伊吹衆院議長の名言 眞子さまの父親と皇嗣であることの「相克」に耐える秋篠宮さま

国内 社会

2020年12月18日

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 秋篠宮さまは11月8日に「立皇嗣の礼」を終え、11月30日に55歳のお誕生日を迎えられた。これから皇位継承順位第一位の皇嗣として、実質的に皇太子と同等のお立場で公務を果たしていかれることになる。

 その秋篠宮さまがお誕生日を前にした記者会見で、長女眞子さまと小室圭さんの結婚を認める発言をされたことで、今後、具体的な進展に向けた動きが出てくることが期待されるが、相も変わらずテレビのワイドショーや週刊誌などは、あれやこれやとかまびすしい。そうした中、自民党の伊吹文明元衆議院議長が今月3日、最高顧問を務める自民党二階派の会合で発言した内容が話題になっている。

 新聞では「小室氏に苦言」が見出しになったが、私は「(皇嗣としての)ノブレス・オブリージュ」という言葉に注目した。伊吹氏は同僚の政治家たちを前にこう語った。「父親としての娘に対する愛情と、皇嗣という者のお子様である者にかかってくるノブレス・オブリージュ(高貴なる義務)としての行動と両方の間の、相剋のようなつらい立場に皇嗣殿下はあられるんだなと思った」

 ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)はフランス語で、直訳すると「高貴であることは義務を強制する」。「高貴であるが故の義務」などとも訳される。一般的には「身分の高い者はそれに応じて果たさなければならない社会的義務がある」などとする欧米の道徳観を示す表現として使われる。義務とはもちろん、法的な義務ではなく倫理的な意味での義務である。

 伊吹氏は、秋篠宮さまが、皇嗣としての立場と娘を愛する父親としての立場に挟まれて苦悩されていることを、京都の老舗繊維問屋出身の元大蔵官僚らしい上品な表現で言い表した。伊吹氏は言わなかったが、秋篠宮さまがそうした「相克」の中で、皇嗣としてのお立場を優先されていることは言うまでもない。

 テレビの昼番組では眞子さまの結婚問題について、実にさまざま芸能人や評論家と称する者たちが、推測を交えてあれこれコメントしている。そんな現状に飽き飽きしている私たちにとって、ややおおげさかもしれないが、伊吹氏の発言は秋篠宮さまへの敬意を込めて現状を憂える政治家の名言として歴史に残るかもしれない。

 その他の伊吹氏の発言についても、以下に要約して紹介しておきたい。「小室さんは週刊誌にいろいろ書かれる前に、やはり皇嗣殿下がおっしゃっているようなご説明を国民にしっかりとされて、そして国民の祝福の上に、ご結婚にならないといけないんじゃないか」「国民の要件を定めている法律からすると、皇族方は、人間であられて、そして、大和民族・日本民族の1人であられて、さらに、日本国と日本国民の統合の象徴というお立場であるが、法律的には日本国民ではあられない」「眞子さまと小室圭さんの結婚等について、結婚は両性の合意であるとか、幸福の追求は基本的な権利であるとかいうことをマスコミがいろいろ書いているが、法的にはちょっと違う」―――――。

「立皇嗣の礼」に祝意も示さず意義も説かない新聞の社説

 話題を皇位継承儀式の最後の式典である11月8日の「立皇嗣の礼」に戻そう。天皇陛下はこの式典の中の「立皇嗣宣明の儀」に於いて「秋篠宮さまが皇嗣であること」を広く宣言し、皇太子に代々受け継がれてきた壺切御剣(つぼきりのぎょけん)を授けられた。秋篠宮さまが皇位継承順位第一位の皇嗣であることは皇室典範の規定によって既に決まっていることではある。それでも、コロナ禍の中で延び延びになっていた国家行事としての立皇嗣の礼が滞りなく行われたことを、まずは国民の一人として慶びたい。

 式典が行われたことで、テレビの映像を通して多くの国民が伝統的な儀式を目にしたことの意味は大きい。皇嗣である秋篠宮さまが名実ともに皇太子と同等の地位にあり、将来、皇位が秋篠宮さま、そして親王の悠仁さまへと受け継がれていくという流れを国民の多くが確認したと言えるかもしれない。

 マスコミ各社は立皇嗣の礼について詳しく報道したが、筆者が違和感を覚えたのは新聞の社説である。読売新聞や産経新聞などを除く全国紙や地方紙の多くは、冒頭に立皇嗣の礼が行われた事実を記しただけで、その意義についてはほとんどと言ってよいほど触れなかった。「天皇の代替わり行事は幕を閉じた」の一言で片付けたものもあった。

「(立皇嗣の礼を)皇位継承の在り方を考えるきっかけにしなければならない」「議論の先送りは許されない」という常套句を多用し、その多くを“政府の怠慢”に対する批判に費やし、婉曲的表現で、女性宮家の創設や女性天皇・女系天皇が必至であるかのように読者を誘導した。

 ちなみに、地方紙ほどその傾向が強い印象を感じた。これは、地方紙の社説が、地域の話題を除けば、必ずしも不偏不党とは言い難い通信社が配信する“社説”をそのまま使ったり、内容の一部をリライトして掲載する場合が多いからなのかもしれない。国民の感覚からすれば、立皇嗣の礼が行われたことに対して祝意の一言でもあればと思うが、そのかけらも感じ取れない社説が少なくなかったのは残念である。

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