「二階俊博」を権力者にした“気遣い伝説” 視察に美女を手配、お土産の配り方も一流
その風貌は決して冴えたものとは言い難い。だが、現下の政局では抜群の切れ味を誇る。男の名は二階俊博(81)。いかにしてこの面妖なるドンは自民党歴代最長幹事長に昇り詰めたのか。サラリーマン必読、出世術の極意に迫る。
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「金銀ではない。だが……」
聞き覚えのある、浪花節を思わせるだみ声。その声の主は続く一言で本質をついてみせた。
「鉛のようなどす黒い光を放つ男」
それが「歴代最長幹事長」なのだと。どす黒い光、すなわち妖しげな光……。
「俺が郵政民営化に反対して自民党を離れたら、あいつは志帥会(現・二階派)に入りこんで会長になった。いわば『空き巣泥棒』だ」
元運輸相の亀井静香。二階をこう評しつつも、昨年11月、自身の84歳の誕生日祝いでふたりは酒席をともにしている。
「ああいう男と呑んでも面白くもおかしくもない。光がない。くらーい顔してさ。友だちにはなりたくないね。でも、無口なところが二階の力になっている。何を考えているか分からない、その気持ち悪さ。国民に腹の内を見せないというのも政治家の一つの手だ。今や二階は天下の幹事長。もう志帥会の長というより、立派な党の長だ。だがね……」
だみ声が一段と凄みを増す。
「菅(義偉・総理)と同じで、二階も田舎から出てきた、たたき上げの庶民政治家。だから二階に金メッキを施したらダメなんだ。彼の『数は力』という考え方は、俺は間違っていると思う」
亀井の「親心」を知ってか知らずか、二階当人は今なお派閥拡大路線を押し進め、数という「金メッキ」を纏(まと)い、最長幹事長として絶対的権力者の道をひた走っている。どす黒く、妖しげな光を放ちながら――。
1939年、和歌山県御坊市に生まれた二階は、戦前に木造船会社を起こし後(のち)に県議となる父と、医療従事者の母を持つ。
中央大学法学部政治学科を卒業し、11年間、衆院議員の遠藤三郎の秘書を務めた後、8年間の和歌山県議生活を経て、83年に衆院議員に初当選する。
田舎の出から経歴を積み重ね権力の階段を駆け上がる。菅と似てたたき上げのイメージの強い二階だが、本人はそれを嫌がる。
〈“秘書上がり”だとか、“たたき上げ”とか生意気なことを言うやつがいる。お前は何アゲだ。唐揚げとは言わんが、何で俺だけ“たたき上げ”なんだ。俺は、政治学の本筋をずっとやってきたんだ〉(「文藝春秋」2020年11月号)
滲み出る「プロ政治家」の自負。それはどこから生まれたのか。
越山会の女王に…
「二階さんは、講演などでよく『私が政治を学んだのは県議会です』と言っています」
和歌山県政における二階の1期先輩で、元公明党県議の渡辺勲が証言するよう、二階は県議時代から現在の姿を髣髴させる「政治家ぶり」を発揮していた。
二階と県議当選同期の盟友、元和歌山県議会議長の門三佐博(かどみさひろ)が振り返る。
「二階さんは若い頃から組織をまとめ上げる力のある男でした。当時、和歌山県政では保守系が人事を争って分裂していたんですが、二階さんは36歳で県議に初当選すると、まず同期の議員10人を集めて『清新クラブ』という会派を作ります。それが後に『清新自民党県議団』となり、公明党や社会党、共産党も巻き込んで『六派連合』を結成。こうして県政でのキャスティングボートを握り、最終的には県議会のドンと言われた人物に、『議長と副議長ポストさえ渡すなら他は好きなようにしろ』と言わせてしまいました」
目下、「数は力」を地で行き、派閥を急膨張させることでキングメーカーに昇り詰めた二階。だが所詮、彼の派閥は党内第4派閥に過ぎない。
しかし第2派閥の麻生派、第3派閥の竹下派、いずれも二階派の「47人」と合わせると、第1派閥の細田派を数で凌ぐ。後に触れる「裏切り」の過去を持つ二階を誰も敵には回したくない。斯(か)くして党内キャスティングボートを掌握。
昔も今も二階は変わらない。
県議時代から「数集め」に長(た)けていた二階。それを可能にした彼の「武器」とは何なのか。渡辺の回顧から読み解く。
「県議時代の1977年頃のことでした。二階さんが主催したイサキ釣りに、県幹部と一緒に参加したんです。前夜から呑んだくれて早朝に出発したものだから、みんな船酔いしてそれは酷いものでした。でも港に帰ってくると、発泡スチロールの箱に入ったイサキが50匹くらい用意されていた。釣れなかった時、ちゃんとお土産として持って帰れるようにね。用意したのは二階さんでした」
痒いところに手が届く「ザ・昭和型」の出世術。
門が明かすエピソードも負けてはいない。
「県議時代、二階さんに声をかけてもらい一緒にシンガポールに視察に行きました。すると現地には、日本語を話せる容姿端麗なシンガポール人女性が案内役として待っていた。なんでも彼女は、鈴木善幸総理をアテンドしたこともある才女だそうです。手配したのは二階さんでした」
こうして「数」と「気遣い」を駆使し県政の実力者となった二階は、44歳で衆院選に挑む。
渡辺がその経緯を明かす。
「二階さんが国政に打って出た時、私は創価学会和歌山県支部の青年部トップでした。そして彼を当選させるために、和歌山では公明党と二階さんたちとで選挙協力することにしました。今のような自公協力体制が築かれる、遥か前のことです。二階さんは中選挙区時代の旧和歌山2区から出馬。1区には公明党の候補者がいました。その1区では公明党の候補を応援してもらう代わりに、2区では学会票を二階さんらに回すことにしたんです」
すなわち、自公のバーター。結果、二階は見事当選する。
「衆院議員二階俊博」
それは誕生の時から「数の力」の申し子だった。
また、「禁断の自公協力」の恩恵に与っ(あずか)た点では、今の二階の「何でもあり」の原点であったのかもしれない。
この和歌山における二階のデビュー戦には田中角栄も気を揉んでいたという。その恩義からなのか、田中の金庫番と言われた「越山会の女王」佐藤昭(あき)との秘話を渡辺が繙(ひもと)く。
「無事、二階さんは衆院選で当選を果たし力をつけていった。そして私たちは佐藤さんから河口湖の別荘に招かれます。そこに二階さんはいませんでしたが、彼女はこう言っていました。『二階は可愛いのよ』と。なんでも二階さんは、毎週、その別荘に活きのいい魚を送り届けていたそうです」
田中派のメンバーとして国政デビューした二階は、以後、師匠である田中角栄の振る舞いを模していく。
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