【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(8)昭和4年 運命の出会い 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ

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 1929(昭和4)年の正月。連載の主人公、対馬勝雄は18歳になり、仙台、東京の陸軍幼年学校を経て、将校養成の教育機関である陸軍士官学校(東京・市ケ谷台、現防衛省の所在地)の予科、本科で学び、卒業を半年後に控えていた。

 帰省した青森市相馬町(現港町)の対馬家の家族には、小さな変化があった。3人の妹たちで長女のタケ(当時16歳)は3年前の春に上京したのだ。

 もう1人の主人公で、タケさんの3歳下の次女だった波多江たまさん(弘前市で昨年6月、104歳で他界)が筆者に託したノートによれば、次のような思わぬ出来事があった。(注・勝雄の日記や記録、家族と友人らの証言を集めて1991年、自費出版された『邦刀遺文 二・二六事件 対馬勝雄勝雄記録集』の下書きとなったノート類の1冊)

 1925(大正14)年11月初めの寒い日、父嘉七さんの実家、青森県田舎館村垂柳の兄と弟が前触れなく訪ねてきた。2人は小作人で暮らしは貧しかったが、この季節になると必ず秋餅をついて相馬町の一家に届けてくれたという。

〈だがこの度は、何か云いにくそうに二人共、もじもじしていました。どうしたのか、と父が何回もたずねると、実は娘を一人貸してもらいたいと云うのです〉

〈くわしく聞くところによると、地主のお嬢さんが東京に嫁ぐんだが、女中さんがほしいとの事で、あんたの所は娘が三人もいるんだから、私達の顔をたてて是非、姉娘をたのめないかとの事でした。父は、びっくりしました〉

 地主の娘の嫁ぎ先に付けてやる女中を、身内の小作人の娘から選ぶ。どんな無理やりな指名でも、応えねばならないのが奉公人の務めのうちだった。

 そんな慣習を知りながら、とりわけ小柄な長女を遠くに離すのは忍びなく、嘉七さんは返事を渋った。

 そのころ東京は外国のような別世界で、かつて勝雄を仙台の幼年学校に出した時も親子泣き別れの旅であった。だが、古里の伯父たちは「何とか、何とか」と頭を下げるばかり。そこで条件を付けたのが母、なみさんだった。

〈女中は困るが、行儀見習いなど家事を教えてくれるなら、東京にやりましょう〉

 と、大岡裁きのような解決案を出した。嘉七さんは「女に教育はいらない」という保守的な明治の男だが、なみさんは「女の子も外で働けるよう、手に職を持たせたい」と正反対の考えだった。地主の求めに困り果てていた兄弟も〈よく先方にも云います〉と二つ返事で、お土産の魚ももらって大喜びで帰っていったという。

 タケさんは翌年5月に東北本線の列車で上京し、上野駅で勝雄に出迎えられた。

〈母は、娘の将来のために手離しました〉

 と、たまさんはつづった。

 東京の住み込み先となったのは、鷺ノ宮の安部金之助という英語教師の家で、行儀見習いばかりか勉強も教えてくれた。

〈のちに姉は、安部先生の応援で女学校を受験する事になりました。ただし父は、人の世話になって女学校に入ることは許さない、と云いました。しかし、姉はお小遣いをためて二年後に、和洋裁を教える東京女子専門学校(東京家政大学の前身)に入学しました〉

 嘉七さんの負けだった。母の思いを娘は受け継いで、自らの志を貫いた。

 後見人になった安部は謡、俳句、連歌、漢詩などにも通じた教養人で、士官学校から妹の様子を見に訪ねてくる勝雄も歓迎し、談論風発を楽しんだ。一家との縁は、勝雄の短い生涯の最後まで続く。

「ひねくれるな はかなむな今」

 このころの対馬家は、陸奥湾の浜に面した家で、町内の水産加工場群に交じってイワシの焼き干し作りを本業にするようになった。嘉七さんが毎朝、10キロの木箱入りのイワシをたくさん仕入れ、家族と近所の主婦が手作業で頭を取り、串に刺して炭火であぶった。学校帰りのたまさんをはじめ、小学1年生ほどの子どもらも手拭いをかぶり、たすき、前掛けをして働いた。晩ご飯のおかずも、焼いたイワシになった。

 焼き干しだけでなく、煮干し、イワシの油、肥料、飼料、さらにカマボコや魚の干物、フカヒレ、肝油の製造まで嘉七さんは手を広げ、頑固なまで誠実な仕事ぶりに商売筋の信用を得て、貧乏暮らしも少しずつ良くなっていった。

 しかし、相も変わらず家族を困らせたものは、家の台所事情を顧みぬ嘉七さんの人助け癖だったという。

〈あまり知らない人にも、暮らしに困っているなら、お米でもお金でもくれてやりました。わが家が困ってもです。ある夕方、やせてみすぼらしい男の人が風呂敷包みを持ってきました。お金は必ず返すが、之は担保だというのです。父は、お金は利子も何にもいらないから、返せるようになったら返しなさい、と云いました。証文も何にもいらないんだから、包みを持って帰りなさい、と〉

 借金を請いに来た男もよほどの堅物と見えて、頑として聞かず、

〈貸してくださっただけで親子は助かります〉

 と何度も礼を言って、無理やり包みを置いていった。後でなみさんが開けてみると、5、6歳の女の子用の赤い花模様の着物が出てきた。値は大した品ではなかったが、

〈本当に困っていたんだ、と母は気の毒そうにし、可哀想でだめだから先方に返そうと、次の日、近所の人に持っていってもらいました〉

 そして、嘉七さんは酒を飲んだ。夜になると、酒飲みの仲間も集まってきた。

〈大酒飲みばかりで、飲んで口説く人、はしゃぐ人、歌う人、寝込む人と、とてもにぎやかだった。どこにも貧乏人がごろごろしていて、どうにもならない暮らしがやりきれなかったのでしょうか〉

 と、たまさんは回想した。それはつらい思い出でもあった。

〈私は、酒飲みの客が来る度に一升瓶を持って、雪の中をお酒を買いにゆかされました。本当にいやでした。何回も行く時は泣きたくなりました。其の頃の店ではお酒は量り売りで、帳面につけて貸してくれました。お酒の借金が絶えませんでした〉

 そんな時、勝雄が家にいると、読んでいた本を伏せて、たまさんの手から黙って一升瓶を取り、代わりに買いにいってくれた。

 士官学校から帰省していた昭和4年の正月も、相馬町は深い雪の中だった。

〈一日に何回となく一升瓶を持って酒屋を往復する私を見て、可哀想に思ったのでしょう。士官学校に帰る時、そっと折りたたんだ手紙のようなものを渡してゆきました。それには、次のような事が書いてありました〉

 妹等にあたふ 昌風(当時の勝雄の用いた号)

 たらちねのまづしき庭にあれたれば

 行けあきらめの ひとすじみちを

 あまつさへ 酒のむ父に仕えんは

 無限の慈悲のなくばあらぬを

 無限の慈悲 佛の心 汝等に

 過ぎし務めと 誰かおもはざる

 ひねくれるな はかなむな今

 忍苦と思へをしき妹よ

 昭和四年一月五日 上京前 

 この一文をしたためた紙片は、たまさんが兄の遺品として保管していた。

 勝雄は同じ日の日記(前掲『邦刀遺文』所収)にも、

〈みちのくの冬の寒さに明暮れを 人は酒欲(ほ)りまづしかりけり〉

〈酒かひにふぶくさなかを幾度か どれいの如き妹かなしも〉

 など14行の前書きを加えた、古里の貧しさへのやりきれぬ諦念、家族への切ない愛情の込もる詩篇として残し、後ろ髪を引かれる思いで真っ白な雪の青森を後にした。

「国家改造」の気運

 勝雄はこの間、1927(昭和2)年3月の士官学校予科(教科は旧制高校に準ずる)を卒業した後、古里田舎館村に近い弘前市の歩兵第三十一連隊に士官候補生として配属された。

 軍隊のさまざまな実務を見学し、野外の演習に参加して現場体験に明け暮れ、翌年10月に東京に戻って本科に進み、本格的な軍事学専門家、軍隊指揮官への学びを重ねていた。

 学校の日々が勝雄の日記には淡々と記されるが、東京という磁場が引き寄せた政治批判も噴出してくる。

 1928(昭和3)年の日記(『忍笑』と題する)の3月25日をひもといてみる。

〈最近陸海軍大臣文官制我国政府内ヨリ問題トセラレアリ。余ハソノ根本的ナル利害ハ知ラズ。或イハ形式上之ガ実現ハ難(カシ)カラザルモノナルヤ知ラズ。但、精神的ニ考ヘテ吾人軍人ガ文官タル大臣ヲ戴クコトハ頗ル好マシカラズ〉

 現在の防衛省トップたる大臣を国会議員が担うことは、日本国憲法における国民主権下、防衛力たる自衛隊を文民が統制する「シビリアンコントロール」の象徴になった。

 昭和前期の軍部の権力強大化、戦争への暴走という歴史への反省に立つことは常識だが、戦前の大日本帝国憲法では天皇が最高指揮権者として陸海軍を統帥する、いわゆる「統帥権」(第十八条)が政党政治から独立したものとみなされた。その権威を傘に陸海軍が大臣のポストを聖域化し、歴代内閣に現役武官を送り込み独占していた。内閣の政策が軍との対立や不都合を招く事態があれば、大臣を辞めさせて倒閣、阻止できるという脅威を「伝家の宝刀」にした。

 その力関係を変えたのが、第1次世界大戦後の1922(大正11)年、戦争忌避の国際情勢を背景に列強間で結ばれた「ワシントン軍縮条約」である。

 日本でも海軍の軍艦建造制限、陸軍の「山梨軍縮」「宇垣軍縮」などの軍備縮小が、民主主義を求める大正デモクラシーの国民世論高揚をバックに実現され、軍部は政党政治に初めて膝を屈した。軍の権威失墜、軍人の軽視蔑視が世間で露わになったのも1920年代だった(連載第6回「閉校の憾み、少年の胸に宿り」参照)。

 その流れで論議に登場したのが、勝雄の日記にある「陸海軍大臣文官制」だ。

 日記の前年、1927年には第1回普通選挙も実現し、政党政治は全盛期にあった。軍縮の世論をてこに軍部の力を一気に削り、抑え込もうと政党側が持ち出した案が、陸海軍大臣文官制だった。

 そこから、軍縮で血を流させられ、蔑視され、存在価値を問われた軍人たちの反発も強まっていく。

 勝雄自身、軍人への志を立てた仙台陸軍幼年学校も軍縮の煽りで廃校とされ、誇りを傷つけられた「被害者」体験がある。

 その憤りを深くさせたものが、政党人の汚職頻発だった。

〈近時政治家ノ腐敗ハ屢々怪事件、醜悪摘発ヲ起シタリ。吾人ハカカル政治家ノ手ヲ経テ直接養ハルルを潔シトセズ〉

 と日記は続く。

 二大政党の政友会は三井、民政党は三菱、と財閥を資金源として癒着し、普通選挙と事後の国会では目に余る買収が横行した。

「松島遊郭疑獄」(遊郭移転をめぐる汚職)をはじめ政党人の利権漁りの贈収賄、陸相として政府に妥協し軍縮を断行した山梨半造大将自らの汚職醜聞も露呈し、新聞をにぎわせた。

 農村と庶民の貧困、窮乏を肌で知る若手軍人らの政治家、陸軍上層部、財閥への憤りは、「国家改造」の気運へと導火してゆく。

大岸頼好との面会

 1月5日に青森を発った勝雄は、そのまま上野へ向かわなかった。夜行の車中泊をして明くる6日の朝、途中の仙台で下車する。日記によれば、仙台幼年学校時代の同期生、桜井亮英(戦後は宮城県議会議員)を訪ね、右足をけがして切断し17歳で軍人の夢を諦めた親友と旧交を温めた。

 さらに幼年学校、士官学校も同期である地元出身の小松冬彦の家に寄って歓待され、昼食をごちそうになった。

 だが、旧友との再会だけが仙台下車の目的ではなかった。

 日記は次のように続く。

〈午後三時(小松家を)辞し大岸中尉殿宅ニ至ル不在、街ヲ一巡シテ来タリシニ夫人在宅、中尉殿は週番ナリト。依ッテ学校ニユク、迷ヒタルモ行キツキテ面接ス。入浴後馳走ニナリ且ツ食ヒ且ツ語ル、

 1、余自身ノタメ語ラレシコト

 2、日本ノ現状ト国家ノ急務

 3、個人ト社会ノコト

 4、「クシハイ(注・何かの暗号か)」ノコト 等々

 九時潔ク訣別シ市電ニテ仙台駅ニ至ル。(中略)駅ニ於テ小松ト一緒ニナリ十時発上野行キニ乗ル〉

 日記を所収する『邦刀遺文』には、1月6日の項の後に、

「大岸頼好であろう。対馬の生涯を決めた会見といえる」

 という編者の注書き(たまさんのものか)がある。同書末尾の資料にも、勝雄と家族以外の人物では唯一、大岸頼好の軍服姿の大きな写真が載る。何者なのか。

〈考へて見よう。農村、文化の母たる農村。繁栄の源泉。農民吾等こそ皇国の母。

 父たる志尊(注・天皇)と血を通はせて。一君即ち萬民、宗廟(注・皇祖の御魂の社)即社稷(注・国家)。全日本的輪中意識の発電所。

 吾等は耕せる田を見る。亀裂が入ってゐ。皇国的全一的精神生活の破綻。経済生活の亀裂。吾等が見たる都市を救わねばならん。瀕死の都市を。そして同時に母たる吾等自らの農村を。

(中略)牢記せよ。皇軍精兵の六〇%は我等農民の出だ。日清役に日露役に生を捨てて義を取った。士魂即農魂。(中略)百姓こそ危国日本を救ふ(筆者も百姓の児の一人なるを悦ぶ)。全日本的輪中意識の中枢は天皇也。而して全日本的輪中意識の内包、拍車、槓杆(注・てこ)皆、是れ百姓也〉

 大岸が神田徳造という筆名で、国家主義社大川周明が主宰した月刊誌『日本』(行地社)の昭和4年9月号に発表した論文「全日本的輪中意識』の一節である。

「輪中」とは、洪水から集落を守るための堤防で囲まれた地域の共同体を意味する。

 論文発表の前年10月、岐阜県内の木曽、長良、揖斐三川の水害防止を目した改修工事をめぐり、農地を放流ルートにされた7つの村の農民数千人が県に生活防衛を訴えて反対し、警官隊の弾圧に屈せず闘った末、翌昭和4年1月に工事変更を勝ち取った。犀川事件という。

 大岸はこれを伝え聞いた農民の団結と行動の力に共鳴し、天皇の下で平等一体となる農民と皇軍兵による国家改造の闘争を理想に掲げた。

 大岸はこの時、仙台陸軍教導学校(曹長、軍曹ら下士官の養成機関)の教官で歩兵中尉。高知県の農家に生まれ、初任地だった弘前の歩兵第五十二連隊が軍縮で廃止され、青森市の第五連隊への転属を経て、1927(昭和2)年から仙台勤務となった。

 広島幼年学校にいた1918(大正7)年の「米騒動」で民衆の力に感化され、東京の士官学校時代には社会主義者、共産主義者らの会合にも出入りし、東北の農民出身の兵士たちを教育する現場で農村問題に傾倒した。

〈農民出の兵士の家郷をして、惨状被敗、今日現場の如くに放置し去って、果たして報国尽忠堅固の精兵を望み得るか〉(『日本』昭和5年5月号の論考『良兵良民教育の徹底』より)。

 このような農村からの国家改造論者に、勝雄が会わずにいられるはずはなかった。

救国ノ名ニ於テ軍人ハ起ツ

 大岸との初めての面会で、勝雄が心酔したと思えるような記述が、東京に戻ってからの1月27日の日記にある。

〈昨日「一ノ展望」(大岸氏述)ヲ読ム。未ダ決定的ニ余ノ解釈ヲ下シ得ナイガ、先般仙台ニ於テ断片的ニ承リタルコトガ合点ユキタル感ジス。氏ノ展望ノ卓越ナル敬服措ク能ワズ〉(『一ノ展望』は大岸が当時発表した論考か。筆者が調べた限りでは手掛かりがない)

 その後にすぐ続く文章は、それまでの日記には見当たらぬほど激越、攻撃的な口調になっている。それも大岸の影響の表れ、あるいは生来の純粋さが「ある方向」を得たから、といえるのかもしれない。

〈第何十何議会カ最近開会セラレタリ。政党屋、政治屋、国ヲ毒スルコト頗ル大ナルヲ思ハシム。彼等ハ国家ノ急務、重大事ヲ論議スルコトナク、政争ノ具ニ適スルモノニ主力ヲ注ゲル明白ナリ。

 重要国策ハ一時ノビ(弥)縫糊塗ヲ以テ忽セニシ。己ノ地位ノ安固ノミ之図ル、在野党ノ議員亦飢エタル群犬ノ如シ。醜状烈シ「軍人ハ政治ニ拘ラズ」コレ正シキ政治ノ行ハレアルトキノ標準トシテ言フモノナリ。

 叡聖文武ノ明治大帝ガ政治ノ混乱セルトキヲ標準ニオ示シアリタルコトナシ。政治ノ名ニ於テデナク、救国ノ名ニ於テ軍人ハ起ツデアラウ〉

「軍人ハ政治ニ拘ラズ」は、明治天皇の「陸海軍軍人に賜りらる勅諭」(軍人勅諭)の有名な戒めの1つ。

 連載第6回「廃校の憾み、少年の胸に宿り」に、

〈ある日、父は兄に向かって「軍人は絶対政治に口を出してはいけない」と戒めました。私は、兄が注意された事は之より他に知りません〉

 という、たまさんの回想がある。日露戦争の出征軍人だった父嘉七さんが、幼年学校生だった勝雄を先輩として諭した場面だった。

 軍人勅諭は金科玉条であり、嘉七さんの言葉は軍人の常識だった。

 ところが、

〈政治が混乱した時は、政治ではなく、救国の名において軍人は蹶起する〉

 と、いわばクーデターの肯定へと踏み出したのだ。

 大岸とともに当時、青年将校の運動の中心的存在になっていたのが西田税(みつぎ)である。

 鳥取県米子市出身で、大岸と同じ広島幼年学校を卒業後、士官学校(34期)在学中の1922(大正12)年に革命理論家の北一輝と出会い、著書『日本改造法案大綱』(連載第2回「デスマスクが語るもの 前編」参照)を綱領として青年将校を結集する国家改造運動を志した(途中、病気で依願予備役)。

 1927(昭和2)年、軍隊を動かす革命戦の秘密組織「天剣党」の旗揚げを準備したが、呼び掛け段階で摘発された。

 大岸は、こうした西田らの考えとは一線を画していた。軍隊は革命の手段、とは考えず、仙台教導学校で出会う農村出身の教え子たちに希望を託した。

 青森の第五連隊で運動の同志となった末松太平氏(元陸軍大尉)は戦後、大岸のこんな言葉を著書『私の昭和史』(みすず書房)に記した。

〈ここで爾後、大岸中尉は「明治維新の原動力は下級武士、すなわち下士だった。昭和維新も下士からだ」と下士官候補者学生の自覚を高め、第一期生の菅原軍曹のほか、革新への共鳴者を何人か教え子のなかから養成するのである〉

 西田、北は民間人ながら1936(昭和11)年の「二・二六事件」に連座し、勝雄ら17人の蹶起将校らと銃殺されるが、不参加だった大岸は共犯の事実なしとされ不起訴となる。運命は分かれるが、勝雄はそれでも事件後の憲兵尋問調書で〈尊敬シタ人〉として大岸の名を筆頭に挙げた。

昭和の激動の始まり

 1929(昭和4)年は昭和の激動の始まりの年になる。

 10月24日、金曜日。第1次世界大戦後、自動車産業を中心に「世界の工場」の繁栄を謳歌した米国で、ニューヨーク株式市場が突如の大暴落を記録。株は紙屑同然になり、農産物の値も下落し、たちまち大恐慌が世界に連鎖した。敗戦から復興途上だったドイツの経済は再び崩壊し、絶望的な混迷が独裁者ヒトラーの登場を用意した。

 日本はどうなったのか。

 当時、共産党の下部組織で労働運動、反戦運動に身を投じていた中野雅夫氏は著書『昭和史の原点』(1972年、講談社)に記録した。

〈輸出の四割が止まった。中小企業は軒並み倒産した。労働者はわずかの涙金か一文なしで街頭に放り出された。政府発表で毎月三十五万人の失業者が出るありさまだった。無産大衆党の発表では毎月六十万人をこえる失業者であった。失業者は東京や大阪から故郷に帰るのだが、汽車賃がないので歩いて帰った。その群れが東海道や山陽道を今日の自動車のように、延々と続いた〉

 都会の工場群で労働者のストライキが広がり、資本家が呼び込む警官隊と暴力団との間で流血の紛争が頻発する間に、この「昭和恐慌」は、貧しかった農村にさらなる生き地獄の辛苦を与えた。米国に輸出されていた生糸が行き場を断たれ、コメや野菜も巻き込んで暴落したのだ。

 とりわけ東北の農村には、「昭和の大凶作」という厳しい冬の時代が迫っていた。

 その時、勝雄は青森に帰っていた。士官学校を同年夏に卒業し、弘前の第三十一連隊で少尉に任官したのだ。名誉ある連隊旗手と新人教育の日々は、しかし、長くは続かなかった。(つづく)

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2020年2月18日掲載

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