新型コロナで「中止」「開催」判断分かれた在外公館「天皇誕生日レセプション」 饗宴外交の舞台裏(261)

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 新型コロナウイルスの感染拡大にあって、天皇誕生日(2月23日)レセプションを中止するのか、実施するのか――。

 今年1月から3月にかけて、日本の在外公館(大使館や総領事館など)は難しい課題に直面した。実施して、万一感染者でも出してクラスターを作ったりしたら日本の面目は丸つぶれだ。

 一方、令和で初めての天皇誕生日レセプションとあって、各国とも祝賀に要人を送り込んでくるのは間違いなく、日本と友好関係を強化する格好の機会となる。どういう判断から中止、実施を決めたのか、現地の日本大使館に聞いた。

2年ぶり令和初

 先に結果から言うと、日本が世界155カ国に置いている253の大使館や総領事館、領事事務所の公館のうち、開くことが出来たのは214公館、中止は39公館。8割超の公館が実施したことになる。

 月別で見ると、1月に実施したのが11公館、2月が191公館、3月が12公館だった。3月に実施したのは、中南米と南半球にある公館が中心で、この地域では新型コロナの感染がまだ深刻化していなかった。

 天皇誕生日レセプションは日本外交にとって重要なイベントだ。ふつうめったに顔を出さないその国の政府要人が、わざわざ日本大使公邸(時にはホテル)に足を運んで祝意を表す。日本との関係をこれからも大事にしたいとの態度表明であり、実際にスピーチや挨拶を通して、日本との関係がいかに大切かを述べる。日本側にとっても友好関係の確認はもちろんのこと、和食などさまざまな日本文化をプロモーションする貴重な機会となる。

 ただ、昨年は5月に天皇の代替わりがあったため、天皇誕生日レセプションは行われなかった。今上天皇は昨年2月23日の誕生日のときはまだ皇太子で、先の天皇は、昨年12月23日の誕生日には上皇になられていたからだ。

 そのため今年の天皇誕生日レセプションは2年ぶりとなり、令和になって初めてでもある。在外公館にとっては、力が入るところだった。

 日本の外務省は開催日について、

 「出来れば2月23日を中心とした2月、そうでなければ1月、難しければ3月」

 と幅をもたせていた。

 「絶対に2月とならない」のは、2月が夏休みとなる南半球の国々と、ラマダン(断食月)など宗教にかかわるさまざまな行事があるイスラム圏の国々を考えてだ。

 多くの招待者、要人に来てもらうためには、その国の重要なイベントや行事と重ならないようにする必要がある。実際、オーストラリア、ニュージランドなどにある日本大使館と総領事館は、1月にレセプションを終えていた。

「あと少しでもずれていれば……」

 そこに持ち上がったのが、新型コロナ問題だ。このとき外務省は、

 「レセプションを開くかどうかは各公館で判断してほしい」

 と伝えた。感染の広がりが各国で異なっていて、一律に判断できないからだ。中国、韓国にある日本大使館と総領事館、領事事務所は早々と中止を決めた。しかし、その他の国の公館は難しい判断を迫られた。

 中止したのは中国、韓国のほか、ベトナム、シンガポール、イラン、フランス、バチカン、マラウイなどだ。

 シンガポールの日本大使館は、2月28日に市内のホテルでレセプションを予定していたが中止した。同国で最初の感染者が出たのは、1月23日。武漢からの中国人旅行者だった。しかし渡航歴のない人からも感染者が見つかりはじめ、2月5日には28人になった。
なぜ中止という判断を下したのか、大使館の担当者に国際電話で聞いた。

 「中止を決めたのは、2月初めでした。外から見るとシンガポールは感染を抑制している優等生のように見られていました。が、会場はホテルの閉鎖された大広間で行われるうえ、毎年、政府要人も含め招待者が1000人前後は来ます。

 どうしても人が密集してしまうので、感染者を出しかねません。リスクも考えて中止を決めました。招待状の発送作業中で、すでに一部は発送していましたが、急遽、中止を伝えました」

 また、迷った末にシンガポールより一足早い2月20日に開催したのが、タイの日本大使館だった。

 タイで最初に感染者が出たのは1月13日、これも武漢からの中国人旅行者だった。感染者は1月末には19人、2月4日には25人に増加した。ちょうどこのころ、香港発のクルーズ船がタイへ寄港することを、同国の保健相が許可しないと発表し、騒ぎになっていた。

 大使館の儀典担当官が語る。

 「中止するかどうか迷いました。ですが当時、タイ政府は集会の禁止などの方針は出しておらず、各国の大使館もパーティーを開いていて、事態を深刻にとらえる状況にはありませんでした。検討の末、予定通り開催することにしました」

 日・タイの太い関係もあって例年、天皇誕生日レセプションは大掛かりなものになっており、簡単には中止ともいかない面もある。

 開催に当たっては万全を期した。レセプションは午後6時半に、バンコク中心部の「アテネホテル」で始まった。入り口には熱感知のサーモスタットカメラを設置し、日本人の医務官を脇で待機させた。必要であれば、熱のある人が問診を受けることができるようにと考えての配置だった。消毒液も、入口と会場の各所に置いた。

 招待客は約1000人。政府要人も多数出席したが、最も高い地位はチャランタダ・カルナスタ氏ら2人の枢密院顧問だった。

 会場にはホテルの料理のほか、バンコク市内の日本料理店などが握り寿司の屋台を出した。タイと関係の深い日本の地方自治体もカレーやラーメンのブースを出し、観光誘致と絡めて産地の食材や和食をPRした。

 「結果として、熱のある人はいませんでした。意図したわけではないのですが、早めに来場される方と、遅めに来られる方もおり、会場に密集するという状況にはなりませんでした。

 ただ、あと少しでも日程が後ろにずれていたら、開催は難しかったと思います。いまは外出自粛で商業施設は閉鎖、夜間外出禁止令も出ていますから」

「ローマでは感染者が出ていなかった」

 欧州で最初に感染爆発が起きたイタリアには、首都ローマに日本大使館、北部のビジネス都市ミラノに総領事館。またローマに隣接した世界最小の国バチカンに日本大使館がある。この3公館の対応は2つに分かれた。ローマの日本大使館とミラノの総領事館は実施し、バチカンの日本大使館は中止した。

 バチカンの日本大使館は、3月12日にレセプションを開催することにしており、招待者約300人には招待状をすでに発送していた。

 イタリアで感染者が最初に確認されたのは1月末、2人の中国人旅行者だった。2月22日には伊北部で1度に51人の感染者が出て、2人が亡くなった。その月末には北部を中心に感染者は1049人、死者は29人に膨れ上がった。

 駐バチカン日本大使館の儀典担当者はこう語る。

 「感染者が急増した2月下旬から3月初めにかけてどうするか大使館内で検討しましたが、状況に鑑みて中止すべきだとの結論になりました。レセプションの1週間から10日前でした。急遽、招待者に連絡しました」

 イタリアでは1月31日に非常事態宣言が出され、3月10日にそれまで北部に限定していた移動制限を全土に広げた。11日には生活必需品以外の商業活動が休止され、この日、同国の感染者は1万2462人、死者827人に上った。

 隣国バチカンのレセプションの開催予定はその翌12日。とても無理だった。

 このバチカンの日本大使館と、テベレ川を挟んだ向こう岸にあるローマの日本大使館は、どう判断したのか。

 大江博大使は1月30 日に赴任したばかりだった。すでに2月27日開催で招待状は発送されていた。感染者が増えていくなか、大使は中止も念頭に入れながら、状況を注視していた。

 「レセプションで感染者を出すわけにはいきません。ギリギリまで状況を見守っていました。北部では感染者が拡大していましたが、実施してもいいと思っていた根拠の1つは、ローマのあるラツィオ州で感染者が1人も出ていないからでした。

 開催日の前の週末(2月22、23日)には、ローマ市内でラグビーとサッカーの試合があり、大観衆が繰り出しました。これなら開催できると思いました」

 大江大使にはもう1つ、中止したくない事情があった。それは、アジア人への偏見に口実を与えかねなかったからだ。

 感染初期、ウイルスは中国をはじめアジア人がもたらしたとの風評が人々の間に強まり、伊メディアに、〈アジア人の(音楽)留学生へのレッスンも延期すべきだ〉といった記事が載った。留学生たちは以前からイタリアで暮らしているにもかかわらず、だ。ローマ市内の和食店、中華レストランの客足も激減した。

 「ラツィオ州で感染者が出ていないのに、へたに中止すると『やはり感染していた』と見られてしまいます」

 2月27日午後6時半から大使公邸で始まったレセプションは、消毒液を各所において、握手なし、ハグなしで行われた。約300人に招待状を送っていたが、出席者は約250人だった。

 「例年より減ったのはコロナの影響かと思いましたが、来たお客さんに『たくさん集まりましたね』と言われました。これがあと1週間遅かったら、開催できなかったでしょうね」

 と大江大使は語った。

 ミラノの日本総領事館は、北部でまだ感染者が1人も出ていなかった2月7日にレセプションを開いた。北部で爆発的感染が始まるのは2月下旬からで、ここも間一髪、間に合ったと言える。

まだ遠い世界の出来事

 南アフリカの都市プレトリアの日本大使公邸は、2月28日にレセプションを開催した。このころ南アでは、アジアや欧州の感染拡大はまだ遠い世界の出来事で、感染者もゼロだった。しかし慎重を期した。

 「例年は日本大使館にある多目的ホールと庭を使っていましたが、新型コロナウイルス問題もあって屋内でやりたくなかったので、屋内は使わず、風通しのいい大使公邸の広い庭を使いました」

 と、丸山則夫大使は語る。

 レセプションでは幾つか演出がなされた。南アの国歌を、アフリカの歌姫と言われる同国の女性歌手イボンヌ・チャカチャカさんが見事な声量で歌い上げ、日本のポップファンの中学生が立派な日本語で「君が代」を歌い、招待客約500人の喝采を浴びた。

 チャカチャカさんは貧困や感染症問題の解決に向けた活動にも取り組んでおり、自ら立ち上げた「プリンセス・オブ・アフリカ財団」を通じた慈善活動のほか、複数の国際機関の親善大使や、釜石応援ふるさと大使も務めている。東日本や熊本の地震の被災地にも何度も訪れている。

 会場には南アに進出している日系企業がブースを出し、顔認証の機材などをPRした。
さらに、まだ東京五輪が延期決定になる前だったため、プロモーションを兼ねて日本人の柔道家と空手家が模範演技を披露した。出席者で最も高い地位の要人は、前国会議長だった。

 丸山大使が赴任したのは昨年5月で、初めての天皇誕生日レセプションだった。

 「やることは全部やったという感じです」

 と電話口の向こうで言った。

 しかしこの後、南アでも感染者が急増し、3月15日には非常事態宣言が出されてロックダウンが行われた。4月24日現在、感染者はアフリカでもっとも多い4220人、死者は75人に上っている。

 現地の治安の関係で天皇誕生日レセプションを取りやめた公館は、これまでも稀にあった。

 だが、世界規模で全公館が「中止か」「開催か」の難しい判断を迫られたのは、かつてなかったことだ。ともかくも、8割超の公館がレセプションを実施でき、しかも感染者を出さなかったことは、幸いなことだった。
 

西川恵
毎日新聞客員編集委員。1947年長崎県生れ。テヘラン、パリ、ローマの各支局長、外信部長、専門編集委員を経て、2014年から客員編集委員。2009年、フランス国家功労勲章シュヴァリエ受章。著書に『皇室はなぜ世界で尊敬されるのか』(新潮新書)、『エリゼ宮の食卓』(新潮社、サントリー学芸賞)、『ワインと外交』(新潮新書)、『饗宴外交 ワインと料理で世界はまわる』(世界文化社)、『知られざる皇室外交』(角川書店)、『国際政治のゼロ年代』(毎日新聞社)、訳書に『超大国アメリカの文化力』(岩波書店、共訳)などがある。

Foresight 2020年4月29日掲載

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