新型コロナワクチン供給「メガファーマの知財権」は壁か、原動力か?
アメリカ商務省の建物に、エイブラハム・リンカーンの言葉を記した石碑が掲げられている。奴隷制度に関するものではない。
「特許制度は天才という炎に利益という油を注ぐもの」
第16代大統領に選出される前年、1859年2月に述べたという。リンカーンは、実は自らも特許を取得するほど、特許、つまり知的財産権に基づく発明の保護が産業振興に結びつくと確信していた。実際、アメリカは19世紀末以降、エジソンの蓄音機やベルの電話機など、天才たちによる知財権で守られた発明が工業発展の起爆剤となり、超大国へと進む。
翻って、新型コロナウイルスのパンデミックが続く現在。収束への切り札となったワクチンを迅速に、そしてできるだけ公平に世界に供給するうえで、知財権は、「高い壁だ」という批判を浴びている。
WTOでの問題提起
発端は、WTO(世界貿易機関)での議論だ。2020年10月、インドと南アフリカは、世界規模で新型コロナの集団免疫が達成されるまで、ワクチンや治療薬などの知財権を一時的に停止するよう要請した。そうすればインドなどジェネリック薬の製造で大きな実績がある国々が安価にジェネリックのワクチンを量産することが可能になり、世界への公平な供給が一気に進むであろう、と。多くの途上国が、これに賛同している。未曽有の影響を世界に及ぼしているパンデミックなのだから、例外的な対応が必要だと声をあげている。
これに対して、日本を含む先進国は総じて反対だ。自国の製薬企業のことを考えれば、無理もない。先のリンカーンの言葉のように、企業が研究開発に投資をするには、知財権によって投資以上の利益が得られるという安心感がないと難しくなる。とりわけ、薬の研究開発には、莫大な投資が必要となる。簡単にいえば、知財権が守られなければ、そもそもワクチンはこの世に出現しないだろうというロジックだ。
どちらの主張にも一理ある。そこで、双方にインタビューをした。
知財権はイノベーションの源泉でもあり……
知財権の一時停止を強く主張している「国境なき医師団」のクリストス・クリストゥ会長は、「パンデミックでは、全ての人を救わない限り、誰も安全にはならない」と強調する。確かに、WHO(世界保健機関)も、一部の先進国にだけワクチンが広がっても解決にはならないと警鐘を鳴らしている。
クリストゥ会長は、「ウイルスがはびこる現在の世界が非常事態から抜け出すまでは、ワクチンの生産と供給を妨げている知的財産権を一時的に放棄するよう求める。各地でコロナの感染が、一定以下に抑えられれば、製薬業界は(知財権を行使する)普段のビジネスに戻れるであろう」と言う。
一方、国連機関であるWIPO(世界知的所有権機関)日本事務所の澤井智毅所長は、ベルの電話機などの例を引き合いに出し、知財権はイノベーションの源泉だと強調した。その上で、ワクチンが公平に行き渡らないのは知財権が原因ではないと述べた。
「患者の元に医薬品を円滑に、迅速に届けていくという“医薬品アクセス問題”には様々な要因があるでしょう。例えば、ワクチンの製造能力であったり、流通経路の問題であったり。さらに、関税もあるでしょうし、ワクチンの認可という問題も」
WIPOとしては、新型コロナのワクチンに関して知財権の一時停止は「副作用」が大きいと警鐘を鳴らす。
「きょうの命がたいへん大事なように、明日の命、あるいは10年後、20年後の将来の命も同じように大事だ。多くの投資を必要とする研究開発においては、その投資分の回収が約束されていることが必要。その回収が約束されないと、投資への躊躇が出てしまう」
これに対して、「国境なき医師団」のクリストゥ会長は、新型コロナのワクチンに関していえば、知財権の保護と開発推進は必ずしも直結はしておらず、別のファクターの方が大きかったと主張する。
「今回、知財権によってワクチン開発が可能になったという主張は、誤解を招く。開発が急速に進んだのは、世界の国々、納税者、それに研究開発に協力したドナーたちのおかげなのだ」
クリストゥ会長が言わんとするのは、こうだ。新型コロナの場合、事の重大性に鑑みて主に先進国の政府は製薬会社に多額の財政援助をして研究を後押しした。その支援の源は、それぞれの国民が納めた税金だ。そうした公的な資源に支えられて誕生したワクチンは公共財とみなされるべきだし、納税者がワクチン接種を受けるために料金を支払うのは、実は重複課税のようなものではないか、と。また、数多くのドナーたちが「パンデミックを終わらせたい」という思いから研究に協力していて、その意味でも、ワクチンは公的な性格が強い、と。
エイズ治療を変えたジェネリック
ワクチンの迅速で公平な供給という観点から見て、知財権は障壁なのか、それとも原動力なのか。全会一致が原則のWTOで議論が結論に至るのは困難と思われるが、過去には薬の知財権の一時停止(正確には例外的な免除というべきか)で国際的な合意が生まれたケースはある。1990年代後半、南アフリカで猛威を振るったエイズに関してのものだ。
当時、南アでは成人の5人に1人が感染し、治療薬を輸入しなければならなかったが、価格の面などから大量に確保するのが難しかった。結局、南ア政府は自国の製薬会社に対して、もともと開発した製薬会社への特許使用料を支払わずにジェネリック治療薬を製造することを許可したのだ。これには、世界の39の製薬会社が激しく反発した。分かりやすい事例でいえば、ある国の政府が知財権を考慮せずに映画やマンガの「海賊版」にお墨付きを与えたようなものだからだ。
問題はWTOに持ち込まれた。そして難航を重ねた協議の末に、南アの措置が認められた。南アの製薬会社は特許使用料の支払いを免れることになったのだ。この結果、南アでは低価格の治療薬が急速に普及し、エイズの犠牲者は大きく減った。
「国境なき医師団」のクリストゥ医師は、南アでのエイズを教訓にしようと言う。
「エイズとの闘いの初期、治療薬が非常に高価だった20年前の状況を思い出す。相当な数の患者がいたため、我々は治療費の引き下げを提唱したのだが、それには知財権の問題を解決する必要があった。結局、安価なジェネリック治療薬が、エイズをめぐる状況のゲームチェンジャーとなった。なぜ、今の新型コロナに関して同じことができないというのであろうか」
一方、WIPO日本事務所の澤井所長は、知財権と途上国へのワクチン供給加速との間で何らかのバランスを取る必要はあるとしつつ、それは政府間の協議で一律的に決めるのではなく、製薬会社が自主的に判断すべきだと主張する。
「今の命を助けながら将来への投資を萎縮させないためには、知財権を尊重し、その知財権を所有している者たち(製薬会社)の自主性に委ねることが何より大事だ。エイズの治療薬に関しても、それぞれの国々や企業が協力して治療薬へのアクセスをめぐる問題を解決した。今回のコロナ禍についても、知財権を所有する製薬会社の中には、ライセンスの無償開放や、一時的な低価格でのライセンス契約を表明している企業もある」
澤井氏が指摘するように、実際、新型コロナのワクチンを開発した主な製薬会社のうち、モデルナ社は特許使用料の要求を一時的に停止すると表明していて、アストラゼネカ社は「パンデミックが続く間は利益を追求しない価格でワクチンを販売する」としている。どちらも、「国境なき医師団」のように知財権の一時停止に近づいた立場といえる。ただ、難しいのは、いつまでそうした措置をとるか、また、今後、別の疫病に関してもすぐに「知財権の停止を」と求める声が湧き起こらないようにするにはどうするか。天才という炎がもたらす恩恵を、いかにして世界の人たちに届けるか、難しい議論が続きそうだ。