香港「一国二制度」崩壊を導いた「大物フィクサー」

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 このたび施行された「国家安全維持法」による香港の現状――「高度な自治」を謳った「一国両制(二制度)」が突き崩される過程を追って見ると、特別行政区政府の頭越しに習近平政権の意向を代弁するかのような動きを見せる人物が浮かび上がってくる。

 その人物こそ、2012年から2017年まで第3代香港特区行政長官を務め、現在は「中国人民政治協商会議全国委員会」(「全国政協」=参議院に相当)副主席を務める、梁振英である。

 最近の彼の政治的振る舞いは、香港社会を構成する3本柱の内の「政治」と「経済」を結び付ける一方で、残る「民意」を封じ込める方向に作用していると思える。さしづめ「大物フィクサー」とでも言えそうだ。

 そして驚くべきことに彼は、三十余年以前に「高度な自治」を条文化した「香港基本法」の作成に、咨詢(諮問)執行委員会の秘書長として大きく関与していた。香港基本法の中に、最初から「一国両制」から「一国一制」へのカラクリが密かに仕掛けられていたと考えるのは、飛躍が過ぎるだろうか。

 香港基本法成立に至る過程・内情を彼以上に詳しく知った者は、現在の香港に見当りそうにない。その多くは鬼籍に入り、あるいは政治的には過去の人になってしまった。

 はたして「一国両制」が始まった時点から「一国一制」へのカウントダウンが始まっていたとするなら、現在の香港を覆う異常なまでの政治状況は、短期的には習政権が見せる強硬姿勢の現れと言えるだろうが、やはり長期的には共産党政権それ自体が抱える統治体質に起因するに違いない。

若く無名のビジネスマンが秘書長就任

 梁は1954年香港生まれだが、中国山東省威海衛をルーツとする。じつは香港の警察関係には山東省出身者が多いとされることから、彼の一族の中に警察関係に連なる人物がいたと考えてもあながち間違いはないだろう。

 彼が最初に政治的注目を集めたきっかけは、1985年12月に「香港基本法咨詢(諮問)委員会」の19人の執行委員のうちの1人に選ばれたばかりか、秘書長として同執行委員会の取りまとめ役を務めたことだ。

 同委員会人事に中央政府の意向が大きく反映されていたことは言うまでもない。

 執行委員の大部分が当時の香港各界で影響力を発揮していた老壮年の親中派有力者だったことを考え合わせると、イギリス留学帰りで土地測量事務所を経営していた若く無名の土地評価ビジネスマンの秘書長就任が、当時の香港で驚きを以て迎えられたのも判らないわけではない。文字通り異例なまでの抜擢だ。

 同執行委員会が共産党政権の方針と香港の実情を勘案し、実質的に香港基本法を起草したと言われるだけに、彼に対する中央政府の信頼の程度が容易に想像できる。

 いわば彼は1985年から現在までの35年の間、北京と香港を結び、香港政治の中枢に深く関わり、北京の意向を香港社会に反映させることに一貫して従事してきた、香港におけるキーパーソンなのだ。であればこそ、彼は北京と香港の関係の“裏の裏”まで知り尽くしているに違いない。

 香港基本法咨詢委員会人事の次に注目を集めたのが、返還を前にした初代行政長官選挙だった。

 香港のメディアは董建華(初代長官)など当時の江沢民政権に近い何人かを有力候補として報じたが、その中の最年少が梁だったのである。この時、彼は江沢民派だったに違いない。

 その後、彼は「行政会議」委員(任期:1999~2011年)として董、曽蔭権(代行)、唐英年(代行)、曽蔭権(第2代)の各長官をトップとする「特区行政会議」(内閣に相当)に参画する一方、2003年からは香港地区を代表する「全国政協」委員(参議院議員に相当)として中央政界に進出している。

胡錦涛政権の“公認候補”

 彼が3回目に注目を集めたのは、2012年3月に行われた行政長官選挙だった。

 この選挙において、梁は当時の胡錦濤政権の“公認候補”として立候補し、李嘉誠ら香港の有力企業家の多くが強く推した唐英年と戦った。この時、メディアは一貫して梁の劣勢を伝えていたが、下馬評を覆し、685票対285票で唐を圧倒してしまったのである。

 早速、中国国営『新華社』は、

「公開、公平、公正の原則が貫かれ、民意を正しく反映した選挙結果だ」

 と、梁の勝利を讃えた。

 だが、香港メディアが伝えるところでは、投票直前になって胡政権は香港に隣接する深圳特区に劉延東国務委員(副首相級)を送り込み、唐支持派と目される企業家を中心とする選挙委員に対し、「香港の民意を尊重して投票を」と猛烈な梁支持工作を展開したというのだ。

 香港における政治動向は共産党中枢の権力闘争を反映していると見られているだけに、「反胡錦濤」で共同路線を歩んでいた当時の江沢民と習近平の系統と見做されていた唐の当選は、何としてでも阻止したかったはず。あるいは選挙期間中に持ち上がった唐の自宅不法建築スキャンダルも、唐切り崩し工作の一例だったのだろう。

 3月25日の勝利宣言で、

「今日、香港市民が持ついかなる自由及び権利も絶対に変えることはない」

 と述べた梁は、7月1日に中央政府(国務院)から3代目の行政長官に任命されている。

 しかし、梁の長官選挙出馬が本格化した2011年夏、民主派の重鎮で知られる李柱銘(マーチン・リー)が「梁は共産党員だ」と指摘したことや、長官就任直前に今度は梁の自宅の違法建築が発覚したこと、選挙戦への中央政権の露骨な介入や、自らに批判的なメディアへの圧力、さらには家庭内のゴタゴタなどが重なり、就任直後から民意は梁政権に強い反発を見せていた。

 その象徴が2014年秋の「雨傘革命」だった。

「雨傘革命」失政でも任期を全う

 共産党政権中枢における権力闘争が香港の長官人事に影響を与えることはすでに述べたが、加えて北京と香港における政権交代の時期がズレていることで、北京と香港の間の権力関係にネジレが生ずる。

 たとえば胡錦濤派とされた梁の長官就任から程なくして、中央政府は習政権に移行してしまった。新しい中央政権の下での行政長官の失敗といえば、2002年秋の胡政権成立後のSARS(重症急性呼吸器症候群)対策などで不手際を演じた、江沢民系の初代董長官が辿った末路(2期目の任期途中で辞任)が物語っているように、必然的に詰め腹を切らされることになる。

 この前例に倣うなら、2014年秋の「雨傘革命」への対応に失敗し、香港社会を混乱させ、欧米の香港に対するイメージを著しく失墜させてしまったことは、董長官のSARS対策失敗を遥かに上回る失政と見られただけに、一時は梁の辞任も止むなしとの声も聞かれたほどだ。

 だが彼は長官任期を全うしたばかりか、第2期習政権発足に前後した2017年3月、追加人事として全国政協副主席に就任し、現在に至っているのである。

 同ポストは中国の公務員序列では党や国家の最高指導者である「国家級正職」の下の「国家級副職」と位置付けられ、国家指導層の一環を形成している。つまり梁は、習政権の下で国政の一角に歩を進めたことになるわけだ。

 彼は胡前政権に繋がる人物である。加えるに長官在任中の不手際・不人気によって香港住民の反中感情に火を点けてしまった。ならば習政権が切り捨てたとしても不思議ではない。にもかかわらず全国政協副主席として中央政界での枢要な地位を得た。

 はたして習政権が梁の“利用価値”を認めたということなのだろうか。

梁が組織した「803基金」

 昨年6月に「逃亡犯条例改正」問題が表面化して以来、梁に表立った動きは見られなかったようだ。

 だが、香港における国家安全維持法問題が現実的課題として浮上し、再び香港が混乱に陥った今年5月末、自らのフェイスブックに、

「匯豊(HSBC)などイギリス系企業はwhich side of the bread is butteredを知っているはず。香港国家安全維持法を支持しないなら、いずれ中国系銀行が取って代わるだろう」

 と強硬意見を綴っていた。

 はたせるかな6月に入るや、「怡和洋行(Jardine)」、「匯豊(HSBC)」、「渣打(Chartered)銀行」、「キャセイ航空」を経営する「太古(Swire)集団」など香港拠点のイギリス系大企業が、本国のボリス・ジョンソン政権の方針に逆らい、『文匯報』『大公報』で、「香港の長期安定と繁栄に寄与する」として「香港国家安全維持法」支持を表明したのである。

 6月25日、親中団体の「香港各界国家安全維持法支援聯合戦線」が主催するネット集会に登場した梁は、

「中央(政府)が設定した猶予期間内に香港が対応できないなら、中央(政府)に“次の一手”を出させかねない」

 と発言し、香港が「香港国家安全維持法」を拒否するなら習政権が更なる強硬手段を用意していることを示唆した。習政権の意を忖度したのかは不明だが、あからさまな“脅迫”と言うべきだろう。

 6月30日、梁はフェイスブックで「803基金」を組織したことを明らかにした。それによれば、「香港国家安全維持法」に違反する香港及び他地域の人物を通報し、あるいは当該人物逮捕に協力することを奨励すると共に、逃亡犯などの関連情報を寄せた場合には、最高で100万香港ドル(約1400万円)の懸賞金を提供するとのことだ。

「803基金」は梁振英を中心に立法会(議会)の複数の親中派有力議員、退職幹部警察官組織トップ、有力退職警察官などで構成されている。

 資金の出所は不明だが、香港の複数の友人によれば、一般には「第2次世界大戦中のドイツの秘密警察のような組織と受け取られている」とのことだ。

 おそらく「803基金」の当面の狙いは、2014年の「雨傘革命」以来の反中=民主化運動を象徴する男女3人の若者――黄之鋒(ジョシュア・ウォン)、羅冠聡(ネイサン・ロー)、周庭(アグネス・チョウ)――だろう。

 運動全般における3人の振る舞いは、なにやら1989年の天安門事件における民主化運動を象徴した男女3人の若者――吾爾開希(ウルケシ)、王丹、柴玲――を想起させる。天安門の3人のその後の歩みを思う時、香港の3人の若者の今後の去就に注目しておきたいものだ。

習政権の意向を踏まえたもの

 ここで2012年3月の長官選挙後の勝利宣言を思い起こす。

「今日、香港市民が持ついかなる自由及び権利も絶対に変えることはない」

 と語った8年後、梁は「803基金」を設立したのである。

 1985年以来、北京における権力闘争の勝者は鄧小平、江沢民、胡錦濤、現在の習近平と交代しているものの、梁は一貫して彼らに重用されてきた。

 香港の若く無名の土地評価ビジネスマンが歩んだ35年余は、香港がイギリス殖民地からの中国回帰を経て、「一国両制」の下での「高度な自治」の時期から「一国一制」、つまり新たな殖民地化への歩みと重なる。

 梁は習政権を支持するただの香港住民ではない。親中派芸能人の代表格であるジャッキー・チェンほどには国際的に著名ではないが、彼は「国家級副職」に位置する国家指導者の一員である。

 ならば彼の発言を、習政権の意向を踏まえたものと見做しても、あながち間違いはないはずだ。

「803基金」などという組織を立ち上げてまで、香港のみならず香港以外の地における反中動向の厳重監視を進めようとは、習政権の攻撃性からくるものなのか、それとも一強体制の焦りがそうさせるのか。

 香港に対する習政権の強硬姿勢に、アメリカのドナルド・トランプ政権もまた強硬姿勢で立ち向かおうと身構える。いずれにせよ香港問題は、香港における「民主」対「独裁」の対決から米中両大国の角逐という新しい次元に移ったようだ。

 それしても梁のような“人材”を長期にわたって養っている共産党政権の政治手法を考えた時、短期的な視点に基づいた短兵急な結論は厳に慎むべきであり、やはり長い時間軸に沿った判断が必要不可欠となるだろう。

樋泉克夫
愛知県立大学名誉教授。1947年生れ。香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士課程を経て、外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(83―85年、88―92年)。98年から愛知県立大学教授を務め、2011年から2017年4月まで愛知大学教授。『「死体」が語る中国文化』(新潮選書)のほか、華僑・華人論、京劇史に関する著書・論文多数。

Foresight 2020年7月20日掲載

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