大法院と文政権の言い分なら、韓国最大の繁華街の日本返還は必至

国際 韓国・北朝鮮

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約束を守った日本人

 現在、在韓日本大使館に在留届を提出している日本人は約3万9千人、届けを出していない人を合わせると、4万人から5万人の日本人が韓国に居住しているとみられるが、1930年には首都・京城だけで、10万5千人余の日本人が居住していた。

 日本人の居住空間は忠武路だけでは不足し、西は現在のソウル駅から東は新羅ホテルの近くまで、南山麓に沿って日本人居住区が広がった。

 日本人は統治時代になっても大韓帝国政府と結んだ居留地の約定をしっかり守り、逸脱することはなかった。

 日本や日本人と接点を持たない朝鮮人は清渓川の北側などに移住したが、宮廷や官公署などが多く、民家を建てられる面積が限られ、家々は日本人居住区と比べてかなり手狭だったという。

 また、朝鮮王朝と大韓帝国政府は、貧民層の首都への流入を制限したが、日本の統治政府は居住地域を制限しなかったため、朝鮮人居住区には地方の農村から職を求めて移住した人などの住む貧民地区が形成された。

 日本人居住区は、計画的な整備が行われ、清掃も行き届いた綺麗な街となった一方で、朝鮮人居住区は雑多で不潔な空間となり、朝鮮王朝の象徴だった普信閣がゴミ溜めになるほどだった。

 京城の日本人は、日本人が暮らしやすい環境を作った。

 南村は前述の通り、北村と比べて開発が遅れており、また、朝鮮人が次々と出て行ったことから、新しい商業地を開発する空間があったと推察できる。

 統治政府は、日本人居住地の北端、つまりは日本人居住地と朝鮮人居住地の境目に京城府庁や多目的ホールの京城府民館を建てたが、民間人は居住地に隣接する明治町と本町に商店街を建設した。

 なお京城府庁舎は、戦後はソウル市庁、いまはソウル市立図書館となっており、京城府民館は国会議事堂として使われた後、現在、ソウル市議会が“日帝残滓の排除”を叫んでいる。

朝鮮ホテル、半島ホテル、三越百貨店…

 1912年、辰野金吾の設計による朝鮮銀行が本町に竣工した。戦後は中央銀行の韓国銀行本店となり、現在は貨幣博物館となっている。

 総督府鉄道が、1914年10月10日、明洞の一角に朝鮮ホテルを開業した。

 日本人が仁川に建てた大仏ホテル(1888)とソウル貞洞のロシア系のソンタクホテル(1902)に続く、半島で3番目の洋風ホテルだった。

 朝鮮ホテルは朝鮮総督府と京城駅の中間に位置し、また京城府庁舎や朝鮮銀行にも近い便利な場所だった。

 日本に住んでいたドイツ人建築家のゲオルク・デ・ラランデが設計し、清水組が建築を請け負った。東京の帝国ホテルが迎賓館の役割を果たしたように、半島の迎賓館の役割を担った。

 1932年には野口遵が朝鮮ホテルの裏に半島ホテルを開業した。

 慶尚南道興南チッソ肥料工場と鴨緑江・水豊ダムを建設、運営した野口は作業服姿で朝鮮ホテルに入ろうとしたが門前払いを受けたため、これみよがしに隣に半島ホテルを建てたという逸話がある。

 三重県津市の洋服店「丁子屋」は1904年、釜山と漢城に洋服店を開業し、1921年、明治町に丁子屋百貨店を開業した。

 1916年に京城出張所を開設した三越百貨店も1930年、本町に延べ7590平方メートルの店舗を構えた。

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