タイ「大規模デモ」が問い直す「未完の民主主義」

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 10月14日、タイ・バンコクではプラユット・チャンオチャ政権の退陣と王室改革を求める大規模な政治集会が開かれた。

 警備当局が厳戒態勢を敷く中、時計の針が深夜0時を過ぎても街頭行動が止むことはなかった。15日払暁には、プラユット政権が5人以上の集会禁止措置を含む非常事態宣言をバンコクに発し、午後になると同措置を11月13日までの30日間に延長することを明らかにした。

 13日から15日にかけ、デモ隊指導者の50人前後が逮捕され、「平民団体」を名乗る集会の主催者が解散宣言を発したにもかかわらず、「1人1人が指導者」を掲げた参加者の街頭行動はエスカレートする一方だった。

「人民バンザイ」

「封建体制は必ず滅ぶ」

「プラユットは無能」

「我らが友人を釈放せよ」

 との叫びは、終日続いた。

 14日から15日にかけ王毅・中国外交部長がタイを訪問し、プラユット首相と会談したこともあってか、街頭には「香港独立旗」や「チベット独立旗」までが登場している。

 17日午前には地下鉄と高架鉄道駅での示威行動が噂されたことから、当局が空港路線を含む首都圏交通網を停止し、香港で昨年6月に発生した混乱の再現が危惧される。

「絶対に退陣しない」

 プラユット首相は、

「絶対に退陣しない」

「香港型の混乱は許さない」

 と発言する一方、全国民の支持を呼び掛ける。

 だが、デモは一向に収まる気配はなく、21日夜には首相退陣を求めて首相府へのデモが敢行された。これに対しプラユット首相は「平和的デモ」を条件に、22日に非常事態宣言解除をしたのである。

 まさに朝令暮改的な政府側の対応の背景を考えるなら、かりにプラユット首相が退陣したとしても、混乱の鎮静化は容易ではないだろう。

 最悪の場合、軍事政権退陣を求めた街頭行動の制圧に国軍が乗り出し、バンコクに大混乱を招いた1992年の「5月事件」、あるいは2006年から2014年まで繰り返され、タイ政治を機能不全に陥らせた「赤シャツ派(タクシン支持勢力)VS.黄シャツ派(反タクシン勢力)」の長期抗争のような事態も想定しておく必要がありそうだ。

「香港独立旗」「チベット独立旗」の登場は、中国との友好関係に障害を引き起こしかねない。その場合、プラユット政権の目玉政策である経済発展のための国土改造プロジェクト――中国との協力による高速鉄道建設「EEC(東部経済回廊)構想」など――に支障を来す可能性すら想定される。

 どうやらプラユット政権は、新型コロナ禍との戦いの最中にもう1つの厄介な問題を抱えてしまったと言えるだろう。

前日に行われた前国王の法要

 じつは14日からの緊張とは対照的に、13日のタイは全国的に平穏に過ぎた。4年前の10月13日に亡くなったプミポン前国王を偲び、その遺徳を讃える厳粛な式典が、国を挙げて行われたのである。

 バンコクでは王宮に高僧が参集して法要が営まれ、人々は国王欽慕の意を表す黄色の服を纏い、王宮に安置された前国王像に首を垂れた。

 一連の式典のために生活拠点を置くドイツから一時帰国したマハー・ワチュラロンコン国王夫妻の車列に向かって、雨の沿道からは歓呼の声が上がった。

 王宮前広場ではプラユット首相に率いられた枢密院議長、国会議長、最高裁長官、閣僚、バンコク都知事、国軍首脳、警察局長など純白の礼服に身を包んだ文武百官が威儀を正して整列し、芝生に跪いて前国王の巨大な画像に額づいた。

 タイでは「カーラーチャカーン」と呼ばれる彼らは、公僕(=公務員)ではない。現在でもなお「ラーチャカーン(国王)」の僕(しもべ)として振る舞い、遇されている。

 雨に打たれた王宮前広場の鮮やかな緑の芝生に純白の礼服が映え、英明な君主を慕う臣下の姿が描き出される。それは、王国であろうとするタイの意志を具象化しているようにも感じられた。

 こうして中世王朝絵巻さながらに可視化された「王国としてのタイ」はしかし、翌14日には綻びを覗かせてしまう。

1973年10月14日の「血の日曜日事件」

 ここで1つの疑問を持つ。なぜ街頭行動は前国王の祥月命日の翌日に呼び掛けられたのか。

 それは、この日がタイの民主化にとって象徴的な1日であることに起因しているはずだ。

 1973年10月14日に起きた「血の日曜日事件」を境に長期軍事政権は崩壊に向かい、学生らが求めた「民主化」が達成された。

 当時のタノム・キティカチョン政権は、1960年代前半から続く長期軍人独裁体制を布いてはいたものの、国内的な不満に加え、ヴェトナム戦争における解放勢力の躍進という内外情勢を受け、動揺を隠せなくなっていた。この機を捉えた学生らは民主化要求を掲げ、一気に攻勢に転じ、10月13日にバンコクに一般市民を加えた40万人を集め、反軍事政権を掲げたデモを敢行した。

 長期軍事独裁体制下では考えられない異常事態の渦中で、それまで政治的振る舞いを控えていたプミポン国王が動いた。独裁政権と民主化運動中核の学生組織の仲介役を務め、軍事政権側に民主憲法発布と公平な選挙実施を約束させたのである。

 国王の存在を背景にした勝利に勢いづけられた学生の一部は14日になっても街頭行動を止めることなく、王宮に向け動き出す。さらなる民主化を国王に期待したのだろう。 

 この動きを阻止した武装警官との間で衝突が起こり、死者77人、負傷者857人という流血の惨事となり、官庁街での焼き打ち事件にまで発展した。

 一連の異常事態の責任を負う形でタノム政権は退陣し、それまでは国軍内の派閥抗争と同義語に近かった権力構造は、激変してしまう。政治的影響力を大幅に後退させた国軍に代わって、民主派を掲げる勢力が国政の中枢を占めるようになったのだ。

 この事件は、10月14日に因んで「シップシー・トゥーラー(10月14日)」とも表現される。

タイ社会が陥った「民主化のジレンマ」

 新しく国政を担った勢力にとっての政治行動の規範は「国王を元首とする民主主義」であり、そこで念頭に置かれている「国王」はプミポン国王を措いて他には考えられなかっただろう。

「シップシー・トゥーラー」は「学生革命」から半世紀ほどが過ぎた現在でも、タイでは民主化を意味する強いメッセージである一方、国王の意向がタイ内政に決定的影響を与えることが明らかになった1日でもあった。

 こうして「国王を元首とする民主主義」はプミポン国王によって具現化され、可視化されていったのである。

 だが、タイ社会はこの事件を機に「民主化のジレンマ」に陥ってしまったことを敢えて指摘しておきたい。

 王制と民主化の相克という「メビウスの輪」に閉じ込められたまま、タイは現在に至るも決定的な“解”を得られていないのだ。

 今回の事態の根底には、軍事政権の延長に近いプラユット政権下の社会的不平等・不公正に対する若者の不満や、新型コロナ禍に起因する社会不安などといった一般に伝えられる要因を超えた、いわばタイが根源的に抱えている問題が潜んでいる。

「象徴としての天皇」に関心を示していた

 ここで指摘しておきたいのが、1976年と77年の2度のクーデターの指導者で、77年から80年まで政権を握ったクリアンサク・チャマナン元首相が、現行の日本国憲法が定める「象徴としての天皇」に極めて強い関心を示していたことである。

 かりに「象徴としての国王」が実現していたとしたら、タイは「メビウスの輪」から脱することが可能であった。あるいは「象徴としての国王」は現実政治の動きを超越した存在と位置づけられ、新たな形の「国王を元首とする民主主義」に踏み出していたかもしれない。

 だが政治の現実は、そのようには進まなかった。

 王党派を軸とする政党が、国軍主流を軸とするクリアンサク政権打倒に動き、国軍本流とは一線を画していた国防相のプレム・ティンスラーノン大将を担ぎ出してプレム政権を成立させたのである。

 プレム政権は国王との関係をテコに政権基盤強化に努めた。

 プレム首相は1981年4月の国軍主流を背景とするクーデターを叩き潰したことで国軍の主導権を握る一方、国王を補完する形で国政に圧倒的影響力を発揮し、維持することになる。以後、国軍はプレム大将にとっての現実政治の上での“禁軍”と化した。

 こうして1980年代初頭に同一歩調を取り出した国王(権威)とプレム大将(権力)の下で、数々の政治混乱の収拾が図られ、現在まで続くタイ社会の安定と融和が維持されてきた。プミポン国王とプレム大将(後に枢密院議長)の連携こそが「国王を元首とする民主主義」の実態であった。 

 そして、この図式を下支えしてきたのが、かねて筆者が指摘してきた「ABCM複合体」――A(王室)、B(官界)、C(財界)、M(国軍)――である。

今回の事態を誘発した「2人の不在」

 もっとも、筆者がこれまで述べてきた通り、この図式が政治の長期的安定をもたらし、彼らを既得権益層へと押し上げ、社会を固定化させたことも忘れてはならない(2018年12月27日「政変の歴史」から見通す年明け「タイ総選挙」)。

 1992年の「5月事件」から2014年のインラック・シナワット政権打倒のクーデターまで続いた近年の長期混乱は、「ABCM複合体」に対する非既得権益層(新興企業家群、中間層、都市・農村の低所得層)の“異議申し立て”と見做すことも可能だろう。 

 タクシン・シナワット元首相は、敢えて表現するなら、成功した企業家という一個人ではなく社会の不公正・不平等を示す“記号”であり、タクシン支持勢力の「赤シャツ」は、「ABCM複合体」に対する不満を可視化したものではなかったか。

 そして、その“異議申し立て”を封じ込める形で「国王を元首とする民主主義」を維持してきたのが、プラユット(暫定)政権だった。

 だが、2016年10月13日にプミポン前国王が亡くなり、2019年5月にはプレム大将も98年の生涯を閉じた。

 プレム大将の死去を受けて、マハー・ワチュラロンコン国王はシリントーン王妹を納棺儀式に遣わし、王国タイの臣民としては至上の栄誉を賜っている。さらに1週間は半旗を掲げ、21日間は喪服、あるいは喪服に準じた服装で哀悼の意を表すよう全国民に呼び掛けた。

 こう考えると、今回の事態を誘発した大きな要因は、やはり「国王を元首とする民主主義」を支えてきた2人の不在にあるのではなかろうか。

新たな“タイのかたち”へ

 ここで不思議に思うのが、1980年代以降の政治的混乱の渦中で「国軍の政治介入反対」「民主化」などの声を上げ、運動の先頭に立ったチャムロン・シームアン元バンコク都知事など“民主化のシンボル”の顔が、今回は見えてこないことだ。

 そういえば赤シャツ勢力との街頭衝突の罪を問われていたチャムロンは、2019年5月のワチュラロンコン国王戴冠式を期して行われた恩赦によって釈放されている。

 今回の一連の動きが、どのように推移するのかは予断を許さない。いったい彼らの活動資金はどうやって調達されているのか、彼らの背後に、どのような政治的利害打算が働いているのか、現在までのところ確たる判断材料を持ち合わせていない以上、軽々な判断は控えておきたい。

 だが、民主化の達成という意味では未完に終わった「10月14日」に、半世紀ほどの時を超え「国王を元首とする民主主義」が問い直されたことを指摘しておきたい。

「国王を元首とする民主主義」を誰が、どのような形で護っていくのか。今後とも、それは機能するのか――。

“新たなタイのかたち”に向かっての胎動が、いま始まったように思う。

樋泉克夫
愛知県立大学名誉教授。1947年生れ。香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士課程を経て、外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(83―85年、88―92年)。98年から愛知県立大学教授を務め、2011年から2017年4月まで愛知大学教授。『「死体」が語る中国文化』(新潮選書)のほか、華僑・華人論、京劇史に関する著書・論文多数。

Foresight 2020年10月23日掲載

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