家族も看取れずブータン女性「脳死」を招いた「留学生30万人計画」の罪科 「人手不足」と外国人(48)

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 2020年4月14日午後――。

 冷たい雨が降った前日とは打って変わり、福岡には穏やかな春の日差しが戻っていた。気温も20度ほどまで上昇し、新型コロナウイルスの感染拡大さえなければ、誰もが外出したくなるような陽気である。

来日から1年で……

 そんななか、福岡県古賀市の「古賀バプテスト教会」に、民族衣装の在日ブータン人たちが集まっていた。福岡市内の病院で前日亡くなったブータン人元留学生、ソナム・タマンさん(享年28)の葬儀に参列するためだ。

 ソナムさんは2017年10月、福岡の日本語学校に留学するため来日した。そして来日から丸1年が経とうとしていた18年9月、病に倒れ、脳死状態となった。

 その後、1年半以上にわたって人工呼吸器など生命維持装置で命をつないでいたが、4月13日、装置が取り外されたのだ。

 ブータンの家族はコロナ禍で来日できず、元ルームメイトや牧師ら数人に看取られての最期だった。

 ソナムさんが来日したのは、2017年から18年にかけ、ブータン政府が進めた留学制度「学び・稼ぐプログラム」(The Learn and Earn Program)の一員としてのことだ。同プログラムによって、人口80万人程度のブータンから700人以上の若者が日本へと渡った。

 その彼らが日本で体験することになった苦しみは、本連載での『「幸せの国」ブータン留学生の「不幸せ」な実態(1)首相懇談会で飛んだ怒号』(2018年8月27日)以降、繰り返し報じてきた。

 2018年12月には、ソナムさんと同じ福岡に留学していた青年が自ら命を絶った(『ブータン留学生の「自殺」が暴いた「深く暗い闇」(上)』2019年1月21日参照)。

 日本語学校を卒業すれば「簡単にできる」と宣伝されていた大学院への進学や就職を果たせず、ブータンへと帰国し、今も留学費用の借金返済ができず苦しんでいる若者も数多い。

 異国で寂しく亡くなったソナムさんも、同プログラムの犠牲者だ。

 彼女はなぜ日本へと留学し、どんな暮らしを送り、そして最期を迎えることになったのか。

甘い言葉に誘われて

 「幸せの国」として知られるブータンでは、若者の失業が社会問題と化している。観光以外の産業が育っておらず、公務員を除けばホワイトカラーの仕事がほとんどないからだ。

 そこでブータン政府は、失業対策として「学び・稼ぐプログラム」を導入した。日本へは、安倍政権が「成長戦略」に掲げる「留学生30万人計画」の下、アジアの新興国から出稼ぎ目的の留学生が大量に流入している。そうした実態に目をつけ、日本に留学すれば「学べ、稼げる」と、職のない若者たちを募ったのだ。

 リクルートを一元的に担った「ブータン・エンプロイメント・オーバーシーズ」(BEO)という現地の留学斡旋業者は、こんな言葉でプログラムを宣伝していたとされる。

 「日本へ行けば、ブータンでは考えられないほどの大金が稼げる。留学生は週28時間までしか働けないという法律はあるが、違反して働くことは難しくない」

 ベトナムなどの留学斡旋業者と同じ勧誘のやり方である。さらにBEOは、こうも語っていたという。

 「ブータンで大学を卒業した人は、日本語学校を修了すれば日本で大学院にも進学できる。進学せずに就職したければ、日本側のエージェントが仕事を斡旋してくれる」

 こうした甘い言葉に誘われ、ブータンの若者が次々とBEOとの契約を交わし、日本へと留学していくことになった。BEOから渡された契約書には、日本語学校に在学中のアルバイトで「年111万ニュルタム」(当時のレートで約178万円)、就職すれば「年150万ニュルタム(同240万円)から年300万ニュルタム(同480万円)」の収入が見込める、と具体的な金額まで記してあった。

 アルバイトの年収として提示している「約178万円」は、月に直せば約15万円だ。ブータンの賃金水準は、若者の憧れの仕事である公務員でも、20代で月3万円ほどに過ぎない。日本に留学した途端、公務員の5倍も稼げるのだから、ブータン人たちがプログラムに殺到したのも無理はない。

 ただし、月15万円を「週28時間以内」のアルバイトで稼ごうとすれば、時給1200円近い仕事に就く必要がある。日本語に不自由な留学生の場合、時給の高い都会で夜勤の肉体労働をしてやっと得られる賃金だ。また、アルバイトの内容だけでなく、就職や大学院進学のため必要となる日本語能力についても、事前に説明されてはいなかった。

 日本の事情を多少なりとも知っていれば、とても信用できる制度ではない。だが、ブータンの若者たちには知識がまるでなかった。しかもブータン政府が後ろ盾となったプログラムとあって、簡単に騙されてしまったのだ。

 留学費用は日本語学校の初年度分の学費やBEOへの手数料などで、70万ニュルタム(112万円)に上った。その費用は、ブータン政府系の金融機関が、年8%の金利で貸しつけた。

 政府が推進するプログラムとはいえ、留学費用を借金に頼るような外国人は本来、日本の留学ビザの発給対象にはならない。留学ビザは、アルバイトをしなくても日本で学費や生活費を支払える外国人に限って発給されるのが原則だ。そのため、法務省入管当局はビザ審査時、新興国の留学希望者に対し、親の年収や銀行預金残高の証明書などの提出を求めている。

 大半のブータン人には、ビザ取得に十分な経済力はない。そのため証明書はBEOが捏造した。その事実は後にブータン捜査当局の調査で明らかとなり、同社経営者らが逮捕されている。

寝る間もない生活

 「学び・稼ぐプログラム」で来日したブータン人たちは東北から九州まで、全国20以上の日本語学校に振り分けられた。ソナムさんが来日した2017年10月の第3陣は約380名と、同プログラム全体の半数以上を占めていた。

 彼女は日本へ旅立つ前、母親にこう告げていたという。

 「日本に行って1年間で借金を返済した後、2年目には仕送りでブータンに土地を買い、家を建ててあげるから」

 ソナムさんの一家は貧しく、母親が道路工事の現場で働いて生計を支えていた。彼女は膝の悪い母親を気遣い、きつい肉体労働から解放してあげたかった。

 留学時に背負った借金は、月約2万円ずつ5年間で完済するスキームだった。たった1年で5年分を返し終えようとすれば、返済額は大きくなる。ソナムさんは来日直後からアルバイトに明け暮れた。日本語学校のクラスメイトだったダワ君は、ソナムさんの暮らしぶりについてこう語る。

 「彼女は、パンや弁当の製造工場など3つのアルバイトをかけ持ちしていました。ブータン人留学生の大半は、2つのアルバイトをやっていたんです。かけ持ちすれば、週28時間の制限を超えますが、そうしなければ次の年の学費は貯まりません。

 ただし、ソナムのように、3つのアルバイトをかけ持ちしている留学生は珍しかった。彼女が『早く借金を返したい』と口癖のように言っていたのを覚えています」

 パン工場のアルバイトはダワ君も一緒だった。仕事は夜8時から始まり翌朝5時までだ。そして工場までは、日本語学校の寮から電車を乗り継いで片道2時間もかかった。

 ダワ君によれば、パン工場での時給は800円で、賃金はアルバイトを斡旋した業者経由で支払われていたという。

 2018年当時の福岡県の最低賃金は、814円だ。夜10時以降は深夜給として最低でも1017円が支給されなくてはならない。事情に疎いブータン人たちにつけ込み、業者がバイト代をピンハネしていた可能性がある。首都圏の日本語学校に通うブータン人留学生たちの間でも、斡旋業者のピンハネは横行していた。

 ソナムさんはパン工場で週3日、加えて弁当工場でも週3~4日の夜勤に就いていた。ほぼ毎日、徹夜で働いていたのだ。さらに日中のアルバイトもやり、日本語学校の授業にも出席する。まさに寝る間もない生活である。

 そんな暮らしを1年も続けた末、ソナムさんは倒れた。結核性髄膜炎を発病し、脳死状態に陥ったのだ。

 当時からブータン人留学生の間では、結核を発症する者が相次いでいた。その数は30人以上にも上る。ブータンでは結核の感染者が少なくないが、発症には免疫力の低下などが影響する。

 ブータン人たちは狭い部屋で数人の共同生活を強いられ、しかも多くが夜勤のアルバイトに就いていた。自然豊かなブータンでは、想像もできない暮らしだ。借金があるので、嫌になっても母国へ逃げ帰ることもできない。肉体的にも精神的にも、どんなに辛かったか知れない。

 しかし彼らの苦境は、日本のメディアはもちろん、ブータンでも報じられることは全くなかった。

 状況が変化したのが、ソナムさんが倒れた3カ月後の2018年12月、ブータン人留学生の1人が自殺してからだ。するとブータンで「学び・稼ぐプログラム」の問題が報じられ始め、責任追及の動きも起きていく。

 同プログラムの被害者の会が結成され、2019年2月には代表らが実態調査のため来日した(『「食い物」にされ続ける「幸せの国」ブータン留学生の「惨状」』2019年6月24日参照)。

 そしてBEO経営者らの逮捕に加え、ブータン政府で中心となってプログラムを進めた労働人材省の高官も起訴されることになった。

命と引き換えに母親を救った

 その間も、ソナムさんの意識が戻ることはなかった。

 2019年7月には、ブータンから母親が来日した。母親はソナムさんのルームメイトのアパートに身を寄せ、病院へと毎日通った。そして娘が横たわるベッドの脇にしゃがみこみ、反応のない身体をさすったり、髪をとかしたりしながら、すすり泣いた。ソナムさんの体重は、すでに30キロ程度まで減っていた。

 しかし支援者によれば、母親はソナムさんの回復を信じていたという。

 「お母さんは病室に入ると、まずソナムさんの身体に触れ、脈があるのを確かめていました。ソナムさんはチューブで流動食も供給されていたので、排便もあった。だからお母さんは、時間が経てば彼女の意識が戻るのではと考えていたんです」

 母親は福岡に4カ月滞在した後、11月にいったんブータンへ帰国することになった。その前日、担当医から母親に対し、ソナムさんの病状説明があった。回復の見込みはないと告げられ、脳死判定をするかどうかの決断が迫られた。

 日本の病院では、家族の了承があって初めて脳死の判定が下される。ただし、脳死と判定されても、家族が望めば延命処置は続けられる。

 とはいえ、「脳死」は家族にとっては重大な宣告だ。担当医の話を聞いた母親は、こう言って泣き崩れた。

 「娘は生きています。だって脈があるじゃないですか!」

 結局、脳死判定を受けるかどうかの結論は出ず、母親はブータンへと戻った。

 帰国後、母親は医師でもあるロテ・ツェリン首相と面会した。その後、母親は娘の脳死判定に同意した。そして今年1月10日、病院が正式に脳死と判定するに至った。

 その知らせを受け、母親は2つのことを望んだ。体調の悪化していた自分に代わり、ソナムさんの弟が生命維持装置の取り外しに立ち会うこと、ソナムさんを遺体のままでブータンへと連れ帰ることである。

 だが、2つの願いとも叶わなかった。

 来日を予定していた弟は、新型コロナの感染拡大で日本への渡航が難しくなった。
また、遺体をブータンまで運ぶためには費用がかさむ。コロナ禍で航空便が減っている最中では余計に難しい。日本で火葬し、遺骨をブータンに送る方が簡単だ。ソナムさんの入院費用等でブータン政府に負担をかけている母親には、受け入れざるを得ない現実だった。

 ソナムさんの葬儀には、福岡で進学や就職をした在日ブータン人ら約30名が参列した。他にも参列を望んだブータン人は多かったが、コロナ禍によって許されなかった。

 ソナムさんが残した留学費用の借金は、ブータン政府によって支払いが免除された。今後、家族が借金で苦しむことはない。

 世界各地のブータン人から寄せられた300万円以上の募金も、母親へと届けられた。ソナムさんは命と引き換えに、母親を救ったのである。

問われていない日本側の責任

 一方で、元留学生たちは今も借金返済に喘いでいる。今年3月には、ブータン政府が金利の支払い免除こそ決めた。だが、元本の返済は残っている。

 元留学生の多くは帰国後も仕事に就けず、返済の目処が立たない状況だ。彼らの人生は、日本への留学で台無しになってしまった。

 ソナムさんの葬儀当日、あるブータン人が追悼文をフェイスブックに投稿した。被害者の会で法律顧問を務め、昨年2月には実態調査のため来日したナワン・トブゲイ弁護士だ。

 〈亡きソナム・タマンに捧ぐ〉との言葉で始まる投稿には、以下のような文章が綴られている。

 〈よりよい人生を約束され、数百人もの若者が日本へと留学していった。多額の借金を背負ってのことだ。その1人が、亡きソナム・タマンだった。

 期待に胸膨らませ、彼女は故郷の家族のもとを離れた。よりよい人生を夢見て、家族を説き伏せて多額の借金を背負ったのだ。

 しかし、日本で待っていたのは、眠る間もない仕事と、疲れ切った身体で受ける授業に追われる日々だった。肉体的、精神的なストレスが高まっていく。

 多くの留学生が病を患い、問題が提起された。不満も公に述べられるようになった。だが、彼らの声に誰も耳を傾けようとはしなかった。

 借金返済の不安から、ソナムが解放されることはなかった。彼女は自らの健康を犠牲にするしかなかったのだ。

 日本で懸命に働いても、約束されたはずの人生は手に入らず、借金返済の苦しみを実感するだけだった。彼女の体調はさらに悪化した。そしてついには、祖国から遠く離れた病院の一室へと運び込まれた。

 そこでの彼女の祈りは神様へと届いた。だから母親は、彼女のもとに駆けつけることを許された。

 きっと彼女は喜び、涙を流したに違いない。だが、そんな表情や感情すら、母親に見せることはできなかった。

 彼女は希望を持ち、生命維持装置の助けを借り続けた。回復を望み、せめて今よりもよくなることを信じて、来る日も来る日も待った。しかし、その望みは叶わなかった。

 ブータンからはるか遠い異国の地で、家族にも看取られず、彼女は4月13日、この世から去っていった〉

 ソナムさんを死へと追い込んだ「学び・稼ぐプログラム」は、わずか1年で中止へと追い込まれた。現地では、関係者への責任追及も進みつつある。

 一方、ブータン人たちに幻想を与え、都合よく利用した日本側の責任は何ら問われてはいない。同プログラムと表裏一体の「留学生30万人計画」も、いまだ撤廃されてはいないのだ。

 コロナ禍の影響で、今春に限っては留学生の来日は激減した。だが、ソナムさんのように借金漬けで入国する留学生の流入は止まってはいない。彼女が生きていれば、何を語り、何を望んだことだろうか。

出井康博
1965年、岡山県生れ。ジャーナリスト。早稲田大学政治経済学部卒。英字紙『日経ウィークリー』記者、米国黒人問題専門のシンクタンク「政治経済研究ジョイント・センター」(ワシントンDC)を経てフリーに。著書に、本サイト連載を大幅加筆した『ルポ ニッポン絶望工場」(講談社+α新書)、『長寿大国の虚構 外国人介護士の現場を追う』(新潮社)、『松下政経塾とは何か』(新潮新書)など。最新刊は『移民クライシス 偽装留学生、奴隷労働の最前線』(角川新書)

Foresight 2020年4月23日掲載

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