中東はなぜ“親日”が多いのか 東日本大震災義援金の4割はクウェートからだった

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 クウェートのサバハ首長が9月29日、米国の病院で亡くなった。享年91。クウェートは中東ペルシャ湾岸の立憲君主国だが、日本との縁は深い。特にサバハ首長は日本の皇室の在り方に、深い敬意を抱いていたのだという。ジャーナリストの西川恵氏の著書『皇室はなぜ世界で尊敬されるのか』には、クウェートと日本の皇室をめぐる興味深いエピソードが登場する。以下、同書から引用してみよう。

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特筆すべきクウェートの親日ぶり

 広島平和文化センター理事長の小溝泰義(こみぞやすよし)氏は、外務省での最後のポストが駐クウェート大使だった。2010年8月から2年余の在任だったが、忘れがたい思い出がある。

 赴任した夏の終わり、サバハ首長に信任状を奉呈した。ふつうは天皇、皇后からのメッセージを伝え、大使として自分の決意を表明して終わる、10分から15分の儀礼的なものだ。しかしサバハ首長は小溝氏が話し終わると、「湾岸戦争では本当に日本に感謝しています」と語りかけた。

 1990年から91年にかけての湾岸危機・戦争では、日本は多国籍軍への協力として130億ドルを支援した。しかし戦争後にクウェートが米紙に載せた感謝広告に日本の名前がなかったことから、日本では「感謝されていない」と騒ぎになった。いまではこれはクウェート側の凡ミスだったことがほぼ明らかになっている。感謝広告は当時のクウェート駐米大使のイニシアティブで進められたが、事実上、米国の広告会社に丸投げだったからだ。

 ただ日本に不愉快な思いをさせてしまったとの気持ちがクウェート政府関係者には強く、日本人が恐縮するほど感謝されるケースも少なくない。サバハ首長の感謝の言葉は間もなく行動を伴って示された。

国交樹立時から良好な関係

 日本とクウェートは国交樹立のときから良好な関係にある。クウェートが英国から独立したのは1961年6月。これに対して隣国イラクは「クウェートはわが国の一つの州」と主張し、クウェートと国交を結んだ国とは断交すると脅した。欧米がクウェート承認をためらうなか、日本は他国に先駆けて独立半年後の同年12月に承認した。63年2月にイラクで軍事クーデターが起き、同年10月、イラクはクウェートの独立を承認。欧米が承認するのはこれ以後で、日本から2年遅れだった。

「2011年12月を中心に、日本大使館は修好50周年を祝うさまざまなイベントを行いましたが、他の大使館が静かななかで日本が突出して目立ちました」

 と小溝氏は語る。

東日本大震災で450億円の寄付

 クウェートの親日ぶりを見せつけたのは、この年3月に起きた東日本大震災のときだった。サバハ首長の決断で、同国は原油500万バレルの無償提供を決定した。額にして450億円相当である(編集部注:この金額は海外からの義援金全体の4割に当たる)。同国は国家予算の90%が原油輸出収入で占められ、憲法で原油の使い道が厳しく規制されている。

「場合によっては政府が倒れるリスクがありました。しかし決定後、批判めいたものは起きませんでした」(小溝氏)

 この支援がもう一つ異例だったのは、サウジの対日支援を大幅に上回ったことだ。サウジの弟分として、クウェートは援助のとき常にサウジを見て、やや少なめにするのが通例だった。しかし東日本大震災ではサウジの2千万ドル(当時のレートで16億円)相当の液化石油ガスの支援と比べ、額で25倍以上と突出した。

 小溝氏はぜひともお礼を述べたいと思い、サバハ首長が出席するある会合で、石油大臣に頼んで出口のところで待たせてもらった。首長が出てきたところで引き合わされ、「今回の日本への支援には本当に感謝しています」と伝えた。すると首長は「当然のことをしたまでです」と答えたという。信任状奉呈の時のサバハ首長の感謝の言葉は行動で示されたのである。

手術後静養中の天皇陛下と面会

 東日本大震災から1年後の2012年3月、サバハ首長は国賓として4日間の日程で日本を訪問した。このとき首長は82歳の高齢で、小溝氏は任地の大使として訪問に同行した。先の天皇は心臓の冠動脈バイパス手術を受けたばかりで、静養中だった。首長は内々に「陛下の体調が万全でなければお会いできなくていい」「皇太子が名代を務められれば十分」と日本側に伝えていた。

 3月21日、皇居・宮殿前の東庭で歓迎式典が行われた。天皇は手術に伴って胸の中にたまった体液(胸水)を抜く2度目の治療を前日に受けたばかりで、皇太子が代行した。自衛隊音楽隊による両国歌演奏、栄誉礼、儀仗隊巡閲と進み、最後にクウェートの代表団が日本側に紹介され、皇族や首相ら閣僚がクウェート側に紹介された。

 このあと皇居・宮殿内の会見に移ったが、屋内だったことから天皇が対応した。皇后も同席した。サバハ首長は「体調が早く回復することを願っています」と話し、陛下は「ありがとう」と応じた。首長と会見後、天皇は再び宮内庁病院に行き、胸の具合を調べた。

 その夜の宮中晩餐会は天皇の名代として皇太子がホスト役を務めた。(略)

「天皇陛下はまれに見る名君である」

 最後の23日午前、天皇、皇后は東京・元赤坂の迎賓館を訪れ、サバハ首長にお別れのあいさつをした。両陛下はロビーで首長とにこやかに握手を交わした後、朝日の間で懇談。首長が「東日本大震災からの力強い復興を期待します」と述べると、陛下は「一人一人の苦しみをみんなで分かち合いたい」と述べた。

 実はこのお別れのとき、首長は30分も前から迎賓館の控えの間で天皇の来訪を待っていた。術後で体調も万全でないところを、2回も接遇してくれたことに深く感謝した。サバハ首長は小溝氏に「天皇陛下はまれに見る名君である」「体調が十分でないにもかかわらず、その態度と振る舞いは国家元首の鑑(かがみ)だ」と繰り返したという。

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 体が不調であっても、国際親善のために全力を尽くす天皇陛下の確固とした信念は、強い印象を与えたのである。

デイリー新潮編集部

2020年10月14日掲載

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