菅首相はアトキンソン信者なのか 中小企業再編という劇薬の問題点

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「菅首相はアトキンソン信者である」という噂が霞が関界隈で流れている。

 官房長官時代に小西美術工藝社社長のデービッド・アトキンソン氏と昵懇になったとされる菅首相が、アトキンソン氏の持論である「中小企業の再編」に乗り出そうとしているからである。

 アトキンソン氏は1965年英国生まれ、オックスフォード大学で「日本学」を専攻し、1992年にゴールドマン・サックスに入社したが、マネーゲームに「達観」して2007年に退社したとされている。その後2009年に創立300年余の国宝・重要文化財の補修を手がける小西美術工藝社に入社し、2011年に同社会長兼社長に就任、2017年から独立行政法人国際観光振興機構(通称日本政府観光局)の特別顧問を務めている。

 アベノミクスを継承する菅首相の成長戦略の看板政策として注目されているのは、「携帯電話料金の大幅引き下げ」と「デジタル庁の創設」の2つだが、菅首相は官房長官だった9月5日の日本経済新聞のインタビューで「中小企業は足腰を強くしないと立ちゆかなくなってしまう」とした上で、「中小企業の統合・再編を促進する」ことを表明していた。

 日本の中小企業は現在、小規模事業者を含め約358万社あり、企業数全体の99.7%を占める。中小企業白書によれば、従業員1人当たりの付加価値額を示す「労働生産性」の中央値は大企業の585万円に比べ、中規模企業は326万円、小規模企業は174万円にとどまり、企業規模が小さくなればなるほど生産性が下がる傾向にある。中小企業の低生産性が日本経済の足かせになっていることから、菅首相は中小企業基本法の区分要件の改正に言及している。中小企業基本法は、資本金又は従業員数で中小企業を定義づけているが、「中小企業への手厚い優遇措置を受けるためにあえて資本金や従業員数を増やさない傾向がある」との指摘を踏まえ、同法の区分要件の見直し(従業員数の引き上げや資本金という基準の撤廃)を行おうとしているのである。

主張とアトキンソン氏の著書の内容が一致

 アトキンソン氏の著書『日本企業の勝算 人材確保×生産性×企業成長』(東洋経済新報社、2020年3月)を読んでみると、菅首相の主張を理論的に裏付ける内容が網羅されており、菅首相の「中小企業再編促進策」はアトキンソン氏のプランに基づいていることは一目瞭然である。「中小企業は生産性が低いために低賃金が常態化していることから、生産性と賃金を上昇させるためには再編や統合により企業規模を大きくすることが最も効果的である」ことが、各国のデータ比較に基づき立証されている。

「秋田初の総理大臣」「農家出身の苦労人」など好感度の高いキャラクターから60~70%と高い支持率を得た菅首相から、補助金や優遇策で「保護」に重きを置いてきたとされる中小企業政策を「成長促進」へと転換させていくという「劇薬」のような提案が出たことは、多くの中小企業経営者などにとっては「寝耳に水」の話であり、反発の声が早くも百出している。

「企業規模が大きくなると生産性や賃金が上がるなんて話はデマだ」や「現実をわかっていない弱者イジメだ。小さくても技術力の高い町工場などが大企業に吸収されろというのか」などの怒りのコメントが多数を占めているが、アトキンソン氏の著書には、これらのコメントに対する反論が既に用意されており、政策論争をすれば、アトキンソン氏側に軍配が上がることだろう。だが筆者には疑念が残る。アトキンソン氏は「マネーゲームに達観した」としているが、ゴールドマン・サックス時代に日本の不良債権の実態を暴くレポートを発表し、注目を集めたというサクセスストーリーがあるからである。

 ゴールドマン・サックスを始めとする欧米の投資銀行の収益の源泉の一つはプライベート・エクイティ戦略である。「未公開株を取得した事業会社の経営に深く関与し、大胆なリストラなどで企業価値を高めた後に売却する」ことで高い収益を得るというものだが、中小企業を再編し経営を近代化することにより、古巣であるゴールドマン・サックスの日本でのビジネスチャンスを拡大させようとする隠れた意図があるように思えてならない。

 さらに問題なのは、政策の有効性はマクロ経済に大きく左右されるという点である。
 アトキンソン氏の主張は経済合理性が高いが、現下の日本経済は、コロナ禍により今後大量の失業者が発生することが懸念される状況にある。

 総務省が10月に発表した8月の完全失業率は3%となり、前月から0.1%上昇したが、実際の失業率はもっと深刻であるとの見方もある。コロナ禍で職を失った多くの人が職探しを見合わせることにより、非労働力人口に計上されていると考えられるからである。

 21世紀に入りグローバル化やIT化の進展により一部の産業の生産性が著しく上昇したが、生産性の上がった産業で失われた雇用はサービス産業などに吸収されたことから、失業率が上昇することはなかった。むしろ金融主導の好景気により人手不足となっていたが、新型コロナのパンデミックはこのサービス業に深刻な打撃を与えたのである。コロナ禍により総需要が低迷している中で生産性の上昇を目指すと失業はさらに増えてしまう。経済の効率化は、全体の雇用が増加すれば良い結果をもたらすが、全体の雇用が減ってしまうと経済全体としてはマイナスである。コロナ禍で史上初のサービス主導の不況 に入っている現在、生産性と雇用の関係は慎重に検討されるべきであろう。

 このような悪条件の下で、日本全体の約7割に当たる約3200万人の雇用を担っている中小企業の再編を強引に進めることで雇用情勢の悪化を助長することになれば、百害あって一利なしである。菅首相は当面の間、中小企業の雇用を維持することを最優先すべきであり、中小企業再編という構造改革プランは、世界レベルでのコロナ禍の終息を待って実施すべきではないだろうか。

藤和彦
経済産業研究所上席研究員。経歴は1960年名古屋生まれ、1984年通商産業省(現・経済産業省)入省、2003年から内閣官房に出向(内閣情報調査室内閣情報分析官)、2016年より現職。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年10月13日掲載

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