映画『ばるぼら』 稲垣吾郎の「なんちゃってインテリ」という魅力

エンタメ 映画 2020年11月20日掲載

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アイドルのあばた

 ツッコミの余地があることは、アイドルとして悪いことではない。残念なポイントではなく、偏愛の対象になりさえもするのだ。たとえば山口百恵の顎(あご)は割れていた。マエアツこと前田敦子の目と目の間隔が一センチ近かったら、ゴマキこと後藤真希のそれがあと一センチ遠かったら……彼女たちの美はあやういバランスで成り立っている。

 歌だって、むしろアイドルはうますぎない方がいいのかもしれない。「なんてったってアイドル 私はアイドル」と堂々宣言する小泉今日子の歌声はボリュームがなく、音程も狂いまくりだった。

 演技もほどほどで良い。『野菊の墓』(1981)『プルメリアの伝説 天国のキッス』(1983)『夏服のイヴ』(1984)『カリブ・愛のシンフォニー』(1985)の松田聖子、『雪の断章 -情熱-』(1985)『恋する女たち』(1986)『トットチャンネル』(1987)の斉藤由貴、『はいからさんが通る』(1987)『菩提樹 リンデンバウム』(1988)の南野陽子らの芝居を、思い出してみて欲しい。台本のセリフをただ声に出して、読んでいるだけだ。しかし彼女たちに名演を求める必要なんて、どこにあるだろうか。

 つまり多方面で活動しながらもアイドルは、どのジャンルにおいても突出してはいけない。歌手であり俳優であることが、アイドルより前に出てはいけない。それが「アイドルに求められる条件」だったのだ。

 しかし――アイドルに「あばた」を発見してそれを「えくぼ」として味わうのはあくまで大衆の側で、しかもそれは、大っぴらに共有されるようなものではなかったのだ。そんな常識を破り、共有を許した初めてのアイドルがSMAPだった。

あばたはあばた

 積極的にバラエティ路線に踏み出したSMAPは、ひと息に大衆との距離を縮めた。「あばたはあばた」として見せることで「アイドル幻想」を破壊して、「国民的グループ」にまで成長したのである。

 だからSMAP以降のアイドルは、どこまでもカジュアルな存在になった。バラエティ番組でメンバーの「あばた」が笑いものになったって、まったく問題ないのだ。

『うたばん』の石橋貴明は事あるごとに中居くんの音痴を、イジっていた。『『ぷっ』すま!』のユースケ・サンタマリアは(草彅)剛画伯の次なる“迷画”を毎回、ワクワクして待っていた。もはや触ってはいけない部分など、どこにもない。むしろマイナスを笑いに転じる芸人的な機転こそが求められるようになった。

――ひとはSupermanじゃない Supermanじゃない(SMAPの楽曲『たいせつ』の一節)
 
 もちろんアイドルだってひとだから、Supermanじゃない。だから吾郎ちゃんの知性や教養がなんちゃってだとバレても、それはそれで等身大の魅力ということになる。吾郎ちゃんもそれを分かっている節がある。AbemaTVで配信されている元SMAP3人の番組『7.2新しい別の窓』で、吾郎ちゃんが映画人とトークするコーナーがある。これまで招かれたゲストは『パラサイト 半地下の家族』(2019)でアカデミーとカンヌを同時制覇したポン・ジュノ、『スパイの妻』(2020)でヴェネチアの監督賞を受賞した黒沢清など、錚々たる面々である。しかし、そのコーナー名は「インテリゴロウ」。さすがに、自嘲がすぎないか?

 さて映画『ばるぼら』なのだが……作中の設定どおりの人物として、稲垣演じる美倉洋介を観るか。透けて見える「インテリゴロウ」を前提として観るか。原作を読み直してあらためて脱帽した、手塚治虫漫画の表現力に★ひとつ、ニーチェとヴェルレーヌ、ふたりの知性を合わせて★ひとつ。

椋圭介(むく・けいすけ)
映画評論家。「恋愛禁止」そんな厳格なルールだった大学の映研時代は、ただ映画を撮って見るだけ。いわゆる華やかな青春とは無縁の生活を過ごす。大学卒業後、またまた道を踏み外して映画専門学校に進学。その後いまに至るまで、映画界隈で迷走している。

週刊新潮WEB取材班編集

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