【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(13)戦塵のかなた見果てぬ夢 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ

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「幻想交響曲」(エクトル・ベルリオーズ作曲)に「野の風景」(第3楽章)という不思議な楽章がある。追い求めても手の届かぬ女への恋情に翻弄され、断頭台への道を生き急ぐ男に訪れる束の間の静寂の夢。

 読むたびに連想を誘う記述が、本連載の主人公、青森出身の対馬勝雄少尉(陸軍歩兵第三十一連隊)の日記にある。

 満州での戦闘が激しさを増していたさなかの1932(昭和7)年4月1日、奉天で書かれた日記の「余ノ個人生活ノ理想」という一節だ(『二・二六事件 對馬勝雄記録集「邦刀遺文」』所収)。

農の暮らしへの憧憬

〈余ハ故郷ノ平和ナル一部落ノ百姓トシテ暮シ得ンハ甚ダ満足デアル。余ハ敢ヘテ村長タルヲ希望シタイ。自ラ人生ヲ楽シミツゝソノ部落ノ自治助長、共存扶助ニツクシ且ツ文化ニ貢献スルニ力(つと)ムルノミデアル。シカモ日常国家的問題ニ注意ヲ怠ラズ推移ヲナガムルデアラウ〉

〈余ハ自作農トシテ最小限二町歩乃至五段部ノ土地ヲ有スレバ満足デアル。其内概ネ半分ヲ田トシ残リヲ畑地及宅地ニスルデアラウ。別ニ私有又ハ共有ノ山林等ガアレバ多々益ヲ弁ズルノミデアル〉

〈余ハ馬ヲ一頭鶏ヲ数十羽飼ヒタイト思フ。コレニヨッテ肥料ヲ自給スルノデアル。余ハ村オ共同製酒所ヨリ自給セラルゝ濁酒ヲ飲ンデ陶然トセンコトヲ願フ。菓子ヲ購ウコトナク甘藷、南瓜、菓物ヲ代用センコトヲ思フ。又乾柿ヲ以テ糖分トシ蜂蜜ニヨリ菓子ヲ自製センコトヲ思フ。下駄ヲハカズ草履ヲ用ヒ懐中電灯ヲ用ヒズ提灯ヲ用フ(然シ燈火ハ電燈ニヨラント欲ス)燃料ハ山ノ柴ヲ用フ〉

〈莨(たばこ)ハ畑ニ栽培ス。蓋シ莨ノ栽培ハマタ畑ノ害虫ヲ去ルノ効果アルナリ。家ノ北側ノ軒下ニハ「ミジ」(注・山菜のミズ)ヲ栽培スルデアラウ〉

 駐屯先だった関東州荘河の兵営の夜更けにつづったのだろうか。東北の同時代人であった宮沢賢治(1896~1933年)の『雨ニモマケズ』の響きにも通じる静謐な決意や、農の暮らしへの憧憬が、殺伐たる戦地の砲煙、銃声、阿鼻叫喚とは別の世界から伝わる。最後の一節はこうだ。

〈余ハ村ニ少年団ヲ建設シタイト思フ。ソハ質素作業洋服ヲ着テ相当軍規的訓練ヲ施スノデアル。又鳩ト犬等ニ稍々重点ヲオキ一面我軍事界ニ資スルノデアル〉

 このくだりだけ軍国的に聞こえるかもしれないが、筆者には、勝雄が古里・青森市相馬町での貧しい少年時代、近所の男の子たちを集めて軍旗や基地を作り、教練ごっこをし、イソップ話を聞かせた「少年団」(本連載4回『青森・相馬町の浜から』参照)を瞼によみがえらせているように思える。

 果たして、故郷の現実はどうだったのか。1930(昭和5)年の農村恐慌、翌31年に始まる東北大凶作で、東北の村々には寒々とした枯れ田や娘身売りの光景があり、困窮した小作農民たちと地主とのさらに激しい争議が広がっていた。

先鋭化する小作争議

「小作人から田畑をとりあげるな」「小作人を人間扱いにせよ」「小作人の生き血を吸う鬼畜地主を倒せ」――。

 1926(大正15)年、本州北辺の冷害常襲地にこんなスローガンを筵旗に掲げ、地主に対峙した青森県車力村(現・つがる市)の農民組合の話を本連載7回『津軽義民への道』で紹介した。大凶作でも収穫の4割もの小作料を頑として譲らぬ地主との闘いは、さらに先鋭化した政治闘争になっていた。

 戦前・戦後の青森の農民譚を記録してきた著述家、秋田義信さん(94)=青森市=は、昭和初めの騒然たる古里・車力村を多感な子どもの目で見つめた。

「小学生でランドセルやズック靴は地主の子ども1人。あとは風呂敷包みを腰に結わえ付け、男子は夏に裸足、冬も足袋だった。女の子は田んぼに出る親の手伝いで休んだり、弟や妹を学校の廊下で子守りしたりした。

 集落では農民組合が開く街頭演説会が盛んで、淡谷悠蔵(全国農民組合青森県連合委員長・戦後は衆議院議員)や青森の共産党の大沢久明らが我が家の前で熱弁をふるった。私が夕方の食卓で『われわれ労働者は……』と弁士を真似て、父親から怒られたものだった」

「地主は小作料を払えない農家の土地を取り上げようとし、農民組合がそれを阻止した。小作米不納で団結し、地主の手先が農家に催促に歩くと仲間で包囲し、地主の家に押し掛けた。ある尋常小学校では農民組合の人たちが子どもを学校にやらず、国定教科書の授業を受けさせない運動を始めた。

『アカ』といわれて首になった教師を連れてきて、お堂を教室に臨時学校を開いた。その読本の初めに『地主の子どもはゲンダカ(方言で毛虫)の子』とあったそうだ。小学校の朝礼には誰も来ないので、校長が烈火のように怒った。警察からは弾圧されたが」

 当時の労働人口の半分を占めた全国の農民の負債は、1931年7月の農林省の推計で約60億円(現在の約10兆800億円)、1戸当たり約1060円(同約190万円)で平均年収を上回り、1912(明治45)年の推計との比較で8倍余に急増した。革命前夜のような車力村の様相は、もはや起つしか手段のない農民の絶望の現れだった。暴力で潰そうとする地主との衝突も各地で頻発した。

〈厖大化する農民負債の相當部分は高利貸しあるいは寄生的地主からの法外な高利率をもっておこなわれ、このことがさらに農民經濟を壓迫し負債を累增せしめた〉

〈農業恐慌の激化は、農業危機を一層具體化し、國家權力をかつてない動揺にみちびき、なんらかの補強工作を必要とするまでに、半封建的な農村社會機構を震駭せしめた〉(白川清「昭和恐慌下の農村財政」=『農業総合研究』1951年第2号所収=)。 

 海軍将校や茨城県の農民らが「農村救済」を掲げて起こした五・一五事件(1932年5月15日)の後、殺害された犬養毅首相の後任の斎藤實首相(退役海軍大将)は、全国から殺到した農村救済請願の運動を受けて開いた第63回議会で、

「諸君、不況困憊の難局に直面して、農山漁村及中小工業の窮状に對し、之が匡救(きょうきゅう)策を講ずることは、今期議会の使命であります」

 と演説する。 

 農村匡救事業は3カ年で国費約5億円(現在の約9000億円)に上るが、満州事変を背景に、

〈「時局匡救に名を借りた軍事費」の支出を含んでおり、さらには匡救事業費中首位を占める内務省匡救豫算には「軍事國道費」あるいは軍港湾費が含まれていたのであった〉(前掲白川清論文)。

 この年、国家歳出の35%を占めた軍事費は翌々年43.5%に拡大。匡救事業を圧迫し、3年で打ち切りとなる矛盾を生む。

 最も優先すべき地主制の改革は避けられ、最後は「農村部落ニ於ケル固有ノ美風タル隣保共助ノ精神」で農民の奮起を促す「自力更生」運動が推し進められる。

家族に満州移民を勧め

 勝雄も満州にあって、部下の岩手出身の兵士たちの声や日々の新聞を通して、東北の農村の窮状を我が身のことと憂えていた。

 では、〈余ハ故郷ノ平和ナル一部落ノ百姓トシテ暮シ……〉という日記は、戦火のさなかの一夜の郷愁、あるいは幻想に過ぎなかったのか。

 筆者には、それは満州という新天地に勝雄が見出そうとした「新しい故郷」への夢ではないか、と思われるのだ。

 その日記と同じ4月1日、勝雄は父嘉七さん宛に手紙を書いている。

〈豊年は豊年飢饉、凶年は凶年飢饉で百姓もどうにもならないでせう……〉

 という絶望的な記述の後に、その思いはつづられる。

〈次に満洲は絶対によい処であります。心配無用、たゞし従来の営利一点張りの金儲主義はだめであります。先ず自給自足経済の観念にて着々と進むべきであります。百姓でも嫩江(のんこう・満州北部、黒竜江省の町)の湿地はそのままゝ水田でモミをまいたきりで草も生えず秋とり入れるのみであるそうです。また馬鈴薯も可、羊の飼育も有望、気候は悪くありません。悪いのは景色だけです。(勝雄の所属する)第八師団が駐屯になる様なら是非移民して下さい〉

 ひと月前の3月1日、関東軍は清朝最後の皇帝だった溥儀を執政に据え、満州国を独立させた。独立宣言では、

〈凡そ新国家の領土内に居住するものは皆種族の岐視尊卑の分別なし原有の漢族満族蒙族及日本、朝鮮の民族を除く外即ちその他の外人と雖も長久に居住を願うものは又平等の待遇を受くる事を得〉

 と、「五族協和」が謳われた。傀儡国家の建国にも、満州事変を戦った現場の軍人には安堵と楽観があったのだろう。勝雄は、東京で洋裁の修業をしていた妹たまさんに「ミシンを買ってやる」と約束していたが、同じ日記でやはり満州での開業を勧めた。

〈又商売ではたま子のやっている仕立屋などよいと思います。ハルピン辺りでは着物をぬふだけでも大多忙です。何故かといふと(内地から)当地にくる女は水商売やそんなものでハリをとることをしらず、また知っていてもとらぬといふ位です。

 薬屋は相当あります。チゝハルだけでも日本薬屋三軒あり、これからは平和にさえなれば日本人の薬屋のゐない処にて薬屋も有望であります。とにかく日本人のゐない処には商売がよい。集団でゆくなら農業が確実、又チゝハルの奥なら内地と連絡して気のきいた食料品店も(選択として)よくあります〉

 嘉七さんへの満州への移民の勧めは、以後の手紙でも熱心に説かれる。

〈第八師団は満洲に来る様に候がいづれ官舎が出来たならばそこに入る様にして家族としては将来、渡満せられては如何に候哉。その前に家督を私に譲り官吏の家族として将来全然内職もなにもせず 或いは集団移民と一緒に来るか。又は単独移民と一緒に長春付近にて暮らすか如何に候哉〉(4月8日)

〈錦州は仲々暑く相成候 然し凌げない訳でなく出来れば家の方も移住する様にいたしたく考え居り候……(文末の追伸)満洲国承認、農村救済は議会で決議せるも実行力うたがはれ候〉(6月28日)

〈満洲は非常によい処と存じます。匪賊のおかげで適当に緊張して暮しよくあります。何れ将来出来るならば一家全部吉林方面へでも移住すれば甚だ結構に存じます。今に満洲の農業が一番さかえる時が来るでせう〉(9月24日)

 満州国は、勝雄だけではなく当時の多くの日本人の目に、建国のもう1つのスローガン「王道楽土」のごとく、昭和の初めを重く覆った困窮と閉塞から解き放たれて未来を生き直せる土地と映ったのだろうか。

 後に東北などの貧しい村々を分村させてまで約30万人もの農民家族や若者を送り出し、悲劇的な破局と犠牲をもたらす「満州開拓移民」の国策が芽生える前夜のことだ。                 

「生産権奉還」に共鳴

 この時期、勝雄が読んで感化された本がある。日記や手紙に記し、国家改造運動を志す青年将校の同志や親しい人々に自腹で寄贈したと思われる。

〈長沢九一郎氏著「生産権奉還」をヨミテ感深シ、酒肴料ヲ以テ本ヲ買ヒ各方面ニ送ラントス〉(5月7日の日記)

〈農村の自覚はこの際喜ぶべきことであります。吾々は凡て自力更生で進むべく国内にては農村と在郷軍人さへしっかり手を取って奮起すれば大丈夫であります。最近この感特に深く上級者はたのむに足らぬ気がします。先日お送りした生産権奉還の書は私のチゝハルにていたゞいた御下賜の酒肴料を以って購ったものであります。最も意義ある様に使用したのであります。内容或ひはむつかしいかもしれぬのですが我々は熾烈なる皇民の情操を以て光輝と躍進の跡とを有する昭和維新に到達したいと希ふのであります〉(8月28日、岩手県の元部下への手紙)

 1932(昭和7)年刊行の同書(先進社)の著者長沢九一郎は社会主義から国家主義者に転向し、盟友の遠藤友四郎と共に「尊王急進党」を結成。「昭和維新」を唱える活動家の1人として内務省警保局からマークされていた。

 生産権奉還とは次のような主張だ。

 明治維新は、天皇の下に全ての臣民が一体で奉仕する国体に還る時だったのに、大名の版籍奉還だけの不徹底に終わり、元勲らが欧米に幻惑されて採った資本主義が今日の財閥などの搾取と社会格差、貧困を生んだ。企業や工場、農業などすべての経済分野の生産権も天皇に奉還し、真に平等公平な皇民の道義国家を目指すべきだ――。

 こうした思想に勝雄ら青年将校たちは共鳴し、その目標を阻む財閥や、癒着する政党政治を打倒し天皇親政を実現することが明治維新の完成、すなわち昭和維新の断行であると考えた。

 勝雄は満州で3年目を迎えた1933(昭和8)年の元旦、「新年ニ當リ東天ヲ拝シ昭和維新ノ断行ヲ期ス」と題した長文のメッセージを書いて謄写版で印刷し、同志たちに送った。

〈鉄、石炭、交通、肥料、移民等モトヨリ國民ハ滿蒙開發ニツイテ功利的思想ヲ抱イテハナラヌカ當局者トシテハ 滿州開發ニヨッテ現下ノ國内不況ヲ打開シ以テ國民一般ニ希望ノ光明ト元気トヲ抱カシメネバナラヌ〉

〈個人的榮利資本主義ヲ滿州ニ奔放ニ跳梁セシメタナラハ利ヲ追ッテ止マヌ資本ノ本質上現地住民ハ其搾取ニ苦悩スルニ至ルテアラウ。コレニ反シ農業的工業的集團移民ハ日鮮滿蒙ノ民族互ニ其部落ヲ形成シ自立自活而シテ協和ノ平和郷ヲナシウルモノト信スル〉

 勝雄にとっては、昭和維新の断行も、満州での理想郷の実現も、困窮する国民に希望の光明を灯すことも1つにつながり、そのために満州で戦っていると信じた。

 それが成った時、自らは軍服を脱ぎ、貧乏暮らしの苦労を重ねた青森の両親ら家族を満州に呼んで、新しい故郷をつくり、〈余ハ敢ヘテ村長タルヲ希望シタイ。自ラ人生ヲ楽シミツゝソノ部落ノ自治助長、共存扶助ニツクシ且ツ文化ニ貢献スルニ力(つと)ムルノミデアル〉と、戦塵のかなたに見果てぬ夢を描いたのではないか。4年後には二・二六事件の蹶起に加わることになるが、勝雄は革命家ではなかった。

大凶作に続いた三陸津波

「津波・火災の襲来 死傷者行方不明者 家屋の流出燒失夥し」

 1933年3月3日の『河北新報』夕刊トップの大見出しだ。その日午前2時半ごろ、岩手県釜石沖約200キロを震源とする大地震が、岩手、宮城を中心とする太平洋岸に巨大津波をもたらした。翌日の朝刊には、被災した海岸集落の悲惨な運命を詳報する記事と写真が満載された。

「正視し得ざる釜石 全町にもの凄き阿鼻叫喚!」

「漁船は木っ葉微塵」

「波に押し上げられ 路上に轉がる傳馬船」

「着の身の儘さ迷ふ老若男女」

「十五濱村荒部落 殆ど全滅の悲況」……。

 いまに伝承される「昭和三陸大津波」が、勝雄の属する満州の第八師団(弘前)の兵士たちに伝えられたのは、発生からおよそ1カ月後。関東州の要衝、山海関での激戦(本連載第12回『凶作の郷里、慟哭の戦場』参照)に続いて、国境を越えた中国・熱河省への侵攻作戦に動員されていたさなかだった。同月27日に日本は国際連盟脱退を通告する。

 勝雄が乗馬小隊長を務めた第三十一連隊(弘前)のある兵士は、戦後、同連隊第二中隊の戦友会(アカシア会)の「中隊出身者想い出記」にこう記憶をつづった。

〈幹部が「今から一カ月前の三月三日、三陸津波があったという。直ぐにみんなに知らせたかったが、戦斗中であったので、志気に影響があったらいかんと考え、今日の報告になった」という。「津波」と言えば、他人事ではない。私の家も作業小屋も、八木港(岩手県洋野町)の海岸近くにある。私には漁船もあり、其処には兄弟も住んでいる。常に私の念頭から「津波」のことは離したことのない重大事なので、もっと詳しい被害状況を知りたいと思った。だが、津波の詳細を知っている人は一人もいなかった〉

 その37年前、1896(明治29)年6月15日には明治三陸大津波があり、三陸の住民は死者行方不明者が約2万2000人という痛ましい体験を家族史に刻んでいた。

 大船渡市(旧岩手県三陸町)の津波研究家、山下文男さん(故人)の『昭和東北大凶作』(無明舎出版)によると、昭和の大津波があった当時、岩手から出征兵士を送り出していた家の被災戸数は420戸に上り、うち386戸が熱河作戦に出動中の兵士の家だった。その郷里の人々は大凶作に続いて、さらなる辛酸をなめた。

 当時の被災地の1つ、大船渡市三陸町綾里(旧綾里村)の白浜を筆者は昨年訪ね、当時9歳だった熊谷正吾さん(94)の体験を聴いた。明治の大津波では波高38.2メートルを記録し、100人以上が犠牲になった場所だ。

「あの寒い夜、2度の大きな地震の後、ものすごい大砲のような音が海から響き、明治の津波を生き延びた祖父の声で家族全員、真っ暗な中を裏山の畑に逃げた」

 雪が降った真っ白な朝、42軒の集落はほとんど崩壊、流失していた。死者・行方不明者は66人を数え、熊谷さんと同じ小学生も23人が犠牲に。残った住民が潰れた家を起こして避難所にし、無事な布団を敷いてけが人を救援した。

 壊れた部材を縄でしばったような小屋で仮住まいをし、青年団の支援などで暮らしをつなぎ、3カ月ほどして「助け合って『復興地』を造ろう」という話が出た。高台移転である。地主に交渉して土地を借り、自力更生事業の土方作業や出稼ぎで働き、山や畑を売り、国の金を借り、1軒40円(現在の約7万円)の建築費を懸命に蓄えた。 

「自力更生という言葉を覚えている。海と山に挟まれた白浜は田んぼが乏しく、魚とワカメだけで稼げず、麦やヒエ、アワばかり食い、なければよその家から借りてしのいだ。うちは狭い田んぼもあって10人家族が何とか食えたが、大津波の翌年の昭和9年はまたも大凶作。コメが全く実らず、畑の大根やサツマイモくらいしか取れず、盗みも出た。支那事変(1937年)の前あたりから、皆で材料の木を山から運んだり、製板所に出したりして、やっと家を建てた」

 満州事変はそんな集落からも男手を奪ったが、

「軍隊に行けばやっと飯が食える、と聞かされた」

 と熊谷さん(自身は横浜の造船所に徴用後、大湊海兵団に入隊)。それから太平洋戦争まで白浜からは407人が出征し、112人が戦死したという。

死ぬことを当然と願う

 新しい郷里をつくる夢を、結局、勝雄は胸にしまい断念することになる。満州事変での中国軍との戦闘がひとまず止む1933(昭和8)年5月31日の塘沽停戦協定まで、勝雄は多くの部下に戦死され、実家近くの観音堂に息子の無事を日々祈願していた母なみさんに自らも、

〈戦死でもしたら喜んで皇国のため目出度し/\とやって貰わねばならんと存じ候 これは今後に於ても同じことにて平時戦時をとはずいつ死なれてもかくあらんことをお願い申し候〉

 と、死ぬことを当然と願う手紙(同年6月26日)を書き送った。古里への「後顧ノ憂」を抱きつつ逝った部下たちへの責任を、二・二六事件での蹶起の理由にさえした(本連載12回参照)。

 そして、最期まで軍人たれ、と勝雄を引き戻したであろう1本の新聞記事がある。父嘉七さんの遺品に『報知新聞』青森岩手版(1932年7月2日付)の切り抜きがあり、勝雄も満州で同じ記事を読んで、

〈御両親の御言葉に私は満足至極に存じます〉

 と手紙(1932年7月13日)に書いた。

〈「私の子ではない 天子様のものです」 対馬少尉の御兩親は語る〉という見出しのその記事には、

〈男はたゞ一人ですが軍籍にあげれば御国のものですから自分の子供とは思ひません〉

〈勝雄は天子様のものですからウンと働いて呉れゝばいゝとそれのみ祈つてゐます〉

 と両親の談話が載っている。

 しかし、嘉七さんは日露戦争の凄絶な従軍体験から、勝雄の陸軍幼年学校入りに反対し、なみさんは勝雄が満州で手を負傷した際にも眠れぬほど心配を募らせたという。この記事は、満州事変とともに戦意高揚へと舵を切った報道が、戦勝気分で盛り上げた軍国美談の1つというほかない。そんな弾みもまた、家族それぞれを後戻りのつかぬ運命に追い込んでいった。

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2020年10月24日掲載

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