仏教思想家が「終活はするべきでない」と指摘する理由 終活ビジネスで財産を奪われるリスクも

ライフ 週刊新潮 2021年5月6日・13日号掲載

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 自らが死んだ後、遺族に迷惑をかけまいと終活に励む人が増えている。しかし、仏教思想家のひろさちや氏はこれに警鐘を鳴らす。実例から学ぶ、終活をすることで生じるトラブルとは。

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 自分の死後、相続で遺族が揉めて欲しくないからといって「終活」に励む人がいます。でも、揉めるかどうかは残された家族の問題だと思うのです。自分が生きている間に、子供たちの仲がうまくいくよう心を砕くのならまだ分かりますが、死後のことはもう口出しできません。ならば生きているうちに旨いものでもたらふく食べ、持っているお金は使い切っちゃえばいい。

 終戦直後、私の母が戦死した父に掛けていた保険金を受け取りに行ったのですが、インフレで保険金は片道のタクシー代にもならなかったと聞きました。ドイツでもハイパーインフレが起こった際、相続したお金を真面目に貯め込んだ人は全部パーになってしまった。ところが、もらったお金を酒で浪費した人は、ビール瓶を売って儲かったという笑い話もあるくらいです。つまりは明日、世の中がどうなっているかなんて誰にも分かりませんから、未来のことを考えても仕方ない。死後のことは後世に生きる人たちに任せましょう。

 どうせ「終活」で遺言書の類を作っても、のちのち遺族同士で、“お前が死んだ父さんに無理やり書かせたんだろう”などと、かえって揉める原因になる。相続や葬式は遺族の問題ですから、自分がしゃしゃり出てはいけない。何も考えず安心して死にましょうというのが、私の考えです。自分の葬式の準備をしておけという人は、じゃあ自ら棺桶担いでくださいという話ですが、そんなことできっこありません。葬式のために費用を貯め指示を遺しても、最後に棺桶を担いでくれるのは遺族ですから、彼らのしたいようにさせるべきです。子供には「お父さんは死ぬ。後は宜しく頼む」と、その一言だけを伝えるだけでいいと思うのです。

 こんな面白い話を聞いたことがあります。仏教徒の男性がクリスチャンの女性と結婚後、妻から「死んだら葬式はキリスト教式でやっていい?」と言われ、しょげかえってしまったとか。だけど「オレの葬式」と思うのが間違いで、葬式は遺族のものと考えれば、どうぞお好きにと言うのが当たり前。その代わり、君が死んだら葬式は仏式でやらせて貰うと言って、仏教徒の意地を見せるくらいでよいのではないでしょうか。

 もともと日本では、葬式と仏教は切っても切れない関係のように思う人も多いと思います。確かに、今の日本の仏教は「葬式仏教」と言われるくらい、死者の面倒をみます。しかし無宗教だった社会主義国、旧ソ連や中国でも葬式はやっていたし、太古を生きたネアンデルタール人にさえ埋葬文化は存在したわけですから、葬式自体は決して宗教の専売特許ではない。じゃあ宗教の役割とは何か。それは人間の「生き方を教える」ということです。

 宗教は人生のいわば羅針盤の役割を果たしてくれるものなのに、今は葬式にばかり顔を出すようになっている。「金儲け仏教」と呼んでもいいくらいですが、事実、日本人は無宗教といわれても「拝金教」を信仰している人は多いでしょう。「終活」だってお金を残したり分けたりと、お金のことばっかり考えているじゃないですか。そもそも「葬式仏教」になってしまったのは、江戸時代に幕府がキリシタン弾圧をしたことが背景にあります。庶民を監視するため寺請制度を作り、寺院の檀家になる仕組みを作った。葬式がお寺の仕事になったのは、この時からなのです。

金儲けのビジネス

 私は仏教徒ですが、遺族に自分の葬式をああしろ、こうしろなんて言いたくない。墓だってどうしてくれても構わない。だって、死んだ後の魂があんなジメジメとしたところにあるわけがないからです。「千の風になって」の歌じゃないけれど、墓の中にも骨壺の中にも私なんかはいません。仏教には「即得往生」という考え方があって、死んだ瞬間に魂はお浄土の世界に行って、仏様が迎えてくださる。それを信じていますから、雲の上からみんなのことを見守ろうとは思っていますが、「終活」のような死んだ後の処理を気にする必要はないのです。

 一応、私も長男で京都に我が家の墓があります。遺族が遺骨をそこに入れたければそうしたらいいし、粉々にして世界のあちこちに捨てて貰ってもいいですな。世間で行われている「火葬してから埋葬」という遺骨の扱い方は、単なる風習のひとつにすぎません。古来の日本では土葬が行われていましたし、それが今では火葬が主になって、再び墓に戻す「火土葬」というべき奇妙な葬り方となった。そうした風習がこのまま続くとは限りません。火葬場の技術も進み、今は骨の形が残る程度に遺体を焼いていますが、もっと火力を強めれば骨も残らず焼き尽くすことも可能でしょう。そうなればお墓や納骨堂、永代供養も必要なくなり、墓をどうするといった「終活」自体が無くなるかもしれません。

 生きているうちに二、三百万円もする墓石を購入したり、永代供養の契約をする人もいるようですが、未来永劫お坊さんが面倒を見続けてくれる保証はどこにあるのでしょう。約束を破られたら、墓場から蘇って告訴できる人だけが契約をすればいい。少子化の波もあり、寺院というのは今後減少していくと考えられます。供養をお願いした寺院が、死後も存在し続ける保証など何処にもないのです。

 昨今の「終活ブーム」は、いわば金儲けのビジネスになっています。流行りのエンディングノートにしろ、葬式にしろ、遺言信託にしろ、必ず誰かがそれでお金を儲けている。政府も銀行もみんな寄ってたかって老人から金を吐き出させようとしている。それに引っかかっている人が多すぎます。私たちは「終活」で、お金儲けをする人たちに奉仕する格好となっていることに、気づいて欲しいですね。それでもキレイに死にたい、畳の上で死にたいとかいろいろ言う人がいると思いますけど、人間どんなに準備したところでいつ死ぬかわかりっこない。それはどんなに万全な「終活」をしていても同じことです。

 知人に大金持ちでがんを患った男性がいて、家族に“畳の上で死にたい”と常々言っていたそうなんです。で、いざ彼が入院したら、娘さんは病院に多額の寄付をして“これで畳の部屋を作って父を入れてくれ”って頼んだとか。まぁ、これは一つのエピソードですが、結局のところ人間がどうやって死ぬかなんてわからないという話なんですよ。

自分のやりたいように

 私自身も2年前に脳梗塞を患いました。自宅で突然倒れ、救急搬送され病院に2カ月入院。左半身不随となって、今でも歩行困難で杖は欠かせません。つらい治療やリハビリ生活が続き「救急車の中で亡くなっていたらよかったのに」と思ったこともありました。

 こんなにしんどい毎日なら、あの時に死んでおけばよかったと……。でも、死というものは、どうあがいても自分では思うがままにはなりません。予期せぬ病気にかかることもあれば、自殺しようとしても死ねなかった、という人もいる。生きている間のことでさえ大抵は思い通りにならないのに、自分の死に方が思い通りになると思いますか。絶対にならないでしょう。明日の自分がどうなるかすらわからないのに、死後の世界までコントロールできると思うこと自体おかしいと思いませんか。何事も自分で操ろうとするのは「人間の欲」の発露なので、今の時代は「終活」も含めてみんなが「欲ボケ」しているんです。

 本来の仏教は“欲を少なくしなさい”と教えているのに、お坊さんまで「終活」に前のめりになっている。やれ戒名だ、読経だと高いお金を取るのはインチキ宗教のやることだと思います。仏教では、「思うままにならないことを、思うようにしようとするから苦しい」と考える。この「苦しみ」を取り除きましょうと説く人もいますが、それは違うと思いますね。何事も、最初から無理に思いどおりにしようとしない。そう考えることが、仏教の教えだと理解して欲しい。私たちは思うようになる範囲の日々の営みだけを、一生懸命に頑張ればいいのです。私自身、脳梗塞になって早く病気を治したいと焦ったこともありました。けれど最近は治る時は治るし、治らない時は治らないもんだと考え直した。それからは、自分のペースでのんびり病人をやらせてもらっています。

 高齢になると、みんなやることがなくなって暇を持て余す。だから「終活」なんてものが流行るのだと私は思います。だったら、私たち高齢者はどのように生きていけばいいのか。そこでヒントになるのが、お釈迦様が生まれたインドの考え方だと思っています。

 インドには「四住期」といって、人生を「学生期」「家住期」「林住期」「遊行期」の四つに分け、それぞれの期間でどう生きるべきかを示す考え方があります。

 まず「学生期」は一生懸命に勉強して人生の真理を学ぶ時期、「家住期」は一家の長として家族を支えたり、家庭を切り盛りして自分の役割を果たしていく時期。それに続く「林住期」は、社会の第一線から退く、隠居生活に移る時期といってもいいでしょう。そして、最後の「遊行期」は気ままに旅をする、日本流に言い換えれば悠々自適に暮らすという意味を指します。

 こうした区分けはインドの法典「マヌ法典」などに出てきますが、日本人もこうした考え方で生きていけばいい。今の日本には高齢者でもリタイヤせず「林住期」の人がいない。生涯現役、エコノミックアニマルとして生き続けろというわけですが、それはアホな考えだと思います。隠居することは何もしないという意味ではないからです。いわば孫の世代に教えを伝える、教育する期間と捉えるべきです。まだ子供が成人していない父親や母親の世代なら、生きていく術や金儲けの仕方を教えなければいけませんが、我々祖父や祖母の世代は違います。孫たちに「のんびり生きなさい」と教える余裕ができる。

 私には孫がいませんが、甥っ子や姪っ子たちがいましてね。彼らの親が「勉強しなさい」と叱り飛ばす横で、「学校なんて嫌なら行かなくていいんだぞ」なんて口を挟んでいました。そうしたら「おじちゃん大好き」と懐かれましてね。高齢者まであくせくした世の中では、自分らしく生きていいんだと話すお年寄りが少なくなってしまった。

 今、私たちがやるべきなのは未来のことなど考えず生きること。一生懸命に働かなくてはいけない。頑張らなきゃいけない。今度は「終活」しなければいけない。そうやって何かに追われて生きるなんてアホらしい。そんな時間があったら、どうやったら自由に生きられるかを考えてください。「自由」というのは「自分に由る」ということ。「終活」もそうですが、現代ではみんな「世間に由って」、周りの目を気にしてばかり。もっと自分のやりたいようにやっていいと思います。

 ちなみに釈迦は「死後について一切考えるな」と教えています。とはいえ仏教では、極楽や地獄という死後の世界があるじゃないか。そういう意見もあるでしょう。しかし、これは便宜的な教えで、「死んだら浄土に行くから心配しなくていい」と教え、今をしっかり生きられるようにしているんです。だから、「死後のことを考え終活しなければ」ということばかりに囚われ、「今」を蔑ろに生きるのは馬鹿らしいと、私は思うのです。

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