アントニオ猪木氏が語る「イラク人質救出劇」、直観力で捉えたサレハ議長の“サイン” とは

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そして平和の祭典が実現したが…

 翌10月の2回目の訪問では、平和の祭典の開催で合意する一方、平和の祭典に日本人人質の妻を連れていく意向を伝えた。相手は最初の会談で、ウマが合うと感じたサレハ議長。「『もし人質の奥様方が一緒に来たら、迎えてくれますか』と尋ねました。すると『ああ、その時に一緒に帰れたらいいですね』と漏らした一言をしっかりと捉えましてね。ほんとに言葉の機微ですよね。これはもう直感力みたいなものです」

 事態が長期化し、健康状態が危ぶまれ始めた人質解放に向けたかすかなサイン。物事を判断する時に、猪木が何よりも大切にする「直感」は、言葉の機微を逃すことなく、見事に捉えた。そしてその直感は、結果的に当たることになる。

 12月に首都バグダッドで開催された平和の祭典には、日本人人質の42家族46人が同行した。条件つきの下、会場で人質と家族の再会がかなうなど、事態打開に向けたムードは高まるばかり。ただ、要人と会談を重ねても、先方から前向きな返事が得られなかった。今回もフセインとの会談は実現できないままで、猪木は焦りの色を濃くした。

 フセインに手紙を書くようアドバイスを受け、ホテルに篭り、人質解放の要求と平和の祭典開催の意義などを記した書簡を書き終えたのは午前4時。数時間後には、帰国便の搭乗手続きを一旦済ませて機内に乗り込んだが、在留日本人会の説得を受け、急きょ滞在を延長した。イラク側が滞在延長を速やかに許可したことに、解放への希望的観測が出てきた。

「とにかく無我夢中でした。イラクの件は、話し始めるとストーリーが長すぎるんで、どこを刻めばいいのか分からないですが、(手紙を書き、イラクに残るのを決めたのは)ひとつの象徴的なシーンですね」と振り返る猪木。そして翌日、フセインの長男・ウダイが「父である大統領の特別令により、皆さんは奥様方と一緒に帰国できることになりました」と人質と家族を前に伝え、人質解放が決まった。全力で書き上げた手紙と滞在を延長したことが、実った瞬間でもあった。

 人質とその家族を連れた猪木の帰国時、史上空前の300人の報道陣が成田空港に駆け付けた。新聞・テレビはイラクでの解放劇、成田で出迎えた家族や会社関係者らとの再会劇を大々的に報じた。解放から1カ月後の91年1月には湾岸戦争が勃発。米国を中心とした多国籍軍が勝利を収めてから30年以上の時が流れた。

「プロレスを馬鹿にする世間、風潮と、長年ずっと闘ってきましたから。ただの1年生議員が、パフォーマンスでも何でもない、自分の体を張って、体ひとつで乗り込み、一生懸命に取り組んだ。俺しかできない、俺以外、誰もできるはずがない役目だと信じていました。よくもまあ潰されなかったと思いますよ」と猪木。絶大な知名度と行動力を武器に成功に導いた「イラク人質解放劇」は、猪木政治の最大の功績として今後も刻まれていく。

(文中敬称略)

小西一禎(こにし・かずよし)
ジャーナリスト。慶應大卒後、共同通信社入社。2005年より本社政治部で首相官邸や自民党などを担当。17年、会社の「配偶者海外転勤同行休職制度」を活用し、妻・二児とともに渡米。20年、休職満期につき退社。米コロンビア大東アジア研究所客員研究員を歴任。駐在員の夫「駐夫」として、各メディアへの寄稿・取材歴多数。今後の執筆分野は、キャリア形成やジェンダー、海外育児、政治、メディア、コーチングなど。『猪木道――政治家・アントニオ猪木 未来に伝える闘魂の全真実』(河出書房新社)は初の著作。

デイリー新潮取材班編集

2021年5月25日掲載

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