フランス「表現の自由」に横たわる流血の「深層」

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 フランスは難しい。

 テレビの報道番組でリポートを制作・放送するのも、文章を執筆するのも、フランスの歴史を十分に踏まえないと、表層的になってしまいがちだ。イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を描く「表現の自由」をめぐって凶悪な事件が相次ぐ現状も、フランスの歴史抜きには理解できない。もちろん、テロや暴力行為は決して許されない。一方で、テロを指弾してフランス流の「表現の自由」を絶対視しても、流血に歯止めをかけることにつながらないように思える。

 2020年10月16日、パリ近郊の中学校に勤めていた男性教師サミュエル・パティさんが首を切断されるという凄惨な事件が起きた。パティさんは、「表現の自由」について教える授業の中でムハンマドの風刺画を教材として扱っていた。警察に射殺された容疑者は18歳、ロシア生まれのチェチェン人。6歳の時に家族とフランスに移り住み、難民認定を受けていたという。彼はツイッター上でエマニュエル・マクロン大統領を「不信心者」となじり、「ムハンマドを貶めたおまえの犬を始末した」と書き込んでいた。

 21日に営まれたパティさんの国葬で、マクロン大統領は「我々は風刺画をやめない」と言い切った。

 すると、29日には、ニースにあるカトリック教会に刃物を手にした21歳のチュニジア人が侵入し、3人を刺殺するという事件が起きた。男はアラビア語で「アラー・アクバル(神は偉大なり)」と叫んでいたという。

 フランスのジェラルド・ダルマナン内相は「我々は戦争状態にあり、敵は内外にいる」と発言。

 一方、マクロン大統領の「風刺画をやめない」との発言に対してイスラム圏の国々で反発が高まり、フランス製品の不買運動が広がっている。

理性と盲信

 こうした一連の動きに関して、フランスの専門家でもない自分がこのように何か書くのは、率直にいって、勇気がいる。

 逡巡していたところ、『国際報道2020』の制作過程で、フランスに留学した経験を持つ後輩ディレクターからレクチャーを受ける機会に恵まれた。後述する「表現の自由」が強固に築き上げられた歴史や、「ライシテ」の重要性などである。

 その上で、2015年、ムハンマドの風刺画を掲載した週刊紙『シャルリー・エブド』が襲撃された事件について日本の専門家たちの考察を集めた『シャルリ・エブド事件を考える』(月刊誌『ふらんす』特別編集)を彼女から貸してもらった。

 というのも、今回、パティさんが授業で扱ったのは、同紙が掲載した風刺画だったからだ。また、パティさんが襲われるのに先立つ今年9月、『シャルリー・エブド』がその風刺画を再掲載したところ、同紙の旧本社前でパキスタン出身の男が通行人を刃物で襲い、2人に重傷を負わせる事件も発生している。読み進めると、「これがフランス側の論理なのだな」と強く印象に残る文章があった。作家マリー・ダリュセック氏が記した「シャルリ・エブド追悼」という文章の一節だ。

〈「冒涜」の概念は民主主義においては何も意味をなさない。「冒涜」とは盲信の領域に属しており、表現の自由は理性の領域に属している〉(訳:高頭麻子氏)

 そのとおりなのかもしれない。

 だが、理性と盲信は、人間1人1人の中で同居しているように感じるのは私だけであろうか。

 その「シャルリー・エブド事件」に続き、死者130名、負傷者300名以上に及んだ「パリ同時多発テロ事件」が起きたのは、5年前の11月13日金曜日だった。奇しくも間もなく訪れる今年の11月13日も、金曜日にあたる。フランスでは何らかのテロも想定し、厳戒態勢だという。

教会との闘い

 宗教をも風刺の対象にするフランスの「表現の自由」のルーツは、1789年に始まったフランス革命まで遡る。絶対王政とそれを支えたカトリック教会という強大な権力を倒す中で、人々の自由な意見表明が非常に大きな役割を果たしたという自負がある。風刺画も、市民たちが権力に抗う上での武器として広まったのだ。

「表現の自由」は1789年の人権宣言にも記され、フランスの今の憲法に継承されている。つまり、現代フランスが成立した過程と「表現の自由」は密接に結びついており、故に、それを守ることにかけては、どのフランス大統領も引くことは許されない。

 風刺画を含めたフランスの「表現の自由」は、「権力に抗う手段」として始まったため、(権力者でない)個人を対象とした名誉毀損や犯罪教唆、ヘイトスピーチなどは認められていない。しかし、神も権力者であるとして、風刺は許される、とする。実際、今年9月、マクロン大統領も第3共和制の発足150周年を記念する式典の演説で、わざわざ、フランスでは「神を冒涜する権利」が保証されていると述べてみせた。

 一方で、これに関しては、フランス国内でも「但し書き」をつけるべきとの声もあるという。フランス人がカトリック教会と闘った歴史的文脈の上で神を風刺することと、他宗教を風刺することは同一ではないのではないか、と。ましてや、中東やアフリカからフランスに移り住んだ人たちは経済的に恵まれない場合が少なくない。イスラム教はそういう人たちにとって心の拠り所であって、市民を抑圧する強大な権力ではない、と。

「ライシテ」

 また、宗教をタブー視しない風土がフランスで続く大きな背景に、「ライシテ(laïcité)」と呼ばれる原理の存在がある。憲法の第1条に登場するほど、現代フランスにとっては重要だ。前述の「教会との闘い」からの流れで形成され、ひと言でいえば「政教分離」「非宗教制」「世俗主義」などと評されることが多いのだが、実際にはもう少し奥が深く、外国の人たちにとっては分かりにくい。フランスは難しいのだ。

 この「ライシテ」に詳しい東京大学の伊達聖伸准教授は、

「市民権と宗教的帰属の分離、良心の自由と礼拝の自由の保護、宗教に基づく差別の撤廃、国家が宗教や絶対的価値観に支配されないこと、国家の諸宗教に対する中立性などが重要な構成要素となる」

 と説明する。イスラム教の女生徒が公立学校でヴェールを被るのを禁じる法律が制定されたのも、「ライシテ」に依拠したものであった。つまり、どの宗教であっても信仰の自由は保証するが、どの宗教であっても政治や教育現場といった公の領域に持ち込まれることは認めないわけだ。

「国家が宗教や絶対的な価値観に支配されない」とする以上、おのずと「表現の自由」も預言者ムハンマドの姿を描かないイスラム教の価値観に支配されない、となる。

理性が盲信に映るとき

 教会との闘いを経て「ライシテ」を構築した歴史を持たない、日本を含めた東洋では、フランスとイスラム圏の摩擦を、「理」と「気」に置き換えると理解しやすい気がする。つまり、「表現の自由」という「理」を武器に、信仰という「気」の領域に斬り込もうとするフランス。その姿勢は、人によっては崇高な啓蒙活動と映るかもしれないが、人によっては他者への押しつけと映るかもしれない。

 別のケースも紹介したい。

 伊達准教授によれば、女性の権利擁護を謳うフランスの団体が、パリで2024年に開催されるオリンピックではイスラム教のヴェールを被る女性選手を派遣する国々(具体的にはサウジアラビアとイラン)を大会から除外するよう、IOC(国際オリンピック委員会)に働きかけているという。ヴェールの着用は、五輪会場で「いかなる種類の政治的、宗教的もしくは人種的な宣伝活動は認められない」とするオリンピック憲章に反するというのが理由だ。

 そう、「ライシテ」に基づいて公立学校でのヴェールを禁じたのと同じロジックだ。

 IOCに対するこの要求、賛否は別にして、その底流には「フランスにおける基準を国際的な基準として広めるべき」という信念が見え隠れする。

 これが、「表現の自由」をめぐる現在の摩擦にも通じる。フランスの人々は「表現の自由」に絶対的な正義をまとわせ、予言者ムハンマドであっても風刺の対象になり得る存在だとしてイスラム圏の人々もそれを受け入れるべきだと主張して譲らない。しかし、イスラム圏から見れば、価値観の押しつけに感じられる。

 もう少し踏み込むならば、フランスの姿勢は「理性」を説いているようで、異文化圏では、それこそダリュセック氏が軽蔑する「盲信」と映っても不思議ではないように思える。理性と盲信は我々の中で同居していて、かつ、両者を隔てる壁は、そう厚くもないのではないだろうか。

 マクロン大統領を筆頭に、フランスの人々は、国の歴史にかけて、今後もタブーなき風刺画を含めた「表現の自由」の価値を否定することは、できない。また、繰り返しになるが、テロは許されない。ただ、フランスの信じる価値が、他の文化・宗教・歴史の人々の目にも全く同じように映るとは限らない現実も受け入れて、自らの主張を唱える際の「強度」には調整の余地があるのではないか。現実と折り合いをつけるのも、1つの理性のように思える。

池畑修平
『NHK』報道局記者主幹、BS1『国際報道2021』キャスター。1969年生まれ。1992年東京外国語大学卒業、『NHK』入局。1998年報道局国際部、韓国・延世大学に1年間派遣。ジュネーブ支局で国連機関や欧州・中東情勢を、中国総局(北京)では北朝鮮や中国の動向を取材。2015年~2018年ソウル支局長、南北関係や日韓関係、朴槿恵大統領の弾劾から文在寅政権の誕生、史上初の米朝首脳会談などを取材。著書に『韓国 内なる分断』(平凡社新書、2019年)

Foresight 2020年11月11日掲載

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