金融系の企業から老舗銭湯に転職 「小杉湯」番頭のレイソン美帆さんの人生を変えた瞬間とは

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自分の歴史が動いた瞬間

 高円寺の老舗銭湯「小杉湯」の番頭・レイソン美帆さん。たくさんの笑顔に囲まれる今とは対照的に、かつての彼女はドライな金融マンだった。その転機とは?

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 大学を卒業して金融系の企業に入った私は、いつも一人だった。業務中の会話は必要最低限。ランチも一人で食べるし、部署の飲み会にも行かない。なるべく人と関わらないように毎日を過ごしていた。

 それが今では街の銭湯で働き、仕事とプライベートの境もないくらい、常連さんやスタッフたちと楽しい日々を過ごしている。「みほちゃん、小杉湯で働いてみない?」と声をかけられたとき、私の歴史は動いたのだ。

 7、8年ほど前のある日、ふと「大きいお風呂に入りたいな」と思い立って、家の近所にあった銭湯「小杉湯」に足を運んだ。小学生以来の銭湯。昔懐かしい空気の中で湯船につかっていると、体の中に溜まっていたものが流れ出ていくような感覚を覚えた。「ああ、来てよかったな」。心からそう感じて、次の日もその次の日も足を運んだ。音楽にしろ食べものにしろ、好きだと思ったら毎日でも飽きずに聴き(食べ)続けられるタチなのだ。通い続けて3カ月、半年、1年と月日は流れ、顔見知りも増えた。何も隠すものがない空間だからか、銭湯でなら人とも気張らずに話すことができた。

「信用できるのは自分だけ」と思っていた

「ここで働いてみない?」と声をかけられたのは通い始めて1年半ほど経った頃だった。最初は週に1日のアルバイトだったが、仕事にのめり込むのに時間はかからなかった。番台で受付をする。洗濯したタオルを畳む。備品をチェックして補充する。お風呂を隅々まで掃除する。どの仕事も楽しくて、気づけばあっという間に時が経っている。「週に1日」は2日、3日と増えていき、ついには小杉湯に転職することを決めた。「こんなに自分に向いている仕事があるなんて」と心から思えるくらい、銭湯の仕事が性に合っていたのだ。

 金融の仕事をしていた頃はずっと「信用できるのは自分だけ」「自分で決めたことが正しい」と思っていた。そうじゃないとわかったのはここで働き始めてからだ。だって、銭湯の仕事に向いているなんて自分じゃ絶対に気づけなかったから。初めて「人に身を委ねてみるのもいいのかもしれない」と思えた。「信頼する」とはどういうことか、私はここで教えてもらった。「人と関わらない主義」が崩壊したどころか、今ではお客さんやスタッフや街の人と日々触れ合うのが本当に幸せだ。

 今はコロナウイルスの影響で気軽におしゃべりするのは難しいけれど、その代わりに手を振ったり目が合ったときにニコッとしたりして精一杯コミュニケーションをとっている。言葉を介さない会話は、相手のやさしさや気遣いをよりダイレクトに感じられる気がして、逆にスタッフやお客さんともっと親密になれたように感じる。毎日「あの人が喜ぶ顔が見たい」と思って働いているなんて、昔の私が知ったらきっと驚くだろう。

 自力で頑張るのも悪くないけど、人を信じて委ねてみるのもいいものだよ。一人でいたあの頃の私みたいな誰かにも、そう伝えたい。

レイソン美帆(れいそん・みほ)
1986年宮崎県生まれ。上京後、高円寺の老舗銭湯「小杉湯」に通う。2017年、銀行員の職を捨て「小杉湯」の番頭に。

2021年7月17日掲載

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