野村克也さん逝去でも「南海ホークス記念館」に献花台ナシ 最後まで残った確執

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“女性関係”で南海と決別

 2月11日、プロ野球に大きな足跡を残した野村克也氏(1935~2020)が死去した。そのため3年前に先立った妻の沙知代さん(1932~2017)との夫婦関係に、再び高い関心が集まっているようだ。

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 翌12日の朝日新聞を見てみよう。最初は天声人語だ。この日のタイトルは「ノムさん逝く」。野村夫妻に触れた部分を引用させていただく。

《後半生を支えたのは、サッチーこと妻の沙知代さん。ときに波乱はあったが、互いの信頼は生涯揺るがなかった。「夫婦円満の秘訣(ひけつ)は一緒にいないこと」「妻が強い家庭はうまく行く」。味わい深い夫婦論が残された》

 加えて第1社会面には「ノムさん、理論も情も ぼやき、励まし、輝いた『月見草』 野村克也さん死去」と題する評伝を掲載した。記者の署名入り原稿だ。

《17年末、沙知代夫人を亡くした際の表情は、やつれきっていた。夫妻ともに死因は虚血性心不全。「野村克也引く野球がゼロなら、野村克也引く沙知代もまたゼロ」と語るほど愛していた伴侶の後を追うように、旅立った》(註:引用時にデイリー新潮の表記法に合わせた、以下同)

 野村夫妻を考える際、絶対に欠かせない施設が、大阪市浪速区の「なんばパークス」にある。

 この「なんばパークス」は、プロ野球チームの南海(現:福岡ソフトバンクホークス)の本拠地だった大阪球場跡地に建設された複合施設だ。9階に「南海ホークスメモリアルギャラリー」が開設されている。

 南海は1938年に誕生し、88年にダイエーへ球団を売却して歴史の幕を下ろした。それから30年を超える歳月が流れた。

 南海を知らないプロ野球ファンは増える一方だろう。しかし、選手としての野村克也氏と言えば、やはり“南海の野村”なのだ。

 野村克也氏は54年、契約金0円のテスト生として南海に入団した。1年目は9試合で11打数無安打に終わり、戦力外通告を受けた。だが「クビになるなら南海電鉄に飛び込んで自殺します」と必死に訴えて残留を勝ち取った。

 2年目から科学的なトレーニングに注目、「頭で考えながらの猛練習」を科すと2軍で
頭角を現した。3年目の56年に正捕手として一軍に定着。翌57年に本塁打王のタイトルを獲得し、65年には戦後初の三冠王に輝いた。

沙知代夫人との交際を球団が問題視

 69年には34歳の若さで監督に就任。4番のキャッチャーとして試合に出場しながらチームの指揮を取った。73年にはパリーグを制したが、日本シリーズでは巨人のV9を許した。

 いわゆる“プレイング・マネージャー”として70年から77年までの8シーズンを戦った。リーグ優勝は73年の1回だけだったが、2位が3回、3位が2回と、6回もAクラス入りを果たした。この頃から“名将”だったのだ。

 あと一歩のところで泣かされ続けたのは、阪急(現:オリックス)の黄金期と重なったからだろう。同じ70年から77年まで、何と5回もパリーグを制している。

 野村氏は54年から77年までの23年間、南海に在籍した。これほどチームに貢献しながら、「南海ホークスメモリアルギャラリー」に野村氏の写真は1枚も飾られていない。

 それどころかギャラリーに掲示されている球団の年表には、野村氏の名前さえ記されていないのだ。これは異常事態だと言えるだろう。プロ野球担当の記者が指摘する。

「野村さんが亡くなられて、監督を務めたヤクルトや楽天では献花台が設けられました。ヤクルトには2日間で約8700人のファンが駆け付けたそうです。ところがメモリアルギャラリーに献花台が用意されることはありませんでした。大阪にはまだまだ南海を愛するファンが少なくありません。『献花台くらいは用意してもいいのでは』という声も上がっています」

 週刊新潮がギャラリーに事情を訊くと、次のような回答があった。

「このギャラリーを作る際に、野村さんにはお名前を出していいか確認したのですが、残念ながら拒否されました。ですから当施設としては献花台の設置はしておりません。お花を持ってきたファンがいるかどうかも、こちらでは把握していません」

 野村氏が協力を拒否していた――驚いた方もおられるだろう。この理由について、意外なことにウィキペディアの「野村克也」に詳細な記述がある。ご紹介しよう。

《このような展示に至った理由は、メモリアルギャラリーの建設に際して南海電鉄から本人宅へ連絡があったにもかかわらず、プレイイングマネジャー時代の解任劇を根に持っている沙知代夫人が名前や写真の掲載を一切拒否したことにある。この件については、往年のファンから、夫人宛てに抗議の電話が殺到したという》

 野村氏は沙知代夫人との交際が発端となって、南海と泥沼の対立関係に陥ったことがある。それが解任劇にもつながった。

 当時の2人は今で言う“ダブル不倫”“だった。週刊新潮は2017年12月、「『略奪婚』に骨肉の争い!死してなお恐ろし『サッチー』猛女伝説」の記事を掲載した。内容をご紹介しよう。

《1977年、克也氏が南海ホークスの選手兼任監督を解任された年のことだが、

「沙知代さんは、選手やコーチを乗せて球場へ向かうチームバスに勝手に乗り込んだり、3番を打っていた門田博光らに”野村の方針に文句を言うな””文句を言うなら試合で使わないわよ”と、直接電話したりしていて、公私混同が甚だしかったんです」

と、スポーツジャーナリストの吉見健明氏》

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