舘ひろしが振り返る石原プロ“豪快”伝説 渡哲也に傾倒した理由、裕次郎との間の“微妙な距離感”

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 石原裕次郎が立ち上げ、渡哲也が遺志を継いだ石原プロモーション。その屋台骨を支え続けた俳優・舘ひろし(70)が、「舘プロ」を設立することを発表した。先達の映画作りに対する情熱を繋ぎ、銀幕を背負う決意を新たにした舘が明かす、スター俳優たちとの珠玉のエピソード。

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 裕次郎さんも渡さんも、もう一度映画を作るという夢を果たせないまま亡くなり、石原プロも今年1月に58年の歴史に幕を下ろしました。そうした先輩方の映画にかける情熱、その灯だけでも引き継ぎたいと考え、4月1日に新たな事務所「舘プロ」を立ち上げることになりました。希望の灯を次の世代に繋いでいきたいと思いますね。

〈1979年、舘ひろしは「西部警察」に出演。そこで運命的な出逢いを果たした渡哲也を、戦国武将になぞらえて“お館(やかた)”と呼んで慕うようになり、83年に石原プロへと入社することになる。〉

 それまでは自分の個人事務所があったのですが、「西部警察PART II」で2度目の出演をした際に、コマサの愛称で知られる小林(正彦)専務から「おまえ、石原プロに来いよ」と声をかけられました。何しろ、心酔していた“お館”がいる会社ですから、二つ返事で「わかりました」と答えたのですが、そのことを渡さんに話すと、

「ひろし、この話は俺が預かった。おまえは二度とコマサとこの話をするな」

 石原プロでは、裕次郎さんと渡さんだけが小林専務の直轄のマネジメントで、他の俳優は芸能部の扱いでした。そうしたなか、渡さんは社内で話を通し、僕を小林専務の直轄にするよう、条件闘争をしてくれたわけです。これは本当にうれしかったですね。

 その石原プロでは芝居について指導されたことが一度もありません。芝居の指導よりも、大切なのは遊びで、むしろ夜の銀座の指導に熱がこもっていたような気がします(笑)。とにかく真剣に遊ぶことを叩き込まれた。そして、いろんな遊びの経験が、俳優を続けていくなかで活きてくる。その意味で、石原プロは“おもちゃ箱”と言えばいいのかな。ふたを開けると次々に楽しい遊びが飛び出してくるわけです。以前に出演した、倉本(聰)先生のドラマ「玩具の神様」で、「創るということは遊ぶということ」というセリフがあるんですが、改めてその通りだと感じています。

 石原プロは当然ながら“社長”の裕次郎さんが絶対的な存在でしたが、僕は渡さんの背中だけを追いかけていました。裕次郎さんと渡さんが一緒にセットに入ってきても、僕はまず「渡さん、おはようございます」。次に、「石原さん、おはようございます」という順番。裕次郎さんとしても面白くなかったでしょう。渡さんも気を揉んでいたのか、石原プロに入る前日の晩に自宅まで呼び出されまして、

「ひろし、おまえは明日から石原プロに来るんだからな。“渡プロ”に入るわけじゃないんだぞ」

 要するに、いつまでも“石原さん”じゃなくて、“社長”と呼ぶように伝えたかったのでしょうね。その時、

「これからいろいろ辛いことがあるだろうけど、お互いに傷を舐め合っていこうな」

 とも言ってくれました。

 この言葉はいまも僕の心に刻まれています。

「かき氷を食いたくないか」

 一般的には義理人情に厚く、少々堅物の印象がある渡さんですが、面白いエピソードも山ほどあります。

 当時の石原プロでは、地方のロケーションになると、俳優やスタッフ合わせて100人ほどが、必ず一緒に同じ釜の飯を食うんです。これが大事で、晩飯なら19時に旅館の大広間に集合する。遅刻は厳禁でした。

 全員そろって食事をした後、俳優たちは渡さんの部屋に集まって飲み始める。他の俳優は12時頃に解散するものの、決まって僕だけが「もうちょっといいじゃないか」と呼び止められました。「西部警察」では、翌朝5時半に起きて現場入りするので、僕のロケーション先での睡眠時間はいつも2~3時間でした。渡さんが現場に入るのは正午頃でしたけどね(笑)。

 真夏に広島でロケがあったときも、ふたりで深夜まで飲んでいたのですが、渡さんがいきなり「ひろし、かき氷を食いたくないか」という。ご本人が食べたいんだろうなと気を利かせて「いいですね」と答えました。すると、すぐにマネージャーの小嶋(克巳)さんを叩き起こして、「おう、小嶋。ひろしがかき氷を食いたいって言うんだよ」。

 言い出したのは僕じゃないんですけど……。それはともかく、広島で深夜の2時にかき氷ですからね。さすがに無理があると思っていたら、わずか30分でかき氷が届いた。小嶋さんに訊ねると、「車で広島中を走り回って“氷”という暖簾が掛かっている店のシャッターを片っ端から叩いた」そうです。

 名古屋でも同じようなことがあって、そのときは、ホテルの窓の外にラーメンの屋台が見えたんですね。「ひろし、ラーメン食いたくないか」と言って渡さんが小嶋さんを呼んだので、ラーメンを2杯買って来てくれと指示するのだろうな、と思ったら、渡さんは違いました。

「あそこに屋台があるだろ。あれをさ、ホテルの貸し切りのフロアに上げて、廊下でチャルメラを吹かせてくれ。その音が聞こえたら、きっと俳優やスタッフたちが部屋から出てくるだろう。料金は俺が払うから」

 要は、ホテルの中で屋台を引けと言うんです。小嶋さんは困惑しながらも「わかりました」と返す。結局、屋台が思いのほか大きくてエレベーターに載せられなかったんですけどね。

 石原プロでは、裕次郎さんと渡さんが欲しいものはどんな手段を使ってでも必ず用意する。その点は徹底していましたね。

 87年に裕次郎さんが亡くなり、その明くる年、突然、「ひろし、カニを食べに行こう」と言われて、渡さんと福井の老舗旅館に泊まったこともあります。裕次郎さんが亡くなる前、慶應病院に入院するまで逗留していた、石原プロ御用達の「べにや」さんという芦原(あわら)温泉の旅館です。

 一晩だけのつもりが、温泉に入って麻雀卓を囲む毎日を繰り返し、5日くらい外出もしなかった。その間、ずっとカニなどの日本料理を食べ続けていたので、堪りかねた僕は、「お館、そろそろ肉でも食べたいですね」と進言しました。渡さんは「わかった。それじゃ、今夜は焼き肉にしよう」と言ってくれて、久々に外食できると喜んでいたら、なんと旅館に呼ぶんですよ、焼き肉屋を。大広間を借り切って4、5人で肉を焼きました。あとで聞いたら臭いがついてしまったせいで大広間の壁は全て塗り替えたのだそう。渡さんはその分もきちんと手当をしていた。

 常人離れした発想に触れるたび、これがスターなのかと思い知らされました。

 渡さんにはそういった豪快さと同時に、お茶目な面もありました。

 北海道ロケではこんなことも。ホテルに帰る道すがら、車窓を眺めながら綿棒で耳かきをしていた渡さんが、

「ひろし、アフリカのゾウさんとライオンさんは、耳が痒いときどうするんだろうな?」

 僕は言葉に詰まってしまいましたが、まぁ、“お館”は本当に面白い人なんですよ。その一方で、誰よりも筋を重んじる人でもありました。

「十年早いな」

 84年にリリースした「泣かないで」という曲がヒットして、僕が全国ツアーを回ったときには、岡山のコンサートに渡さんが足を運んでくれました。しかし、僕の泊まっていたホテルにはスイートルームが1室しかなかった。当然のようにその部屋を渡さんに譲ろうとしたら、「ふざけるな。それはダメだ」と頑として聞き入れない。

「ひろし、今日はおまえの看板で来てるんだ。おまえがその部屋に泊まれ。俺はこの部屋でいいから」

 そう言うなり、自分の荷物を布団部屋みたいなところに運び込んで寝てしまった。たとえ後輩であっても、立てるところは立てる。いかにも渡さんらしいエピソードです。

 渡さんに心底、傾倒していた僕は、その分、裕次郎さんとの間に微妙な距離感があったような気がします。まぁ、若い頃の僕は生意気でしたからね。初対面の時からひと騒動あったほど。「西部警察」の撮影初日、現場に行くと、裕次郎さんと渡さんのディレクターズチェアが置かれていた。僕も、東映でのデビュー以来使っていた黒いチェアをそこに並べました。まもなく裕次郎さんが現場入りして、

「おい、この黒い椅子は誰のだ?」

 と周囲に尋ねた。それで、

「僕のです」

 と答えたら、

「そうか、舘くんのか。十年早いな」

 辺りを見渡すと、寺尾(聰)さんをはじめ、石原プロの俳優は誰も椅子を持ち込んでいない。慌てたスタッフのひとりが「舘くんは腰を悪くしてるようでして……」と助け船を出してくれたんですが、僕は「別に腰なんか痛くありません」と突っぱねて、

「いまはそういう時代じゃないですよ」

 と言い返していました。スタッフは真っ青でしたが、当の裕次郎さんはといえば、

「そうか、そんな時代じゃないか」

 と笑って、その場から行ってしまいました。僕の態度を咎めるどころか、楽しそうに……。人間の大きさを感じました。

 とはいえ、渡さんとしては僕と裕次郎さんの関係を気にされていたのでしょう。裕次郎さんが亡くなる2年半ほど前のこと。当時の石原プロは、年の暮れから正月にかけてハワイに社員旅行へ行くのが恒例になっていました。そのときは、年が明けてそろそろ帰国する頃になって、渡さんからこう言われたんです。

「ひろし、スケジュールが空いてるなら、こっちに残って社長の運転手をやれ」

 それで、ナンバープレートに〈YUJIRO〉と書かれたキャデラックのハンドルを握って、ゴルフや食事会のお供をしました。これほど長い期間、朝から晩まで裕次郎さんとご一緒したのは初めてです。そして、ハワイを発つ前夜。別荘のホームバーでふたりきりで飲んでいたときに、僕はカウンターにグラスを三つ直線上に並べてこう切り出しました。

「一番奥のグラスが社長で、その手前が渡さん、さらに手前のグラスが僕です。渡さんは社長の背中を見て、僕は渡さんの背中だけを見つめています。だから、その向こうにいる社長の背中は見えません。斜めになれば社長の姿が目に入りますが、僕は渡さんの背中をまっすぐ見ていたいんです」

 裕次郎さんはだまって顔をほころばせ、亡くなるまでの2年半ほどは本当に可愛がってくれました。

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