20年ぶり「幕尻優勝」大相撲「起源神話」の真相 国際人のための日本古代史()

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 令和2年(2020)の大相撲初場所で、西前頭17枚目・徳勝龍が初優勝した。奈良県出身の力士としては98年ぶりで、大正11年(1922)の鶴ヶ濱以来、しかも幕内最下位の「幕尻優勝」は20年ぶりの快挙になる。

 奈良県は相撲発祥の地だから、じつに喜ばしい。

『日本書紀』に、次の記事が載る。

 垂仁7年秋7月のことだ。当麻邑(たぎまのむら=奈良県葛城市)に当麻蹶速(たぎまのけはや)という勇猛な人がいて、普段から、

「自分よりも強い相手に出逢ったことがない。どうにかして、生死を問わず、力比べをしてみたいものだ」

 と豪語していた。そこで垂仁天皇は、野見宿禰(のみのすくね)なる好敵手を出雲国から招き、闘わせた。すると野見宿禰は当麻蹶速の脇腹の骨を蹴って折り、腰を踏み砕いて殺してしまった。当麻蹶速の土地は奪われ、野見宿禰に下賜された。野見宿禰はそのままヤマトに留まり朝廷に仕えた。これが、相撲の起源とされている。

 偶然とは言え、前回、新国立競技場の「野見宿禰」の壁画の話をしたばかりだ。野見宿禰は、出雲国造の同族であり、菅原道真の御先祖様である(2020年1月7日『古代「蹴る人びと」が恐れた「蘇我入鹿」の「祟り」』)。

 第11代垂仁天皇は実在の初代王と目される崇神天皇の子だから、事件はヤマト建国直後(黎明期)に起きていたことになりそうだ。

 この説話、背後に強い政治性を感じる。当麻邑は葛城(金剛)山系の北端の二上山周辺に位置し、古代から交通の要衝だったからだ。

 しかも、北の生駒山を物部氏が、南の葛城山を葛城氏が支配していたから、二大勢力にはさまれた要所の当麻は、きな臭い土地になっていたはずなのだ。

 ヤマトから大阪方面に抜ける場合、生駒と葛城(金剛)の山塊の間の狭い地域を通らねばならない。大和川を下るか、陸路なら、二上山の南北に接する穴虫峠(大坂。標高140メートル)と竹内峠(横大路。標高286メートル)を利用する。これらの峠が、まさに「当麻邑」の強い影響下に置かれていたのだ。

 つまりヤマト政権は、当麻蹶速から、流通ルートを強奪したのではあるまいか。

 時代はやや下って、第17代履中天皇が即位される直前、謀反事件が起きていて、履中は難波の宮から河内国の埴生坂(はにゅうのさか。これが竹内街道)に逃れ、ここからヤマトに向かっている。

 この時出逢った少女は、近道の大坂(穴虫峠)ではなく、迂回する当摩道(たぎまみち=竹内街道)を通るよう勧めたとある。穴虫峠には、伏兵が待ち構えていたようだ。選択を誤れば履中は殺されていただろうし、時代ごとに、勢力図は変化していっただろう。

「当麻蹶速」の秘密

 そこで気になるのは、当麻蹶速と野見宿禰の正体だ。まずは、「葛城の当麻(当摩)氏」から。

 葛城の雄族といえば葛城臣(おみ)だが、5世紀後半に雄略天皇が出現して没落している。ただし、「葛城」を名乗る人びとは生きのび、しかも「当麻」とかかわっている。

『日本書紀』の神武天皇の説話に登場する「葛城国造」の末裔に「葛城直(あたい)」がいて、用明元年(586)正月条には、用明天皇が葛城直磐村(いわれ)の娘・広子を娶り、当麻氏の祖となる麻呂子皇子が生まれたとある。ここでは、葛城直が当麻氏の母系の祖になっている。

 かたや『古事記』には、用明天皇と当麻倉首比呂(たぎまのくらのおびとひろ)の娘の飯之子の間に生まれた子が「当麻王」とある。

『日本書紀』の葛城直磐村は『古事記』の当麻倉首比呂と同一人物と考えられ、「当麻」と「葛城」が、2つの系譜の間で交錯している。

 当麻氏は当麻邑周辺の葛城系の豪族であろう。そして当麻蹶速は、葛城周辺を支配していた人びとのシンボル的存在で、当麻邑周辺の流通ルートをめぐる争いに敗れたことを示しているのだろう。

 ただし、「当麻」には、もうひとつの秘密が隠されている。それが、日本海側の「但馬(たじま=兵庫県北部)とのつながり」だ。

 門脇禎二氏は、ヤマトの黎明期に、奈良盆地南東部のヤマト政権が盆地西南部の葛城王国と覇を競っていたと推理した。さらに、葛城と但馬の関係に言及している。

『古事記』に、次の系譜が記載されている。但馬のアメノヒボコ(天之日矛。天日槍)の末裔の清日子(きよひこ)と「当摩咩斐(たぎまのめひ)」が結ばれ、孫が「葛城の高額比売命(たかぬかひめのみこと)」だったとある。

門:脇氏はこの系譜を重視し、葛城の王は但馬と通じていたと指摘している(『葛城と古代国家』講談社学術文庫)。これは、無視できない。

 筆者は、両者の関係をもっと強いものと感じている。

 ヤマト建国とともに葛城に拠点を構えたのは葛城氏と賀茂氏だが、彼らは「タニハ(但馬、丹波、丹後、若狭の地域をひとくくりにした古代丹波地域)」出身と睨む(拙著『「大乱の都」京都争奪 古代史謎解き紀行』新潮文庫、2020年2月刊)。

 タニハはヤマト建国の直前、鉄器を大量に蓄えた出雲と北部九州勢力に対抗するために、近畿地方や近江、東海に文物を流し、発展とヤマト進出を促した。そして、ヤマト建国を陰から支え、自身もヤマトの葛城周辺や南山城に進出した。タニハ、近江、東海の動きにあわてた吉備と出雲は、ヤマトに乗り込み、多くの地域を寄せ集め、ヤマトの建国は成し遂げられたのだ。

 ところが政権発足後しばらくして、日本海勢力(タニハ+出雲)と瀬戸内海勢力(吉備+東海)の流通ルートをめぐる主導権争いが勃発してしまった。

 結局瀬戸内海勢力が勝利し、日本海勢力は一時停滞した。これらは、考古学的に確かめられたことなのだが、当麻蹶速の敗北も、このヤマト政権を二分した覇権争いのひとコマとみなすことができる。

意外な歴史

 日本海と瀬戸内海の主導権争いが「穴虫峠や竹内街道の争奪戦(当麻蹶速事件)」につながったとしても、なぜ日本海側の出雲国造家の親族(野見宿禰)が日本海の但馬とつながる葛城と争ったのだろう。ここに、新たな疑問が生まれる。

 勘違いしがちだが、出雲国造は「出雲土着の人びと」ではなく、天上界(高天原)から乗り込んでいった人たちの末裔なのだ。出雲国造家の祖神・天穂日命(あまのほひのみこと)は、国譲りの工作を命じられていたと、『日本書紀』は神話に記録している。『出雲国造神賀詞』にも、出雲国造家が出雲を支配している様子が描かれる。

 じつはこの「出雲の国譲り神話」こそ、ヤマト建国直後の日本海勢力の敗北を神話化したものだったのだ(拙著『神武天皇vs.卑弥呼』新潮新書)。ならば、天穂日命は何者なのだろう。

 出雲では前方後円墳ではなく、前方後方墳が造営されていく。その前方後方墳は、ヤマト建国の前後、近江と東海に生まれ、前方後円墳よりも先に列島各地に広まっていった。この埋葬文化をかたくなに守りつづけたのが出雲国造で、ここに大きな謎が隠されている。

 拙著『古代史謎解き紀行Ⅱ 神々の故郷出雲編』(新潮文庫)に述べておいたように、出雲は最後に経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)に追い詰められるが、これらの神は吉備の物部系と東海の尾張系と思われ、実際歴史時代の記事の中でも、出雲いじめは物部氏と尾張氏のコンビによってなされている。石見(いわみ)国(島根県西部)の物部神社(大田市)の伝承によれば、物部氏が石見国に、尾張氏の祖が越(北陸)に陣取り、日本海と出雲を監視したと言っている。

 要するに、出雲国造は東海の尾張氏の系列なのだろう。だから、前方後方墳に固執したにちがいない。そして、当麻蹶速を殺した野見宿禰は、吉備=物部と手を組んだ尾張(東海)系の人物で、生駒山周辺に陣取る物部氏と協力して、当麻周辺を奪いにいったのだろう。また、葛城に高尾張の地名が残ったのは、尾張系豪族が、一時期この一帯を支配していたからかも知れない。

 いずれにせよ、当麻邑の奪いあいが起きて、支配者が何度も入れ替わっていた可能性が高い。

 当麻蹶速、意外な歴史を背負っていた。

【編集部よりお知らせ】

本文でも触れている関裕二さんの最新刊『「大乱の都」京都争奪 古代史謎解き紀行』(新潮文庫)が刊行されました。

〈なぜ荒地で水害が多く人が住みにくい京都に、桓武天皇は都を築いたのか?

 平安京の誕生には、いくつもの謎が隠されている。旧体制の名門豪族と新興の藤原氏の対立、賀茂氏と秦氏の暗躍……。

 源平擾乱、応仁の乱、本能寺の変と常に争乱の中心であり、「日本と日本の王の形」を決めた平安京遷都には、ヤマト建国から続く因縁と恩讐の歴史があった。

 古代史の常識に挑む「紀行シリーズ」完結編〉(新潮社HPより)

 本書は文庫書き下ろしです。ぜひご購読ください。

関裕二
1959年千葉県生れ。仏教美術に魅せられ日本古代史を研究。武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。著書に『聖徳太子は蘇我入鹿である』(ワニ文庫)、『藤原氏の正体』『蘇我氏の正体』『物部氏の正体』(以上、新潮文庫)、『伊勢神宮の暗号』(講談社)、『天皇名の暗号』(芸文社)、『「死の国」熊野と巡礼の道: 古代史謎解き紀行』 (新潮文庫)など多数。最新刊に『神武天皇 vs. 卑弥呼 ヤマト建国を推理する』(新潮新書)、『古代日本人と朝鮮半島』(PHP文庫)、『「始まりの国」淡路と「陰の王国」大阪: 古代史謎解き紀行』(新潮文庫)がある。

Foresight 2020年2月11日掲載

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