【新型コロナ】夏の甲子園大会は過去2回中止 福岡・明善と徳島商の知られざる不運

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徳島県勢の“奇縁”

 突撃精神に反するという理由で投球をよけることも許されず、仮に球に当たっても死球とは見なされないなど、今では考えられないほど何とも理不尽な特別ルールでの開催だったのだ。

 そして、地方予選を勝ち抜いた16校が出場したこの大会を制したのは徳島商である。大会前に優勝候補と目されたのは平安中(現・龍谷大平安=京都)だったが、同校は準決勝の広島商戦が再試合になったこともあり、準決勝と決勝を同日に戦う強行日程に。

 その影響もあったのか決勝戦では、7-6と1点リードで迎えた延長11回裏にエースの富樫淳が押し出し四球を与えてしまい、痛恨の逆転サヨナラ負けとなってしまった。

 逆に8-7でこの激戦を制した徳島商が優勝の栄冠に輝いたが、このとき優勝旗が渡されることはなく、徳島商ナインに与えられたのは一枚の賞状だけ(のちに“智仁勇”という文字が入った小さな旗が送られている)。

 だが、いずれも1945(昭和20)年の徳島空襲で焼失。優勝から35年経った1977(昭和52)年8月に改めて文部省から新しい優勝楯と賞状が贈られたのだった。

 なお、この大会が正式なものではなかったため、徳島県勢の夏の甲子園初優勝は1982(昭和57)年の第64回大会を制した池田まで待たなければならなかった。

 それでも徳島商は、戦後初の春の選抜となった1947(昭和22)年の第19回大会で、春夏通じて県勢初の甲子園制覇を成し遂げることとなるのだった。

 11日、ついに運命の発表を迎える今回の春の選抜大会。中止となれば春の選抜史上最大の大事件となるが、もし中止が避けられたとしても無観客試合での開催となれば、これまた春夏の甲子園大会を通じて初めての出来事となる。

 果たして高野連の決断や如何に!?

上杉純也

週刊新潮WEB取材班編集

2020年3月11日掲載

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