歴代指導者が語る「阿部一二三・詩」意外な過去 「詩はお兄ちゃんと違い柔道が嫌いだった」

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 7月25日、柔道男子66キロ級代表の阿部一二三(ひふみ)(23)が妹で女子52キロ級代表の阿部詩(うた)(21)に続く金メダルを獲得。過去に例のない「夏季大会での兄妹金メダル」を達成した。ノンフィクションライターの柳川悠二氏が歴代の指導者に取材。その軌跡を追った。「週刊新潮 別冊『奇跡の「東京五輪」再び』」より(内容は7月5日発売時点のもの)

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 もう7年も前になるというのに、あの日、柔道界に走った衝撃が忘れられない。2014年、秋の日本一を決する講道館杯の66キロ級に、無名の高校2年生が出場した。年上の柔道家を威嚇するように、ふてぶてしく口を大きく開閉しながら立ち向かっていく。

「阿部一二三」という劇画的な名前と共に、相手を次々と背負い投げでなぎ倒していく様は会場にいるすべての者を魅了し、頂点にたどり着く。柔道界に新星が誕生した瞬間だった。

 のちに一二三の師となる日本体育大学の山本洋祐総監督は、その日抱いた印象をこう振り返る。

「技術が優れ、柔道センスにあふれていた。体幹が強く、道着を掴んだら相手を引き抜くように畳に叩きつける。古賀稔彦を彷彿とさせる、まさに人を投げるために生まれてきた柔道家と思いました」

 2年後の16年12月、今度は女子柔道界にも新たなヒロインが登場する。袖釣り込み腰、内股という電光石火の大技で国際大会であるグランドスラム東京の女子52キロ級の準優勝に輝いたのが、一二三の妹・詩だった。兄を真似るように口をパクパクしながら相手に立ち向かう、笑顔の愛くるしい16歳は、翌年2月、世界の猛者が集まるグランプリ・デュッセルドルフを史上最年少で制し、東京五輪に向けた代表レースにも名乗りを上げた。

 男子66キロ級と女子52キロ級は、五輪では同日に開催される。自ずと兄妹同日Vの機運と期待が生まれた。

 7月25日、23歳の一二三と21歳の詩は共に東京五輪の柔道会場である日本武道館の畳に上がる。

 兵庫県に生まれた一二三が道着に初めて袖を通したのは6歳の時だ。両親に連れられ兵庫県警の道場を拠点とする「こだま会」の稽古に参加する。初めて会った時の印象について、同会の高田幸博監督は振り返る。

「体が小さく、特別に印象に残るようなことはなかった。数カ月経って、運動神経がよくて、活発な子だなとは気付きましたね。動きが俊敏で、逆立ち歩きができていましたから」

 こだま会では小学1年生から大会に出場する。だが、小学生の大会は階級別ではなく、無差別が基本。ひときわ小さな一二三は体が一回り以上も大きな小学生と対戦しなければならない。技を仕掛けても簡単に崩され、そのまま抑え込まれて敗れるのがお決まりだった。

「消防士であるお父さんがとにかく柔道に熱心で、一二三に対して厳しかった。だから一二三はよく泣きべそをかいていました。今では有名な話ですけど、小学3年生で女の子に負けたことが悔しくて、一二三のやる気に火が付いた。稽古がない日も、公園などを使ってお父さんと二人三脚でトレーニングを始めた」

 一二三には2歳上の兄がいる。だが、当初、兄は柔道をやっていなかった。一二三からすれば、「どうして僕ばかり道場でつらい目に遭うんだ」という気持ちが芽生えるのも仕方ない。弟思いの兄も、涙にくれる一二三を不憫に思い、しばらくして道場に通い始めることに。「昔から3兄妹仲が良くて、模範的な家庭でした」と高田氏は証言する。

 この子は強くなるかもしれない──そうした期待を高田氏が抱くようになったのは、柔道を始めて4年が過ぎた小学4年生のあたりだ。

「自分の力が通用しないとわかっていても、果敢に技を繰り出す。普通の小学生なら、相手が体が大きくて強ければ、諦めが入ってしまうもの。一二三は、ダメでもダメでも、繰り返し技を掛けていた。伸びるのは間違いない。ただ、どこまで伸びるかはやはり、分からなかった」

 柔道指導者として、高田氏が子どもたちに与える使命は、「一本を狙い続ける」ことだ。果敢に技を仕掛けて敗れたのなら何もいわず、最初から相手の反則を誘うような柔道をした子には厳しく叱咤することもあった。その点、一二三はいわば高田柔道の体現者であった。

 そして、兄に遅れること2年、こだま会の練習に5歳でやってきたのが詩だ。もともと兄の応援も兼ねて見学には来ていた。高田氏もいずれ柔道をやりたいと口にするだろうと期待していた。ところが──。

「ご両親は女の子だから柔道を薦めなかったみたいです(笑)。しかし、詩自身が、一二三の練習を見てやりたくなった。いつもニコニコして天真爛漫でくよくよしない。お兄ちゃんみたいになりたいと、口には出さずとも道場内の立ち居振る舞いで伝わってきました」

 一二三は小学生時代、一度も全国大会には出場していない。詩は5年生、6年生と兵庫県1位となって全国の舞台を踏んだが、兄妹の名が日本中に轟くのはもう少しあとのことだ。

ゲン担ぎは…

 一二三と詩は、小学生の頃から、地元・兵庫の強豪校である神港学園や夙川(しゅくがわ)学院の稽古にも参加し、高校生の胸を借りていた。神港学園の信川厚総監督が当時を振り返る。

「一二三に『どんな柔道を目指すのか』と問うと、『どんな相手でも一本を獲りにいきたい』と口にしていた。しっかり相手と組む日本の柔道をやろうという姿勢は当時から貫いていました」

 実家のある学区の公立中学校には柔道部がなく、一二三は住民票を移して神戸市中央区の神戸生田中学に入学する。しかし、顧問の先生はラグビー経験しかなく、そこでも本格的な指導は受けられない。一二三は神戸生田中の柔道部に籍を置きながら、神港学園で稽古して技を磨いていく。

「中学2年生で県大会を制し、全国中学校柔道大会(全中)でも55キロ級で優勝した。3年生となって60キロ級でも勝って、全中を2連覇した。この時は、初戦から決勝まで、すべての試合時間を足しても4〜5分だったんじゃないでしょうか。中2までは柔道に力強さが感じられなかった。中3になって、体のバネが活かせるようになった。背負い投げも、基本に忠実な形だけでなく、変形から強引に相手の懐に入って投げてしまう。圧倒的に強い。そう思いました」

 神港学園に進み、66キロ級に階級を上げると、15歳から17歳までの選手が集う全日本カデを高1から連覇し、2年夏にはインターハイも制した。そして、あの日の講道館杯に続く。

「本当は20年の東京五輪を目指していたんですが、講道館杯を制し、直後のグランドスラム東京でも優勝した(いずれも国内男子最年少)ことで飛躍的に柔道が伸びていった。いつしか目標が前倒しになり、16年のリオ五輪が視界に入った」

 顔の筋肉を弛緩させるように口を大きく開ける仕草を畳の上でするようになったのも、世界を意識しだしたこの頃からだ。そして、信川氏は一二三の意外なゲン担ぎも打ち明けた。

「勝負の日は赤いパンツ、今の時代はスパッツ言うんですかね。あれを穿くらしいですわ。昔はフルチンが当たり前でしたが、あれを穿くとキンタマがカチッとなるらしいんですわ(笑)」

 世界に飛び出して行くその頃、一二三が私にこんなことを漏らしたことがある。憧れの柔道家として五輪3連覇の野村忠宏の名を挙げ、こう続けたのだ。

「五輪3連覇しただけでは野村さんを超えたことにはならない。4連覇したい」

 怖いもの知らずの高校生が発した放言ではなく、内包する志を口に出すことで現実的な目標に昇華していくタイプのアスリートだった。実際にリオの代表を勝ち取ったのは、12年ロンドン五輪銅メダリストの海老沼匡だったが、いずれ一二三の時代が訪れるのは柔道界の誰もが確信していたことだ。

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