【魂となり逢える日まで】シリーズ「東日本大震災」遺族の終わらぬ旅(9)温もりを届ける「あの日」への巡礼 魂となり逢える日まで(9)

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 大阪からの到着便を告げるアナウンスが流れる。今年10月15日、宮城県名取・岩沼両市にまたがる仙台空港の1階ロビー。その外れにあるソファーで、荒セツ子さん(72)=仙台市青葉区=は腕時計と携帯電話の時刻を並べて見入り、じっと時を待っていた。午後2時46分。

「息子と、皆さんに会いに行きます」

 と言って、荒さんは立ち上がった。

 9年前の2011年3月11日のその時刻、三陸沖を震源とする大地震が発生し、やがて津波が、海岸のそばに位置する仙台空港にも押し寄せた。

 気象庁の報道発表資料によると、高さ3メートル以上の津波が到達した時刻は、震源への距離が近かった岩手県大船渡で午後3時15分ごろ、仙台空港から約15キロ北の仙台新港では同46分。空港に押し寄せたのは同55分前後で、高さは約4メートルとされる。 

〈津波が滑走路を水の底に沈め、到着ロビーなどがある空港ビル1階にがれきや車などを押し込んだ。停電、断水、通信不能。旅客や地域住民、航空会社やビル、関連施設の職員ら1600人が孤立した〉(2011年5月17日『河北新報』「ドキュメント大震災」)

 荒さんの長男貴行さん(36=当時)は地元・岩沼署の巡査長で、津波から4日後の15日、空港の近隣で遺体となって見つかった。

 荒さんにとっては「15日」が貴行さんの月命日となり、翌年から毎月15日、仙台空港から遺体のあった場所まで1人で歩くようになった。息子と犠牲になった人々に祈りを捧げる道すがらを、「巡礼」と自ら呼ぶ。わが子を亡くした親たちの分かち合いの集い「つむぎの会」の取材で、荒さんと出会ってから9年。初めてこの日、人知れぬ巡礼行に同行させてもらった。               

警察官だった息子の死

 空港前の歩道に出た荒さんは国際線ロビーの入口を過ぎ、そのまま空港を出て海の方角へ向かう。晩秋の斜陽を浴びて渡る橋の下の流れは、昔、江戸へ運ぶ仙台藩領のコメなどの物流ルートとして伊達政宗が築かせた貞山運河。

 両岸はうっそうとした松林に覆われ、釣り人の船やレジャーボートがたくさん浮かんでいたのを筆者も記憶する。その向こうには古い黒松の海岸林がどこまでも連なっていた。懐かしい風景は津波で消え去り、いまは荒れ野原になった。

 荒さんは歩きながら回想した。

「貴行が行方不明になっている、とお嫁さんから電話をもらったのは(2011年)3月12日の明け方。岩沼署からの連絡でした。息子夫婦には小学1年、保育所の年長、3歳の男の子3人の子どもがいて、『不安にさせてはいけないから』と夫の車で岩沼署に急ぎました」

 署長室に着くと、捜索を待つ間の居場所として3階の畳の部屋に通され、そこで2人の女性と一緒になった。貴行さんと行動を共にした生活安全課の上司・早坂秀文警部補(55)と、別にパトカーで出動した交番勤務の佐藤宗晴巡査(32)の奥さんだった。

 貴行さんは、早坂さん、もう1人の上司の瀬谷志津江警部補(37=以上、いずれも当時)と3人で地震の後、捜査車両に乗って運河沿いの道路で住民らの避難誘導に当たっていたとみられる。

「出動した署員のうち2つの班が帰ってこない。どこに行ったか、皆目見当がつかない」

 署幹部のこんな説明に、待っていた荒さんら母親たちは怒り、

「指示があって現場に行ったんだから、分からないなんて、おかしいでしょう」

 と詰め寄ったという。

 署の3階に寝泊まりして待った家族に、むごい再会の時が訪れる。14日の昼、早坂警部補の遺体が見つかり、奥さんが霊安室で対面させられた。

「わが身に代えても無事を、と念じていた私も不安に突き落とされた」

 と荒さんは言う。もう時間の感覚がなくなり、眠れずに迎えた翌15日の朝、「荒巡査長が見つかった」と知らされる。夫とお嫁さんの3人で、変わり果てた貴行さんと向き合った。

「生活安全課の仕事着のスーツ姿と思うが、霊安室で見せられたのは顔だけ。苦しそうな顔だった。表情がゆがんで、苦しかった、その極みだったのが分かった」

 宮城県では14人の警察官が津波の犠牲になり、岩沼署が最も多い6人だった。遺族たちの求めで署の説明会も開かれた。亡くなった場所は空港近くで、空港利用者の安全確保が主眼とみられたが、退避の指示が伝わったかどうかなど、荒さんには分からないままだった。

 貴行さんらを惜しんだ署幹部が、

「これから未来のある人たち」

 と述べた言葉にも、憤りがこみ上げ、

「私は思わず訴えました。若い人たちが大事ならば、なぜ上の者から行かなかったの。あなた方が行けばよかったのではないですか、と」

 まるで特攻隊のようにも思えたといい、無念さと怒りはいまも消えない。

 貴行さんの葬儀は、ひと月も後の4月16日。宮城県内の沿岸部の火葬場が被災し、石巻などではやむなく仮埋葬(土葬)された犠牲者も多かった中、遺体は棺にドライアイスを詰められ、孫たちがいる自宅で火葬を待たされた。傷心の母親にはすべてがつらい記憶となった。                   

温かい水を慰霊碑に注ぎ

「空港のまわりはあのころ、見渡す限りのがれきの山だった。せめて現場を見たくて、その中に入っていこうとすると、『何をしているんですか』と声を掛けられた。被災した家を荒らす泥棒もいたから。『息子を亡くした者です』と答えると、『ああっ』と相手も無言になった」

 荒さんはそう回想しながら、小さな本堂が再建された寺に立ち寄った。北釜観音寺という。すぐ西に空港のビルが見える境内の外れに、白い御影石の「東日本大震災被災物故者之碑」が立つ。

 塩作りの釜場が昔あったことに由来する北釜地区では、55人の住民が津波で亡くなっていた。その1人1人の名前が碑に刻まれている。荒さんは頭を下げ、手を合わせ、背負っていたリュックから白い布巾を出して、碑を隅々まで清めた。そしてペットボトルの封を切り、刻まれた名前の上に水を注いでいった。ボトルの水はこの日、家を出る前に温めてきたという。

「来るときはいつも、皆さんを温めてあげるんです。あの日(2011年3月11日)は、雪が降ってきて寒かったでしょ。海の水も冷たく、何より温もりが欲しかったのに違いないと思って。家を出る前に、息子が赤ちゃんの時のようなミルク鍋でペットボトル1本ずつ、中の水をほどよく温めて、ボトルに詰め直すんです。きょうは6本、多い時は8本。少しでも温もりが届いてくれたら」

 北釜観音寺には地蔵堂があり、2万体の小さな地蔵が納められている。犠牲者の慰霊のため、東京の陶芸家が作り、再建された地蔵堂に奉納したそうだ。

 その隣には、津波から奇跡的に本殿だけが残った下増田神社と松の古木がある。荒さんはそこで「神様は性悪だから嫌い」と言った。

「大切に思ってきたけど、こんなことになり、神様は人をいたぶるから。罰当たりかもしれないが、私は吹雪の日も雨の日も歩いてきて、もう『何でも来い!』という気持ちだから」

 松の古木の下に、板に墨字の「東日本大震災による殉職消防団員の碑」がある。住民の避難誘導に当たる中で命を落とした名取市消防団の増田、下増田両分団の団員5人の名前が書かれ、荒さんは「消防団員も警察官も一緒だもの」と手を合わせた。

 その中の1人、森達也さんは42歳の若さだったと、以前の巡礼行の途中、この碑の前で父親から聞いたという。出会いの縁の不思議さに驚き、互いの息子の最期のことを語り合い、父親は荒さんの手を取って、「お母さん、悔しいね」と涙をぼろぼろ流した。

「私の手に涙がこぼれ落ち、私も『悔しい』と泣いた」

 その無念さを抱きながら「家族の前では泣けない」と男親のつらさを語ったという。

 そこから南は岩沼市との境まで109世帯、約400人の北釜集落があった。荒れ野に1軒だけ大きな家が残る(冒頭写真)。

 寄ってみると、黒光りする瓦の重厚な家の1階部分が中空になっている。津波が突き抜けた跡だ。仙台空港前で駐車場を営む鈴木英二さんの旧宅だ。空港に避難し3昼夜を過ごした鈴木さんは、市内に新居を自力再建したが、被災した家も自費で直し保存している。震災の記憶を風化させぬためだという。旧宅の脇に休憩小屋があり、北釜を襲った津波の写真などを展示している。

 鈴木さんの一家は敗戦後、中国から引き揚げてこの地を開拓し、農協も創設したといい、近くには「開魂の碑」があった。

「いろんな人の苦労も努力も、そして家族も、一瞬で消えてしまったのね」

 と荒さんはつぶやき、「語り部」となった一軒家の永遠を願った。               

子を喪った同じ母親の励まし

 荒さんは集落跡の道をたどり、北釜地区の住民の慰霊碑(観音寺)にあった櫻井佳奈さんという27歳の女性のことを話した。巡礼行を始めて間もなくのころ、

「流された家の片づけをしていた男性から声を掛けられ、涙ながらの語らいになった。それが(佳奈さんの)お父さんでした」

 佳奈さんは仙台空港の方角へ1人で避難する途中、車の中で亡くなったという。

 娘の墓を建てた後も「家に帰ってきたかっただろう」と、佳奈さんの部屋があった場所に生前の衣服を埋め、供養の丸い石を置き、花を植えた。まわりの家々の跡はあちこち、復興工事に携わる企業の資材置き場などになり、いずれ工場用地になるとの話もあるが、佳奈さんの父親は「何があっても、ここは売らない」「いつでも寄ってください」と話していたという。

 荒さんは道路脇の草むらから目印の丸い石を見つけ、

「佳奈さん、また来たよ。温かいお水を持ってきたよ」

 と新しいペットボトルを取り出し、ゆっくりと注いでから手を合わせて祈った。父親から「隣家では息子2人を亡くした」と聞いており、荒さんはそこにも立ち寄った。

「なぜ、わが子を亡くした者同士、縁がつながるのだろう」

 と、不思議に思ったことがあったという。

 北釜観音寺では、震災があった年、車で出張営業をしていた息子の行方を求め、岩手県から被災地を南下して捜していた夫婦に出会った。仕事先だった岩手の街では、泊まっていたホテルも被災し、手掛かりがなくなった。遺体安置所でも再会できず、「海まで流され、親潮に南へ運ばれたのではないか」と岩手から宮城に下り、福島までも行くつもりだと語った。

 荒さんも、同じくわが子を亡くした遺族に救われた1人だった。

 貴行さんの死を受け止められずにいた2011年の夏、地元紙のお知らせ欄で仙台の「つむぎの会」を知った。仙台の自死遺族の会の代表、田中幸子さんが呼び掛けた津波遺族のための分かち合いの場で、わが子の死を受け止められず苦しむ母親たちが集った(本シリーズ第3回=2019年6月8日=参照)。

「掛けた電話で『必ず来てね』と励まされ、当日は5時間、話を聴いてもらった。

 命まで削られるような苦しみを誰も分かってくれないと思っていた。田中さんも警察官の長男を自死で喪った人だった。胸の思いを初めて受け止めてもらい、『私たちは生まれた子の顔を見て、逝った子の顔を見た母親。普通の苦しみ悲しみでなくて当たり前なの』と言われた。その言葉が、乾き切った土地に水が染み込むように、私の心を解かしてくれた」                     

最期の場所にひざまずき

 巡礼の道は北釜地区と境を接する岩沼市相野釜地区に続く。

 地図に名のない小さな寺の一角に黒御影石の「東日本大震災慰霊碑」があり、相野釜町内会が住民の津波犠牲者46人の名前を刻んだという。荒さんは碑をタオルで磨く。午後の斜光が夕空に変わろうとする頃だった。

 周囲には「千年希望の丘」がふた山並んで築かれている。海岸部に市が計画した高さ約10メートルの人工避難丘群の第1号となった場所で、ふもとに石畳の広場と、海岸林を越えた津波の高さと同じに設計されたという銀色の慰霊碑がある。

 隣の白御影石の刻銘碑に、市内で亡くなった全犠牲者155人の名前が4段に刻まれ、その中に岩沼署の6人の警察官もいる。荒さんはまたペットボトルの水を碑の1人ひとりに注ぎ、語り掛け、最後に息子をいとおしむように言った。

「小さい頃から草野球が大好きで、高校まで野球に一生懸命だったね。大学を出て自衛隊に入ってから、28歳で警察官になった。あのまま自衛隊にいてくれたなら、死ぬことはなかったんだよ、貴行……」 

 なぜ、遅い人生の選択をして警察官になったのか、と問うと、

「自衛隊は全国に異動があって、結婚のために地元を選んだの。私も、長男は家を継ぐものだとよく言ってきたからね」。

 貴行さんは、よく夢で会いに来てくれるという。

「3年前のお盆の夜だった。眠っていたら、息子が私の顔をのぞいたので『久しぶり』と声をかけたの。まわりに白いものを着た介添人が見えたので、『あ、私を迎えに来たんだ』と思いました。『一緒に行ってもいいよ』と心で言って目を閉じて、目を開けたら、生きていました。『連れていけばよかったのに』と腹が立った」

「夢に出てくる貴行は、苦しい思いをしたはずなのに、職務の犠牲にされたのに、いつもにこにこしている。そして、どうしてか、ゆらゆらと揺らめいている。怒った顔を見たことがないので、『あんた、死んだのになんで、にこにこしていられるのよ』と言ってしまう」

 荒さんは、そこから貞山運河の別の橋を渡り、仙台空港を北に望む臨空工場群の方へ歩いた。貴行さんらが乗った捜査車両は、無人で運河の中に落ちているのが見つかったといい、

「運河沿いの道路を行き来して避難誘導をしていたのだろうなと思います」。

 運河の橋を渡って間もないところに広い敷地の工場があり、荒さんは道路脇の大きな看板の下に立った。その看板には「がんばろう東北!」の文字と、「東日本大震災 大津波到達水位 4.05メートル」との表示がある。そこは、土木・建設工事で使われるシートパイル(鋼矢板)やH字鋼の製造工場だった。

「貴行はこの工場の中で見つかったんです。シートパイルの製品置き場の中でした」

 自衛隊の隊員が遺体に気付いて引き上げてくれたという。

「不思議な縁はここでもありました。歩き始めて間もなくの頃、ここで当時の工場長さんが声を掛けてくれ、話をしたら『あなたがお母さんでしたか』と驚かれました。津波が引いた後の水に何か浮かんでいるのを見つけ、それが貴行の警察手帳だったというのです」

 また、ある年の巡礼行で荒さんは貴行さんの最後の姿を見たかもしれない人と出会った。

「あの日の大地震の後に相野釜のお寺で、倒れた墓石の整理をしていた寺のご夫婦が、やって来た若い人から『津波の警報が出ている。逃げて、逃げて』と言われ、慌てて空港に避難した。命の恩人は私服の若い人だった、と言いました。貴行が生活安全課の私服勤務だったことを伝えると、『あなたの息子さんかもしれない』と。それ以上の確証はないのだけれど、息子がここで駆け回っていたんだなあ、と思い浮かべることができた」

 そう語ると、荒さんはちょうど夕日の方角、シートパイル工場の構内に向かってひざまずき、最後のペットボトルの水を金網越しに注ぎ切った。巡礼行をそこで終えて、荒さんは夕闇の中、JR線が接続する仙台空港に向かって歩き出した。           

倒れて歩けなくなるまで

 2011年から歩き始めた月命日の巡礼行は、実はその日がほぼ1年ぶりだった。昨年11月に痛めた膝の回復が長引き、そうしているうちに新型コロナ禍が、年配者の世代の生活すべてに影を落とした。そのため巡礼行を休んだ間に、被災地の風景は変わっていたという。

「去年まであった家々の土台や門扉がすっかりなくなり、集落の古い道が土盛りで消えて、見たこともない新しい道路ができていた」

 荒さんから電話でそんな話を聴いたのが12月3日。偶然にも、貴行さんの46回目の誕生日だった。

 その日、貴行さんの部屋に、大好物だったモンブランケーキとポタージュを供えたそうだ。そこには、警察学校に入学した時の写真、最後の勤務の日まで乗った愛車に残されたお茶のボトル、シートパイル工場の現場の砂が袋に入れて置いてある。

「陣痛が来て、生まれた日から、あの子の人生の日々のすべてのエピソードが私の中にある。被災地に1年行けなくても、震災から10年経っても、息子が遠くなることなんてない」

 巡礼行はまた続けるという。

「待っているんだもの。あの日、息子と生死を共にした、末期の水も飲めずに亡くなった人たちが。みんな一緒だもの。だから、『この間、あなたと縁のある人に出会ったんだよ』とか『息災にしていましたか?』とか、1人ひとりに声を掛けるんです」

 巡礼が終わるのは倒れて歩けなくなる時。荒さんはそう決めている。

「その時は『迎えに来てよ』って、息子に向かって話しているの。あの子はきっと、にこにこして言ってくれる。『OK、いいよ』って」

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2020年12月10日掲載

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