早稲田の重鎮から批判も…魔術師「三原脩」の原点となった早慶戦“ホームスチール”

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にっぽん野球事始――清水一利(28)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第28回目だ。

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 早稲田、慶応のライバル両校にあって、チームのみならず個人としても火花を散らし続けた選手といえば、三原脩と水原茂の2人を置いて他にはいないだろう。

 三原は高松中、水原は高松商と同じ四国の高松出身とはいえ、年齢は水原が2歳上、さらに、お互いにお互いを受け入れることのできない性格の違いもあって、三原は早稲田の2塁手、水原は慶應の投手兼3塁手として神宮で活躍した1年生の時から、2人は自他ともに認める神宮のライバルとなった。そして、その後プロ野球へと進み、後年、球史に残る選手になるとともに名監督となってからも終生変わらぬライバルであり続けた。

 そうした2人の関係を決定づける事件が起こったのが1931(昭和6)年6月14日の早慶2回戦だった。2対2の同点で迎えた7回表、2死ながら満塁と早稲田は一打勝ち越しのチャンスを迎えた。この回からマウンドに上がった投手は右投げの水原。しかも打者の弘世正芳は左打ちで左打席に入っていた。セオリーとして、普通はあり得ない局面ながらも、3塁走者の三原は水原の意表をついて何とホームスチールを敢行。これがものの見事に成功して早稲田は勝ち越し、勝利を得る。これが今でも語り草になっている有名な「三原の早慶戦ホームスチール」である。

 まさに名手・三原の、持って生まれた野球センスが生んだ会心のプレーといってもいいだろう。翌日の各新聞は三原を称える記事であふれ、三原が早稲田に入学した際の監督であった市岡忠男が読売新聞紙上で、

「(三原の)その精悍なスライディングは非常なる魂気のあらわれであって、近来の好プレーと言えよう」

 と絶賛したこともあって、三原の評価はさらに高まった。

 ところが、そんな中にあって唯一といってもいい、三原のスーパープレーを批判する人物が現れた。それは誰あろう飛田穂洲である。早稲田野球部元監督にして、「学生野球の父」とも称される飛田は、当時、東京朝日新聞の客員記者を務めていたが、三原のホームスチールに関して寄稿し、

「三原のホームスチールは定法外れである。暴挙以外の何物でもない。打席の弘世は左打者であり、捕手から三原の動きは丸見えであった。慶應バッテリーの不用意があったから偶然成功したようなものであり、もし失敗に終わっていたなら、その軽挙は早稲田を深遠の底に叩き込んでいたであろう」

 と切り捨てた。自らのプレーを100パーセント否定された三原にしてみれば、忸怩たるものがあったことは想像に難くない。

 しかし、何しろ早稲田にとっては絶対的な存在といえる飛田の言葉である。さすがの三原もその時には反論することができなかったが、後年、1983(昭和58)年に出版した自書「風雲の軌跡 わが野球人生の実記」の中で、

「私の野球原点がここにある。飛田さんのいう『定法外れ』がそれである。力があい拮抗し、膠着状態にあるとき、定石通りにやれば同じ結果しか求められない。意表をつくことが、意外性をはらむ。水原という抜群のセンスを持つ選手からスキを読みとり、その虚をつく。だから『慶應バッテリーの不用意』を突けた。決して突飛なことをやったのではない」

 と書いた。

 プロ入りし現役を退いた後、巨人監督を経て西鉄、大洋などといった弱小球団の監督としてチームを優勝に導き、「知将」「魔術師」と呼ばれた三原の原点が、あのホームスチールにあったのだ。

 余談ながら、このホームスチールから2年後の1933(昭和8)年秋、早稲田始まって以来の逸材といわれた三原は突如として野球部を退部する。というのも、郷里高松の地元紙で報じられたこともあり、三原が学生結婚をしていることが野球部内でも公になってしまったからである。部の規則では部員の妻帯は固く禁じられており、それは中心選手であっても許されるものではなかった。

「三原君、結婚しているという話を聞いたが、それは本当か?」

 監督の大下常吉から問われた三原は隠すことなくそれを認め、「君は野球を取るのか、それとも女を取るのか?」といわれると、迷うことなく即座に、「明日、退部届を出します」
 と答えたという。

 この時、三原の胸のうちには、おそらく2年前の、あのホームスチールをめぐる苦い思い出が去来していたのではないだろうか。あの時以来、三原は、飛田が標榜する精神野球が自らの目指していた野球とは大きくかけ離れていることをおそらく痛感していたに違いない。

 後年、プロ野球の監督となり実績を残した三原を見れば分かるように、彼は合理性を重んじ「野球は選手1人1人の特性を集約させて勝利を得るものだ」という考えを、すでに学生時代から持っていたからだ。

 それだけに、早稲田のストイックな精神野球に溶け込めずにいた三原は、野球部をやめ神宮の表舞台から去ることを躊躇なく決断したのではないだろうか。筆者にはそう思えて仕方がない。

【つづく】

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年8月22日掲載