「モーニングショー」玉川徹氏の「軍事より感染症対策を」は正論か

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 新型コロナウイルスの政府対応に最も厳しい姿勢を取っているコメンテーターの一人が「モーニングショー」(テレビ朝日系)の玉川徹氏だろう。もともと安倍政権には批判的なスタンスが目立っていたが、その姿勢は今回の件でも一貫している。最近では「安全保障というと軍事や食糧については国内では議論されてきたが、感染症に対しては考えられていなかったのではないか。しかし感染症のリスクがあることはわかっていたはずだ。それなのにマスクすらろくに備蓄していない。安倍政権は軍事については前のめりだったが、戦争と感染症、どちらのリスクが高いと思うのか。今は考えるべきだ」といった論理を展開。集団的自衛権の解釈変更を行ったり、憲法改正に意欲を見せたりする安倍政権への警戒心をかねてから示していた玉川氏らしいコメントをしていた。

 この玉川氏に限らず、「防衛予算よりも国民の生活を重視せよ」といった主張をする人は珍しくない。いわゆる「左」とされる政党にはこういった論調が目立つ。たしかにいつ使うのかわからない装備と、身近な医療福祉を比較すると、そうした主張ももっともに聞こえるかもしれない。

 しかし、一見もっともらしいこうした主張には見落とされている点がある、と医師の立場から指摘するのは『「人生百年」という不幸』等の著書がある里見清一氏だ。この問題を考えるために、里見氏の連載コラム「医の中の蛙」(「週刊新潮」3月12日号)を抜粋してご紹介しよう。

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戦争ができる国、できない国

 福島原発事故のあと、核燃料メルトダウン後の格納容器の内部を見ようと、ロボットによる観察が試みられた。しかしなかなかうまく行かない。これは日本の技術が、歌ったり踊ったりするロボットを作るのには長けているが、荒廃した戦場のようなところに入り込んでミッションを果たすようにはできていないからだと皮肉られた。日本は戦争を「しない」国のつもりでいたが、その実「できない」国になってしまっている。それが良いことか悪いことかの評価は、立場によって異なる。

 大雑把にまとめると、憲法を守れという野党革新系は「戦争ができないようにすれば戦争をせずにすむ」と主張し、憲法を改正しようという政府与党系は「戦争ができるようにしておけば戦争をせずにすむ」と考えている。前者は、「機械あれば機事あり、機事あれば機心を生ず」(荘子)、つまりそこにもの(軍備)があると使うこと(戦争)になるし、また使いたくなってくるのだ、という道教の考え方である。一方、後者は「相手が攻めてこないだろう、と考えるのではなく、攻めてこられないように準備をしておく」という孫子や、「人の愛(好意)をもって我が為にするを恃(たの)むものは危うし」と警告する韓非子の思想である。その是非はともかく、「戦争ができない」と、「戦争に近いこと」までできなくなるようで、それはやはり困る。

 新型コロナウイルスの蔓延に対して、中国は習近平の号令一下、発生源である人口1千万人超の武漢市を封鎖し、千病床の大病院を10日間の突貫工事でいくつも作ってしまった。これを後手に回ったなどと批判するのは簡単であるが、こんな「馬鹿力」は、日本政府など逆立ちしても発揮できない。こういう戦時対応は、人権を無視した強権国家の「強み」だろう。武漢から帰国した日本人にウイルス検査を「お願い」し、拒否されたら強制できないと泣き言を言う日本政府と対照的である。

 かのクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」号で、日本政府の対応はまずく結果的に感染者を増やしたと、内外から散々批判された。だがこの船はイギリス船籍で、本来日本がどうこうしなければならない義務はない。寄港を拒否してしまえばそれまでだったのを、「人道的に」受け容れて、しかも各国に感染者を送り返さないようにと配慮して泥沼に嵌(は)まった。

 むろん、受け容れたからにはちゃんとやるべきで、そこにはいくつも問題点はあっただろうが、「ではどうすればよかったか」については、このような船の寄港拒否を非難するWHOも具体的な解決策を示していない。アメリカCDC(疾病対策センター)のような組織をもたず、頼りないWHOに頼っていた日本はお手上げの状態である。医療でも、我々は癌とか認知症とかいう「平時」の病気にばかり目を向け、「戦時」対策を怠っていたようだ。

 2月12日の衆議院予算委員会で自民党の赤沢亮正代議士が、今後のため「病院船を保有したらどうか」と提案した。病院船は本来、戦時に傷病兵を治療しながら搬送するのが目的で、現時点での保有数は、圧倒的にアメリカが多い。むろんアメリカは今でもあちこちで戦争をしているからである。だから自民党は戦争準備を目論んでいる、と批判する声もあるようだが、短絡的に過ぎる。具体的方策や実現可能性は別として、もし病院船があったらダイヤモンド・プリンセス号の対処にも有用であったはずである。今後また同じようなことがあるのか、どういう事態が想定されるかを検討した上でとなるが、赤沢さんの提案には一理あると私は思う。「戦争(に近いこと)に備えること」と「戦争をしようとすること」は全く別物で、世の中の「考えたくないこと」は、考えなければ起こらなくなるのではない。

 アメリカも中国も「戦争ができる」国で、アメリカが戦争に強い(少なくとも個々の戦闘には強い)のは、世界中でしょっちゅう戦争をやっているからだろう。名医と呼ばれる人たちが、数多くその病気の治療をやっているのと同じである。翻って我が国の自衛隊は、戦争をせずに戦争に備え、戦争に近い事態(災害救助など)に出動する。(中略)

 古来、“profession”(専門職)と呼ばれるのは、医者と坊主(宗教家)と法律家で、この3者に共通しているのは「人の不幸が飯の種」ということである。そうすると軍人もこの仲間入りだろう。そして、不幸を望まず、不幸に備えるのは、実は非常に難しい。日本には「病め医者、死ね坊主」という嫌な言葉があるくらいだ。そこまでいかなくても、やはり我々医者は多くの病人に当たって、自らの腕を上げたいと考える。荘子の言う「機心」である。では専門職をなくしてしまえばそれに対応する不幸は起こらなくなるのか。そうはいくまい。

 我々は、戦争のことなんか考えずにいようとした。しかしパンデミックや大災害は戦時に準じ、それへの備えは戦争への備えと重なる。またたとえば、非常に嫌なことだが、戦争があるたびに外傷学が進歩し、その意味では日本の交通事故の患者さんなんかは戦争の「恩恵」に浴している。「悪」の良い面を見ず、また「善」の悪い面を見ずにその存在を全否定するのでは子供と同じである。(後略)

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 多くの国民が求めているのは、常に実効性のある対策、政策だろう。従前からの主張にとらわれず国民にとって本当に必要な対策は何かを柔軟に考えていく姿勢が、政府にもメディアにも求められている。

デイリー新潮編集部

2020年3月12日掲載

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