KOで意識を失い即入院 死線を超えた赤井英和が語る「俳優業の面白さ」(小林信也)

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 大阪から“浪速のロッキー”の噂が聞こえてきたのは1982年、話題のボクサー・赤井英和がデビュー以来の連続KO勝ちを10試合に近づけたころだった。

 シルベスター・スタローン主演の映画「ロッキー」がファンを興奮させ、続編も3作目もヒットしてロッキーは“強打の英雄”の代名詞になった。その名を借りた“浪速の星”が、大阪・西成で育った赤井だった。

 スポーツノンフィクションを志す若い書き手にとって、ボクシングは魅惑的な分野だ。安全が確保された現代スポーツにあって、ボクシングは生命の危険と隣り合わせだ。その凄絶さ、無常感が単なる勝負を超えた文学性にもつながる。

 沢木耕太郎が76年に出版した『敗れざる者たち』(文藝春秋)の中で描いた輪島功一は鮮烈だった。25歳になった私も早く自分にとっての輪島に出会いたかった。そして、どうだと言える作品をモノにしたいと意気込んでいた。そんな時、出会ったのが赤井だった。

 最初は雑誌「ナンバー」の取材で赤井の所属するジムを訪ねた。開いたばかりのジムの命運を赤井に懸ける津田博明会長に会い、練習を見学し、赤井に話を聞いた。その後、試合の翌朝、テレビのワイドショー出演後に単独取材する機会ももらった。そうした演出は赤井の知名度と人気を盛り上げるため、テレビ局のプロデューサーと津田が練った戦略だった。

KO負けで死線彷徨う

 赤井にまつわる短いストーリーを私は雑誌「ブルータス」に書いている。一節を挙げればこんなふうにだ。

〈世界挑戦が決まった“浪速のロッキー”赤井英和が、チャンピオンづくりの名人、エディー・タウンゼントに弟子入りした。当時エディーが三迫ジムと契約していたため、赤井が単身上京。ジムが開く前の午後の時間を利用して、エディーと赤井のマンツーマンの練習が続けられていた。

 なわとびと格闘し、床にダラダラ汗をしたたらせている赤井を事務室のガラス越しに見つめながら、エディーは大げさに首を横に振った。

「赤井、ボクシング、へたくそねえ」

 弱り顔でそう言ってすぐ、一転表情を和らげ、ボクの耳元に口を近づけて囁いた。

「でも赤井、ハートあるのよ。ナイス・ボーイよ。“エディーさん、これお土産”ゆうてチョコレートくれるの。ボク、おじいさん。チョコレートなんて食べないよ、近所のボウズにあげるだけ。でもうれしい、気持ちがうれしいね」〉

 練習帰りに近くの焼肉店に寄った。安っぽい座敷に座るなり赤井は叫んだ。

「お姉ちゃん、水チョーダイ。ツボでな。ツボに1杯、水持って来てくれはる!?」

 試合まで間があるとはいえ、私は思わず苦笑した。

 赤井は83年7月7日、世界タイトルに挑戦したが、王者ブルース・カリーに7回TKO負けした。再起し5勝を重ねて世界再挑戦が見えてきた85年2月5日、赤井は明らかに格下の大和田正春との試合で7回KO負けを喫し、意識不明のまま病院に運ばれてすぐ開頭手術を受けた。右側頭部のほぼ全域に出血が広がっていた、助かるかどうか五分五分だ、と新聞は伝えた。それから数日、赤井は生死の境を彷徨った。

 その後のことを私はこう記している。

〈赤井を大阪の富永脳外科に見舞った翌日(といっても面会謝絶で病室の外から一日も早い回復を祈っただけだったが)、東京でエディーさんに会った。

「あの日、赤井おかしかったの。1ラウンドか2ラウンドにパンチもらって、それっきりボクたちコミュニケーションなかったのよ」〉

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