既視感の強い「君と世界が終わる日に」 問題は予算ではなく「人間描写力」

  • ブックマーク

Advertisement

 コロナ禍で撮影が大変だろうな、人を集められないだろうなと同情はする。するけれども、とにかくゾンビが足りない。絶対的に足りない。50人くらいしかいない。逆に生存者のほうが人数多くて、団結して頑張れば三浦半島だけで制圧できんじゃね? つまり、世界が終わる気が、しない。

 テレビ局の中でもお金を持っていそうな日テレですらこのありさまか、と衰退の悲哀も感じる。同情が憐みに変わっていく。「君と世界が終わる日に」である。

 ターゲットを若年層にシフトした日テレだけあって、若手の主演級俳優をしれっと集めた手腕は素晴らしい。最近悪評が高い竹内涼真が主演、自動車整備工で弓道の名手っつう役どころ。恋人で研修医の中条あやみにプロポーズしようと思っていた矢先に、世界が変わる。

 竹内に個人的な恨みを抱く警察官の笠松将、女子大生の飯豊まりえ、韓国人で特技がテコンドーっつう青年のキム・ジェヒョン、介護士の母・安藤玉恵と娘の横溝菜帆……。そこかしこに人気のゾンビドラマ名作「ウォーキング・デッド」的な要素が。主人公が事故に巻き込まれ、数日間閉じこめられていたら世界は一変していたとか、弓矢の達人とか、主人公に恨みをもつ仲間がいるとか、ゾンビに噛まれた仲間を見捨てないとか、チームが合流していくとか、劇中でゾンビと呼ばないこととか。ちょいちょい既視感を覚えるたびに、脳内ではミルクボーイの漫才が始まる。「それ、ウォーキング・デッドやないか?」「ほな、ちゃうなぁ」の繰り返し。それもこれも昨年、ウォーキング・デッドのシーズン10まで一気観したからな。超大作の記憶が生温かいうちに超縮小版見せられたら、そりゃため息しか出ないわけよ。

 比べちゃ本家に失礼だという人もいる。でも日テレとHuluが組んでシーズン2までやるからには、批判を覆すだけの新しさと奇策があるはず。たぶん。きっと。

 ウォーキング・デッドの魅力はスケールの大きさにゾンビのクオリティの高さ、熾烈なサバイバルの中でも人間の情と業の深さを描いたところ。さらに途中からはもはや敵はゾンビではなく人間に。人間同士の覇権争いへと発展したところだ。

 さて、こっちはどうか。ゾンビ不足はある種の計算か。ゾンビとの闘いには重きを置かず「感染症を政治利用する国家権力の横暴」や「製薬会社の利権をめぐる陰謀」に主軸を置くのかもしれず。その証拠に、自衛隊の浅香航大や、不穏な滝藤賢一がマッドサイエンティスト風で登場。ワクチンの話も出てきたし。「人命軽視の権力者に抗う清く美しい若者たち」っつうディストピア系に進むのかな。

 アメリカと韓国のゾンビドラマがなぜ面白いのかを考えたほうがいい。突破すべきは予算の壁ではなく、勝手に設けた人間描写の限界。それをHulu版ではなく、地上波版で日曜夜に突き抜けるかどうか。出演した若手俳優が後に代表作と胸を張る作品になるかどうか。世界の終わりを描くつもりが、うっかり日本の終わりを象徴しませんよう。

吉田潮(よしだ・うしお)
テレビ評論家、ライター、イラストレーター。1972年生まれの千葉県人。編集プロダクション勤務を経て、2001年よりフリーランスに。2010年より「週刊新潮」にて「TV ふうーん録」の連載を開始(※連載中)。主要なテレビドラマはほぼすべて視聴している。

週刊新潮 2021年2月11日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。