【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(9)満州事変前夜 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ

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 山形県酒田市から国道7号を日本海沿いに北上すると、東北の名峰・鳥海山のふもとの遊佐町に至る。道を脇に折れて少し急な坂道を上ったところに、うっそうとしたクロマツの林に囲まれた広場があった。

 遠い海鳴りのほかは時が止まったような薄暗い一隅に、直径10メートルもある円形のこんもりした塚が築かれ、見上げるような石柱が立っている。刻まれた文字はただ「南無妙法蓮華経」のみ。塚の隣には墓碑銘のように、

「私はただ仏さまの予言と日蓮聖人の霊を信じているのです」

 と彫られた石がある。不思議に宗教的な雰囲気の漂うこの場所が、天才的な軍略家といまも語られる陸軍中将石原莞爾(1889~1949)の墓だ。

石原莞爾と満州

 本連載の主人公、青森出身の対馬勝雄陸軍中尉(1936年の二・二六事件に参加し刑死)と同じく東北の旧庄内藩士の家に生まれ(現在の鶴岡市)、仙台陸軍地方幼年学校を首席で修了。東京陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校(第21期)から陸軍大学校に進んで次席で卒業し(恩賜の軍刀授与)、類まれな頭脳を賞されたという。

 エリート将官コースに乗り、第六十五連隊(会津若松)、中支那派遣隊司令部附(湖北省武漢市の漢口)を経て、ドイツへの留学で欧州の戦争史(ナポレオン、フリードリヒ大王ら)、国家間の「総力戦」となった第1次世界大戦の様相と軍略を研究。陸大で戦史の教鞭を執り、1928(昭和3)年10月に関東軍作戦主任参謀として満州(中国東北部)に赴任した。

 関東軍とは、日露戦争の勝利で得た租借地・関東州(遼東半島の旅順・大連などの地域)と南満州鉄道付属地の警備を目的とした駐留軍(旅順に司令部)。

 日本は関東庁(後に関東局)を置いて、南満州鉄道が延びる奉天(現・瀋陽)、長春(後に新京)など沿線を特殊権益地として支配し、南満州鉄道株式会社を中核にした大規模な都市整備と、鞍山製鉄所、撫順炭鉱などの資源開発を進め、多くの日本企業と居留民を送り出して、実質的に植民地化していた。

 石原が赴任する直前の6月には、張作霖爆殺事件が起きた。関東軍が権益維持のために長年利用しながら、離反姿勢を見せた満州軍閥の領袖を、奉天郊外で列車ごと吹き飛ばし暗殺。これを敵対していた中国国民党の蒋介石軍の仕業に見せかけたのだ。関東軍参謀の河本大作大佐、奉天独立守備隊の東宮鉄男大尉(後に満蒙開拓団の計画推進者)らが仕掛けた謀略だった。

 現在もなお研究され続け、語り尽くされぬ石原の異彩は、既成概念の枠や「軍」の秩序に囚われぬ大胆不敵な作戦の発想と実行力、中国への「民族協和」の信条、預言者的な「日米最終戦争」と恒久平和論や、その源泉たる日蓮宗思想に基づく独特の世界観にあった。

〈遂に私は日蓮聖人に到達して真の安心を得、大正九年、漢口に赴任する前、国柱会の信行員となったのであった。殊に日蓮聖人の『前代未聞の大闘諍一閻浮提(だいとうじょういちえんぶだい)に起こるべし』は私の軍事研究に不動の目標を与えたのである〉(石原著『戦争史大観』より)。

 国柱会は田中智学が興した在家信徒団体で、会員には宮沢賢治もいた。

 元寇を予言した日蓮の教えから石原は、来る終末戦争の後に日本は絶対平和を導く――との信念を得たという。

 石原は満州から内戦状態の中国を見て、平和なき大陸を救うのは日本の使命と断じ、かつ第1次大戦後の西欧の勝者・米国と東洋の勝者・日本の最終戦争を予見しつつ、

「謀略と領有という手段によってでも満州を巡る問題を一挙に解決する必要あり」

 と、関東軍の内外で力説した。自身が首謀者となる満州事変の展開をおそらく、まざまざと構想しながら。           

父も戦った神話の地

 勝雄は1929(昭和4)年に、満州の土を初めて踏んでいた。革新派将校のカリスマ的存在だった大岸頼好中尉(当時、仙台陸軍教導学校教官)との面会=連載8回『昭和4年 運命の出会い』(2020年2月18日)参照=から程なく、陸軍士官学校本科の卒業を前にした同期生たちとの満州視察旅行だった。

 4月30日に大連に上陸。最大の貿易港、軍港であった大連港や南満州鉄道本社で日本の投資の莫大さを目の当たりにした後、およそ四半世紀前となった日露戦争(1904~05年)の戦跡を巡った。

 大連郊外の旅順では、東鶏冠山、二〇三高地、黄金山砲台、首山堡など、陸軍の日露戦争勝利の戦跡を訪ねた。

 5月2日の勝雄の日記には、

「旅順偕行社、満蒙事情(河本参謀)」

 とある。河本大作その人であろう。「満州某重大事件」として田中義一内閣を総辞職させながら陸軍の隠蔽工作で追及を免れ、この時期に予備役編入処分とされた河本から直々に、将校の卵たちが「満蒙問題解決」の論を説かれたのは間違いあるまい。 

(注・ここで『蒙』は満州と接する中国・内蒙古を指す。当時の熱河省を中心とする地域。辛亥革命下の中国の混迷時、日本は1912年のロシアとの協約で、内蒙古にまで特殊利益の拡大を認めさせた。関東軍は内蒙古支配のため独立も画策。反日機運をさらに高めた)

 さらに現地で戦史研究講義が連日あり、大会戦の地・奉天や大規模な石炭露天彫りで知られた撫順の視察が続き、勝雄の5月6日の日記には「満蒙問題」への熱がつづられる。(以下、日記の引用は遺族が編纂、出版した『邦刀遺文 二・二六事件 対馬勝雄記録集』所収)

〈撫順ハ鞍山ト共ニ我国ニ莫大ノ国防資源ヲ与フルモノナリ。此ノ地警備ハ独立守備隊ノ一ケ中隊ノミ、従業員ハ自ラ事変ニ備ヘ一ケ大隊ノ義勇隊を編成セリトイフ、撫順駅ヲ出発セル際若キ女ノ泣ケルアリ。彼トイヒコレトイヒ、海外第一線ノ同胞ノ心情察スルニ余リアリ。国家ノ統制作用ヲモット盛ンニシテ海外ノ同胞ノ後拠タラシメズンバ不可ナリ〉

 その後の歴史を知る私たちに満州の名は、国策によって全国から移住した満蒙開拓団が1945(昭和20)年8月のソ連軍侵攻の犠牲となり、シベリア抑留と中国残留婦人・孤児を生んだ悲劇の地として刻まれる。

 だが勝雄の世代は、乃木希典大将や橘周太中佐ら日露戦争の英雄譚を聴いて育ち、幼年学校、、士官学校で先輩軍人たちの戦場体験を伝えられ、その1戦1戦の戦史戦術を諳んじるほどに学び、満州の地名と陸軍の不敗神話を身に染み込ませてきた。

 青森の実家の父、嘉七さんも三十一連隊(弘前)の兵士として日露戦争に出征し、黒溝台、奉天を歴戦し名誉の負傷を得て凱旋した人で、勝雄が誇りとする先人だった。

 その父をはじめ約9万人の戦没者、15万人の戦傷者の死力で贖われた「日本のかけがえなき満州」であると、勝雄は思いを新たにする。帰国後、士官学校に提出した「戦蹟見学ヨリ得タル教訓」にこう吐露した。

〈先輩ノ偉勲ハ特ニ深ク余ノ脳裏ニ印セラレタリ、カノ蕞爾タル(さいじ=小さな、の意)爾霊山(二百三高地)ノ西南角西北斜面ノ一死角ノ如キ、又カノ眇タル(同上)東鶏冠山北堡塁二於ケル外岸匣室ノ爆破孔ノ如キハ幾千幾万ノ我先輩ガ全力ヲ傾倒シテ尚且ツ如何ニ苦戦ヲ繰リ返シタカヲ目ノ当タリニ物語ルモノニシテ感慨深シ、吾人後継者ハ断ジテ先輩ノ潮ヲ自己ノ食物(くいもの)トナスベカラズ〉

〈吾人ハ我独特ノ国体国情ヨリ将来ニ於テモ戦争ガ死ノ力ニヨリ戦ハルヽヲ本則ト見ルベキナリ。今日若シ死ノ力ヲ以テ戦ハゞ広大ナルシベリヤハ直チニ我有トナリ寒冷文明ノ地トナルベク、吾ガ国防上ノ複郭タル満蒙ハ一挙ニシテ奪回ヲ確保スルヲ得ベシ〉

 勝雄はそれから遠からず、再び満州の土を踏むことになる。余りに過酷な現実を背負う東北の兵たちを率いて。       

東北を呑み込んだ恐慌

〈宮城県の北上川沿いに「ほいどの村」と呼ばれる貧しい村があった。そこは北上川のたえざる氾濫で米の収量がきわめて低く、しかも不安定だった。それで食えなくなって土地を手放し、農家のほとんどは小作人になってしまった。そこにまた氾濫である、収穫皆無に近くなっても小作料だけはきちんととられる、当然ろくに食えず、家まで手放して家賃を払わざるを得なくなり、まさに「ほいど」と同じような貧しい暮らししかできなくなった、こうした貧しい家の集まった村だったからこの村は「ほいどの村」と呼ばれたのである〉

 東北大名誉教授(農業経営学)の酒井惇一さんが、昭和初めのこんな話を『昔の農村・今の世の中』(『JAcom』連載)に記した。

「ほいど」とは、東北弁で乞食のこと。本連載7回『津軽義民への道』(2020年1月20日)で、大正時代末、大地主の支配に抗った青森県車力村の小作農民たちの争議を紹介したが、昭和に入ると、東北の農村は底なしの苦境と貧困に呑み込まれる。

 勝雄が満州視察の旅をした1929(昭和4)年の10月24日、米国ニューヨークで「暗黒の木曜日」と呼ばれる株式市場の大暴落が起きた。

 第1次大戦後の世界経済を牽引した米国での過剰生産と株バブル、復興途上の欧州の慢性不況と保護主義台頭などが要因とされるが、各国経済に連鎖した恐慌が翌30年にかけて、不況のさなかの日本をも直撃した。

 小津安二郎の映画『大学は出たけれど』が封切られたのが大暴落と同年の9月。都会でも企業の大減産と首切りが相次ぎ、ストライキが頻発し、失業者が街にあふれて、浮浪者を意味する「ルンペン」という言葉が広まった(語源はドイツ語で、カール・マルクスも使ったという)。

 農村も恐慌の犠牲になった。米国への最大の輸出品だった生糸は売り先を失い、全国の4割の農家が営んだ養蚕の収入を奪い、猛烈なデフレが米価も暴落させた。

 1929年10月に一石(千合に当たる)31.16円だった玄米が、1年後は19.13円に(日本農業年報)。青森県農会の1930年の調査では、自作農の反当たり収支は31.83円(消費者物価指数の比較で現在の約6万円)の赤字を出した。

 冬仕事の木炭や藁細工の売値も下がり、出稼ぎ先の求人は激減し、小作料や肥料代などの滞納が新たな借金を増した。農家の累積負債は平均700円前後(同じく約130万円。帝国農会の調査)に上り、小作に転落する自作農、極貧の生活にあえぐ小作人も相次いだ。

 北上川沿いの「ほいど村」も同時代の光景だったが、東北の農村、農民がそこまでの苦境に落ちていく冷酷な理由を、ジャーナリスト・評論家の大宅壮一は少し後の1932年(2月8~10日の『時事新報』連載「東北の凶作地方を巡歴して」=『新聞資料 東北大凶作』無明舎出版所収)に、鋭い観察眼で記録している。
〈「凶作」や「飢饉」は、決して関東大震災のやうな自然的災厄ではないのであって、結局は、自然對人間の問題ではなく、人間對人間の(階級的な)問題に還元されねばならないものだといふことを示すものである。
 今度私は、凶作地方の特に(小作人組合の)未組織地を選んで巡歴して、戸別的に訊いて歩いたのであるが、皆無作でもない限り、小作料を全免している地主はほとんどなく、どんな凶作地でも地主と小作人が実収の半分ずつ分けている。それも小作人が刈り取った上、実収の半分を分けるのではなく、田の真ん中に縄を引いて、立毛のまま二分して、双方で刈り取るのである。それがために、一反歩から二俵しかとれなかった米を、一俵と藁や籾殻まで半減されて、副業に縄をなう材料まで不足していることを、私に泣いて訴える貧農も少なくなかった〉               

三十一連隊の少尉に

 勝雄は1929(昭和4)年7月17日に陸軍士官学校を卒業した(第41期生)。歩兵曹長、見習士官を経て10月25日、歩兵少尉任官とともに父ゆかりの第三十一連隊に配属され、連隊旗手を任じられた。

 連隊旗は、連隊創設時に天皇から親授されるもので、軍人にとっては大元帥の分身であり、抜刀、捧銃の敬礼が行われた。軍旗を失うことは大失態とされ、敵に奪われぬよう奉焼させた例が太平洋戦争まで数多く記録される。

 それゆえ、新任少尉が受け継ぐ習わしだった連隊旗手の責任は重く、文武に優れ品行も正しい人物が選ばれたという。

 三十一連隊は日露戦争で、黒溝台の激戦に続く奉天会戦で連隊長以下の指揮官も死傷し、無事だった兵は200余人とされる。連隊旗も敵砲弾で半ば焼け、旭日旗の一部と飾りの房だけの姿になった。名誉ある戦功の証として勝雄も手にした連隊旗は、陸上自衛隊弘前駐屯地の防衛館に往時の写真だけが伝わる。

 三十一連隊時代の1929年夏から翌年にかけての日記は、兵士育成の場である演習に明け暮れた日々の所感や反省、「週番士官の研究」「衛戍巡察将校ノ研究」など部下の日常指導に関する自己研鑽の記録がつづられる。

〈大隊一泊行軍後、小隊長トシテ与フル注意 諸子ハ諸子ノ有スル素質ヲ自信ヲ以テ可ナルベク、又予(余)モ諸子ニ信頼シ可ナルコトヲ信ズ。但シ本日ハ茲ニヨイコトハ述ベズ、特ニ注意ヲ望ム点ヲ述ベシ。物事ノ実行ヲ徹底的ニ。上官ヨリ聞キベキコトニテ不明ナルヲ分カラヌママニスルナ〉

〈教育指導懇切ナルヲ要ス、熱ヲ要ス 下級者ノ上官補佐ノ不充分 時代風潮ノ捕虜トナラザルコト(礼儀―) 下士、映画見物ノ着眼(時々見ル必要アリ、コレヲ教育ニ資スル 下士ノ各個教練拙劣(模範ヲヤルヲ要ス) 精神教育ハ訓話ノミニヨリナスベキモノナラズ、密集教練、整々厳格、団結心 基礎教育ハ応用ノタメニアリ、故ニ両者連絡アルヲ要ス 左傾思想ニ対スル注意 幹部教育、意気、熱情、機敏性 教練ハ常ニ弾雨下ニ於テ)

 勝雄は当時21歳。真摯で熱意と深い思慮があり、部下と連隊のための教育を常に考えている士官だった。それだけに日記には、現場がかぶらねばならぬ政治の矛盾と、自らが育成を担う「国民のための兵士」像とのギャップに怒りが吐き出された。1931(昭和6)年5月30日、青森県鰺ヶ沢町の山田野であった夜間訓練での出来事だ。

〈演習ハ一般ニ愉快デハナカッタ。一小隊ノ人員ガ三十人ソコソコデ録(ろく)ニ伝令モトレナイ。戦時優勢ナル的ヲ引キウケテモ勿論覚悟デハアルガ、ソモソモ平時ニコノ有リサマハ何デアルカ(此点ヲ顧ミズシテ遊戯ノ如キ軍=いくさ=ゴッコスルコトハ不快デアル、余ハ軍職ニ止マルノ潔シトセヌ気ガスル)〉

 部下の兵の少なさは勝雄にとって、1922(大正11)年のワシントン海軍軍縮条約の「負の遺産」だった。

 第1次大戦後の国際平和思潮を背景に、米英日など列強の主力艦(戦艦、空母)保有量を制限した条約だが、日本では陸軍でも「山梨軍縮」(加藤友三郎内閣、山梨半造陸相)「宇垣軍縮」(加藤高明内閣、宇垣一成陸相)という、時の陸相の名を冠した3次の軍備整理が断行された。

 10万人近い将兵と4つの師団などが削減され、勝雄の母校の仙台陸軍地方幼年学校も在学中に廃止対象になった(本連載6回『「廃校の憾み、少年の胸に宿り」』=2019年12月18日=参照)。4000人の将校が職を離れ、毎年の新兵の数も減った。勝雄の怒りは政府と政党政治に向けられた。       

ロンドン軍縮条約への怒り

〈ロンドン軍縮条約及陸軍々備ノ経済化等ニツキ、軍備ヲ縮小セネバ国民ノ負担ハ軽クナラヌ如ク宣伝シタノハ政党者デアッタ。即チ国民ト軍トハ存在ノタメニ仇敵デアル如ク国民ニ思ヒ込マセテシマッタ。国民ト軍隊トノ反目ヲ誘致シタル政党者ヲ如何ニ膺懲(征伐し懲らしめる)スベキカ!〉(1931年5月30日の日記より)

 日記にあるロンドン海軍軍縮条約は、1年前の1930年4月22日、補助艦(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦など)の保有量を列強間で制限する条約で、日本は対米比0.6975で合意した。

 民政党の浜口雄幸内閣は、不況打開に「緊縮財政」「軍備縮小」を掲げた。恐慌下、不健全企業や人員の整理などを伴う産業構造改革を進め、節約を国民に訴え、省庁予算と官吏の俸給、国家予算の3割を占めた軍事費を削減しようとした。

 国際協調にも適う軍縮条約を、浜口首相は海軍内の反対勢力(加藤寛治軍令部長ら)を退けて締結したが、

「国防は天皇の統帥権に属し、政府は干犯を犯した」

 と、野党の政友会からも攻撃された。「統帥権干犯」の批判は陸海軍の現役、在郷の軍人たちや国家主義運動家らに広まり、浜口首相は同年11月14日、東京駅で右翼団体・愛国社の佐郷屋留雄に撃たれた。回復途上の身を押して国会に登院する無理を重ねた末、1931年8月に死亡した。

 帝国憲法11条は、天皇の陸海軍の統帥権を定めた。が、軍備・兵力の編成は別に12条で天皇の編成大権と定められ、政府の一員たる陸海軍大臣に輔弼責任があった。浜口内閣の立場は正当だったが、党利党略が煽った「統帥権干犯」を以後、軍部は拡大し乱用していく。

〈減俸騒ギノ際民政党曰ク「官吏ガ減俸ニ反対スルハコレ疲弊セル農村ニ同情ヲ寄スルコトナク、農村ニ対シ却テ挑戦セントスルモノデアル」ト。コレ又農村ト官吏トヲ喧嘩セシメ且ツ農村ノ御機嫌ヲトラントスルモノデアル(中略)其ノ他欺瞞ハ彼政党者流ノ存在ノ唯一ノ手段デアル。絶対ニ打倒セヨ〉(同上)

〈農民ハ夙ニ辛苦忍従久シキニ亘ル。(官吏も)共ニ起ッテ昭和維新ヲ絶叫セヨ〉(同年6月3日の日記より)

 その5年後。勝雄は二・二六事件が鎮圧された後の1936年3月1日、東京憲兵隊本部での尋問で、

「昭和維新ヲ翼賛シ奉ラント思ヒ立チタル時機如何」

 と問われ、

「昭和五、六年頃デアッテ任官後二年ノ時ノ『ロンドン』会議ノ事ヲ痛感シ又其ノ当時ノ社会情勢ヲ慨嘆シテ思ヒ立チマシタ」

 と答えた(憲兵尋問調書より)。

 事実、勝雄は連隊付の少尉として部下の教育、訓練に変わらぬ情熱を注ぎながら、この時期から「昭和維新」の運動に過激なほどのめりこんでゆく。1931年7月14日の日記には、

〈我国ハ農本立国ナルヲ要ス。海外発展ハ辺境ヘノ集団的移民ヲ以テ第一トス〉

〈私有財産ヲ制限シ且(地主制のような)土地ノ私有ヲ制限スル方法ヲ設ク」

〈各地方ハ皆自給自足経済ヲ立テ前トナスヘシ。酒、莨(たばこ)等ハ自家用ヲ自ラ作ルコトヲ許スベシ」

 ――など、農村の現状からの国家改造案がつづられる。 

 7月23~27日は「東行」と称して盛岡、山形、秋田の各連隊を汽車で訪ね、少尉、中尉たちに面会して現状を議論し、「革新派将校」の同志に加わる意思を確かめて歩いた。

〈各衛戍地青年将校ノ気風、一般ニ沈滞セル上官以上ノ気分ニ対シ不平大ナルモノヲ見ル。内心ニ鬱乎トシテ而モ青年将校相互ニ相通ジ積極的方法ヲ講ズルノ傾向ニ至ラサルノミ。又方法ヲ知ラサル観アリ〉

〈東京方面ノ檄文ニ対スル各衛戍地青年将校ノ反響=一般ニ十分ナル効果ヲ挙ゲ得ザル観アリ〉(7月27日の日記より)

「東京方面」とは、二・二六事件まで行動を共していく青年将校らであろう。勝雄は既に活動家の顔を併せ持つに至っていた。

「軍縮」の重石に長年抑えつけられ鬱屈した軍人たちの感情の導火線に、ついに火は点いた。

〈今日農民ノ困厄ハ極端ニシテ農民以外ノ者ノ想像以上デアル、コレヲモ忍ベバ吾人ノ怠慢デアル〉

〈国軍ガ国内的解決ニ乗リ出スハ抑々斯クノ如キ(政党の)勢力ヲ一掃センガタメデアル〉

〈全軍ノ即時蹶起ヲ祈願スル〉

〈東洋ノ獅子身中ノ虫タル支那(漢民族)ヲ膺懲スヘシ〉

〈満州ヲ日本ノ領地トナス〉

 との言葉も、勝雄の日記にほとばしる。

 仙台幼年学校の大先輩として高名を耳にしていたであろう、石原莞爾が満州で秘かに時機を待っている「満蒙問題解決」の決行は近し――とは知るはずもないが。(つづく)

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2020年4月25日掲載

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