「菊池桃子」の再婚報道、ワイドショーが元姑「五月みどり」に触れない深い事情

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あの周防社長も社員だった

 西川会長は1945年、20歳の若さで浪曲の興行会社を興す。そして49年に村田英雄(1929~2002)を迎えたことから一気に存在感を増していく。

 58年に「新栄プロダクション」を設立。同社の公式サイトには「創業より村田英雄をはじめ、北島三郎、新川二朗、五月みどり、山田太郎、大月みやこ、西川峰子、小松みどり、藤圭子、西尾夕紀など世に送り出してまいりました」とある。まさに錚々たる顔ぶれだ。

 芸能界に関心を持つ人なら、現在の“ドン”はバーニングプロダクションの周防郁雄社長(78)であることはご存知だろう。

 講談社のニュースサイト「現代ビジネス」は16年11月30日、ノンフィクションライター田崎健太氏(51)の署名記事「バーニング社長・周防郁雄氏が初めて語る『芸能界と私』」を掲載した。元は「週刊現代」同年11月26日号に掲載されたものだが、ここで周防社長は、芸能界の第一歩を「新栄プロダクション」でスタートさせたと振り返っている。

《周防がまず芸能界で働いたのは、新栄プロダクションという演歌専門のプロダクションだった。

 新栄プロは、'58年に設立された、浪花節専門プロダクション「西川興行社」を前身としている。その後、浪曲師だった村田英雄が『無法松の一生』で演歌歌手としてデビューしたのに合わせて新栄プロと改名した。

「新栄の(西川幸男)社長の家に住み込んで、村田さん、バンドと一緒に年間100日ぐらいは地方をドサ回りしていました。マネージャーの下について仕事を覚えるわけです。給料も安かったですが、自分で車を運転して荷物を運んだり、サイン色紙を売ったり、とにかく何でもやった」

 村田は、'61年11月発売の『王将』が100万枚を売り上げるヒットとなり、人気歌手の仲間入りをすることになった。さらに翌年には北島三郎がデビューし『なみだ船』で人気を博した。こうした歌手の面倒を見るのが周防の仕事だった》(註:文章の冒頭が1字下げになっていないのは原文ママ)

 西川会長は12年12月に間質性肺炎で死去、密葬を経て、13年2月に本葬が台東区の東本願寺で行われた。葬儀委員長は作曲家の船村徹(1932〜2017)が務め、副委員長は周防社長。西川会長は、いわば“ドンのドン”だったわけだ。今でも威光が残っているとしても全く不思議はない。

 西川会長と最初の妻との間に生まれた子供が、歌手の山田太郎(71)だ。65年の「新聞少年」がヒットして紅白にも出場したと言えば、ご存知の方も多いだろう。現在は歌手としての活動も続けながら、西川賢として「新栄プロダクション」の社長も務めている。

 西川会長が次に結婚したのが五月みどりであり、生まれた子供が西川哲氏。つまり西川兄弟は異母兄弟ということになる。西川会長と五月は71年に離婚。西川哲氏は当時、3歳だったという。

 菊池にとっては義父だった西川会長が、どれほど“ドン”だったのかを今に伝える記事が2つある。それぞれご紹介しよう。

 最初は日刊スポーツが93年5月に報じた「92年度 高額納税者番付発表 新栄プロ・西川社長、土地売却で52億円」の記事だ。実のところ見出しだけで内容が分かるわけだが、一応、本文も引用させていただく。

《芸能プロでは村田英雄(64)大月みやこ(47)などが所属する(株)新栄プロダクション会長の西川幸男氏(67)が、4億3224万円の納税額(推定年収8億7228万円)で全国52位にランキングされた。主な所得が土地の売却によるものとみられる》

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