「毛周期」で、〈初期成長期→後期成長期→退行期→休止期→脱毛〉というサイクルを繰り返す。古いものが抜けて新しい毛髪が生まれるのが初期成長期で、その後は後期成長期まで成長、つまり伸び続ける。毛周期には個人差があるものの、頭髪は男性で3年から5年、女性は4年から6年とされている。成長期は生えている場所によって異なり、眉毛は1カ月から2カ月、睫毛は3週間から1カ月、手や腕などの産毛は約2週間とされている。頭髪が他の体毛と違って数十センチから数メートルの長さまで伸びるのは、飛び抜けて成長期が長いからだ。

 退行期には成長が止まり始め、やがて寿命を迎える休止期になると、その務めを終えることになる。

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