【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(5)勝雄、陸軍幼年学校へ 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ

ライフ Foresight 2019年10月19日掲載

  • ブックマーク

〈或る冬の寒い日、私が雪に足をとられ乍ら小学校から帰ると、家の入り口に立派な一頭の馬がつながれていました。

 私は馬がこわくて家に入れず、まごまごしていると、何に驚いたのか、いきなり馬が飛び上がり、結んでいた綱が外れて走り出しました。

 私は驚いて大声を上げました。すると家の中から軍人が出てきて、あわてて逃げる馬を追いかけていきました〉

 この連載の主人公、波多江たまさん(青森県弘前市で今年6月、104歳で死去)は、7歳になって間もない1920(大正10)年の暮れか、翌21年初めの出来事だった――と、自らの記憶を掘り起こしたノートにつづった(勝雄の遺文や書簡、家族の手記などをまとめた自費出版本『邦刀遺文』=1991年=の下書きとしたノート類)。

 青森市相馬町の対馬嘉七さん、なみさん夫婦と長男勝雄=後の歩兵中尉、1936(昭和11)年の二・二六事件で蹶起し刑死=、長女タケ、次女たま、三女きみの一家(連載第4回参照)が暮らす粗末な家に、突然、馬でやって来た軍人。学校帰りのたまさんが家に駆け込むと、鉄瓶を吊るした囲炉裏の回りにたくさんの書類が散らばっていた。

 日露戦争(1903〜04年)に出征した嘉七さんの軍人手帳や射撃大会の優等証、戦功への勲七等青色桐葉章と功労金の証書、第三十一連隊長による部隊での善行証書、青森・岩手両県知事からの凱旋感謝状。嘉七さん、なみさんの故郷・田舎館村での戸籍、家系を証明する墨文字の文書類……。

 いぶかるたまさんに、なみさんは「勝雄が、知らないうちに仙台の(陸軍)幼年学校に受験願書を出したのだそうだ。軍から、うちの先祖代々からの身元調査に来た」と懸命に話した。

〈母は寝耳に水で余計にびっくりし、大変に困った顔をしていた〉

 幼年学校は陸軍の将来を担う将士官候補の養成学校。普通学制の中学校に相当する13〜15歳を対象に3学年の全寮制だった。語学や文理科目、武道や体育、軍事の学問や訓練などを修め、卒業生は陸軍士官学校(予科・本科)に進んだ。寝食を共にする生活で「軍人勅諭」に始まる皇軍精神をたたき込まれ、陸軍指導層も輩出するエリート教育機関であった。

 たまさんは、家族を驚かせてまで幼年学校受験を1人決めた勝雄の行動について、こう回想した。

〈それまで兄は張り切って、憧れた(旧制)青森中学に通っていました。でも、学費が大分掛かっていることに気づき、苦しい家計との板挟みで悩んだに違いありません。親に負担とならないで早く出世できる道はないかと考えたようで、誰にも相談せずに仙台の幼年学校に願書を出してしまったのです〉

 当時なら、親孝行の美談と世間では呼ばれたのか。少なくとも、両親と妹たちの暮らしを助けたい、という勝雄の至情からの結論であったのだろう。

「その時、兄はわずか13歳でしたよ」

 生前のたまさんから聴かされた、この一言の余白はあまりに重かった。

独断の受験と合格通知

〈ソノ昔余青森ニテ朝早ク雪道踏ンデ警察署ノ講堂ガ試験場二与エラレタル為一里許歩キタリシコト、ソノ入口二『将校生徒試験場』トカカレアリシコト、胸二踊ルヲ覚エシコト……〉

 勝雄自身が受験生だった日を振り返る言葉が、仙台幼年学校3年生の時の日記=1924(大正13)年11月25日、『邦刀遺文』所収=にある。

 青森大火による一家の被災、貧困への転落という不運がなければ、秀才で努力家の勝雄は青森中学からきっと旧制青森高校へと、全く別の人生を歩んだのではないか。いまでは詮の無い想像とはいえ、両親の嘉七さん、なみさんは運命や因果を思い、悔やんだのではなかったか。やはり予期せぬ二・二六事件で息子を刑死させることになる15年後にも、恐らく再び。夢見た進学、未来の職業を諦めざるを得なかった若者が東北に大勢生まれた、東日本大震災を経験した筆者にはそう思えてならない。

『白雲悠々』

 陸軍衛戍刑務所で銃殺刑となる直前の勝雄の遺墨を、たまさんが多くの遺品を寄贈した陸上自衛隊弘前駐屯地の旧第八師団資料展示施設で見た。爽やかなほど潔い、真っすぐに伸びる筆跡は、勝雄の人となりそのものと思えた。

『かくなればかくなるものと知り乍ら やむにやまれぬ大和だましい』

 という一首も最後の遺文にある。安政の大獄で死を前にした松蔭の至言である。

 日記の「胸二踊ルヲ覚エシ」という明るさにも、もはや後ろを振り返らない覚悟がにじむ。やがて東北の貧しい農村、農民たちの苦境を我が事と背負って蹶起する、28歳の対馬勝雄中尉への軌跡が、そこから真っすぐ続いているように見えてくる。

〈陸軍幼年學校多数入学志願者中より成績優秀ヲ認メテ君二入學許可ノ命ヲ發セラレタルヲ祝ス

 凡ソ国家二盡ス道ヤ多シト雖モ献身以テ奉公ノ誠ヲ効ス軍人ノ如ク高潔ナルハアラス而シテ将来帝国軍人ノ消長ハ君ノ奮発二待ツモノ洵二多シ

 入校ハ陽春四月二迫レリ十分ノ摂養ヲ加ヘ英気ヲ以テ校庭二見エラレンコトヲ期ス〉

 児島惣次郎陸軍教育総監部本部長の名で、大人の軍人扱いのような厳めしい合格通知が届いたのは翌1922(大正11)年2月。中学1年生からの合格は珍しく、青森県内で最年少だったという俊英ぶりに、新聞が快挙と書き立てた。それからの相馬町での“騒動”が、たまさんの記憶のノートにこうある。

〈(両親の郷里)田舎館村の親戚は勿論の事、兄を可愛がってくれた(相馬駿)町会長や隣近所の人々や(両親が働く)魚問屋、蒲鉾屋さん迄もお祝いに来てくれました。両親は、こうなっては後に引けなくなってしまいました。心ばかりのお祝膳を作り皆をおもてなししました。この時の両親の心中は複雑だったと思います〉

「相馬町の星」になった勝雄

 勝雄には、合格して初めて知る大きな勘違いがあった。幼年学校に納める学費である。全官費(無償)なのは軍人の遺族の子だけで、現役・予備役の軍人の子は半官費(半額)、対馬家のような一般家庭の子は全額負担が決まりだった。その上、身元保証となる一定の財産がなくては入学ができなかったという。

 孝行を念じた子ども心の苦境を救ったのは、地元の相馬町や両親の馴染みの人々だった。嘉七さんに付き添われて仙台へ旅立つ勝雄に、たくさんの餞別の袋が贈られ、計81円(消費者物価指数の比較では現在の約10万円以上)もの大金になった。

〈財産などない両親は困って、町会長の相馬さんに相談に行きました。兄の将来に大きな望みを掛けていた町会長は、自分の子どものように思って、財産の一部を名義変更してまで貸してくれました〉

 と、たまさんも忘れがたい感謝の思いを記憶のノートに記した。

 これほどの人の恩を受けた嘉七さん、なみさんは、それまで以上に身を粉にして働いた。11歳だった姉のタケさんは、小学校から帰った後、相馬町にある竹輪工場でアルバイトをさせてもらえることになった。竹輪工場の主人はタケさんをかわいがり、対馬家の事情を慮ってか、大人並みのお金をくれた。

 勝雄は、相馬町の星にも太陽にもなった。仙台幼年学校への合格から、相馬老ばかりでなく、町内の大人も子どもも勝雄を誇りに思い、日ごろ義侠心の厚い嘉七さん、働き者のなみさんへの一層の信用、信頼となって還った。なみさんは「勝雄のためなら」と、どんな苦労もいとわず、知り合いの呉服店も古着を商って歩く仕事を世話してくれた。

 大きな風呂敷包みを背負って津軽の田舎を巡り、くたくたに疲れても、翌朝は朝日とともに起きて家中をピカピカに磨き、また商いに出掛けていった。勝雄の母として自らを高め、娘たちをよい将来に導こうとするようにもなった。

母も一念発起する

〈幼年学校に行った兄からは、よく手紙が来るようになりました。そして、英語には一番苦労している、と書いてありました。兄は、必ず外語が必要になるから、お前達(たまさんら3人の妹)も外語を習うとよい、とすゝめてくれました〉

 そんな勝雄の言葉に、なみさんはまた一念発起した。農村では比較的裕福な家に育ちながら、ほとんど字が書けなかったという。「女に学問はいらない。家をしっかり守ればよい」という封建的なしつけのためだった(字を読めない大人は当時の農村で珍しくなかった)。

〈でも母は、小学生の私達から字を習い、鉛筆をなめなめ勉強しました。字が書けないけれども、とても頭がよくて、裁縫等、私達三人でも判らない事もけろりとして教えてくれました。(字を習う)其のねばりと熱心さと忍耐力の強さには脱帽でした〉

 嘉七さんはどうだったか。たまさんのノートはこう伝える。

 ある日、ぼろ着をまとって働いているところに役所の職員が来て帳面を差し出し、「名前、書けるかな。ちょっと書いてくれ」と見下し馬鹿にした口調で言った。嘉七さんは家の硯箱を持ってこさせ、墨をたっぷり含ませた筆でさらさらと署名した。達筆だった。役人は「なんだ、書家だでば」と、びっくりして帰った。

 たまさんは家に居合わせ、普段は酒飲みの父を胸のすく思いで見直した。幼年学校に合格した「あの英才の家だ」と評判も広まったことだろう。しかし、嘉七さんの教育方針は「封建的で、私達を家にしばりつけようとしました」といい、変わらず無口で頑固な明治の男だった。

 なみさんはそんな夫とぶつかることも恐れず、対照的な考えを堂々と娘たちに説いた。

〈母は開放的で時代を先取りするようなところがあり、『女といえども家にこもる事なく、これからはどんどん世に出て、手に職をつけて自立しなさい』と、よく云われました〉

〈(結婚して)いきなり貧乏をいやと云うほど味わされた母の体験から生まれ出た結論だったと思います。『娘は、酒を飲む人にはやらない』と絶えず云うようになりました〉

初めての夏休み、帰郷

 仙台幼年学校で初めての夏休み。帰省した勝雄は黒い制服に儀礼用の短い剣、真っ白な手袋を身に着け、見違えるような姿で、家の前まで来るとにっこり笑って最敬礼をした。まわりを、わいわいと近所の子どもたちが囲んでいた。その輪に、8歳になったたまさんもいた。

〈母はこの姿を見て、どんなに誇らしく、うれしかった事でしょう。今迄の苦労も飛んでしまったような明るい笑顔で出迎えました〉

 勝雄はすぐ、町会長の相馬老ら世話になった人々への挨拶に行った。狭いバラックの家には近所の大人たちが集まって、嘉七さんと「お祝いだ」とにぎやかに酒盛りを始めた。夜になると中学校時代の同級生たちも遊びに来て、囲炉裏端で寝込むまで語り合った。

〈二、三日して落ち着くと、兄は自分の少年団の子ども達(連載第4回参照)を集め、留守中の事や町内の噂話や各家庭の事を聞いて、慰めたり、励ましたりしました〉

 と、たまさんは回想している。

 勝雄が結成した相馬町の「少年団」のメンバーに、戦後、株式会社「青森マツダ自動車」を創業した柳谷与三郎さん(故人)がいる。前述の『邦刀遺文』にこんな一文を寄せた。

〈勝雄とは四つ違い(の年少)さ。勝雄をガキ大将にしてよく遊んだものさ。仲間は十何人かいたな。相馬町というのは隣近所みんな親戚づきあいで、お互いのカマドのこともみんなわかっていたからな〉

 柳谷さんの家は漁師で、陸奥湾の手漕ぎ船の漁で暮らせず、発動機を買って外洋に出ようという人の借金の保証人に兄がなり、その話が失敗。家はカマドケシ(破産)になった。

〈勝雄を大将に遊んだといってもワルサはしなかった。兵隊ごっこをよくしたが本読みもした。勝雄がフランス国歌を教えたりしてさ。そう、ラ・マルセーユ。今でも歌えるよ。そうだなあ。勝雄が青モル中学にいたときよりも幼年学校時代、春、夏休みに一番よく遊んだし、モノも教えてもらった気がするなあ〉

 相馬町の町会百周年記念誌『相馬町百年の歩み』=1991(平成3)年=でも、ある年配男性の昔話が“勝雄の伝説”として語られている。

〈対馬嘉七さんの息子に勝雄という秀才がいた。仙台の陸軍幼年学校から休みで帰ると、男の子供たちを集めて、観音堂付近の草原の丘をめがけて突撃させられたものだ。俺もお前も木の棒をもたされて走った。終わると二列縦隊で軍歌もどきに精一杯、声を張り上げて還ったものだ〉

 その「軍歌もどき」はこのような詞だった。勝雄が意気揚々と少年団のために作った歌であろう。戦場の指揮官を志した幼年学校生にとっては、もう子どもの遊びではなかったのかもしれない。

〈東の岳の山嵐 朝まだ早き相馬町 観音堂の戦場に 戦う我等少年団 野辺をかすめて銃(つつ)の音 忽(たちま)ち起る鬨(とき)の声〉

突飛で不可思議な行動

 たまさんは、勝雄の初めての夏休みの鮮烈な出来事として、まるで映画か芝居のような突飛で不可思議な行動を、記憶のノートで語っている。

 少年団の仲間から何を耳にしたのか、突然、嘉七さんからぼろの仕事着を借りて、縄を帯にし、顔には鍋の底のすすを塗り、薄汚れた手ぬぐいを被り、仏壇から鉦を取って外に出ていった。何の扮装なのか、何が始まるのか、と少年団のメンバーは訳も分からぬまま、ぞろぞろと勝雄の後についていった。たまさんも興味津々だった。

〈兄はある老夫婦の住んでいる家の前につくと、鉦をちーんと一つたたき、何やらぶつぶつと云って、顔が見えないように頭をさげていました。どう見てもこれは、おもらいさんのさまでした。どうなる事かと見ていますと、奥の方から、しわくちゃな、腰の曲がったおばあさんが出てきて『かわいそうに』と云って、一銭か二銭くれました。兄はおじぎをして、それをもらい、家に帰りました〉

 少年団がクスクス笑いながら、また家までついていくと、勝雄は素早く服を着替え、顔を洗って、メンバーを集めた。そして、少し厳かな調子でこう言ったという。

〈みんなはあの老夫婦を、けちんぼとか、汚いとか、いろいろ悪口を云っていたが、けちんぼでもないし汚くもない、心のやさしい人達だった事が判ったろう。陰口や悪口を云う人があっても、自分の目で見、自分で確かめ、又聞きで人を悪く云ってはいけない〉

〈私も、なるほどと思ってますと、兄は身なりをととのえて、また老夫婦の所へ行き、深く頭を下げてあやまり、お金を返しました。どう云って返したのかは判りませんでしたが、おばあさんは笑っていたようでした〉

斬れない刀は無意味

 仙台幼年学校の卒業生の集い「仙幼会」が戦後にまとめた同窓会誌『山紫に水清き 仙台陸軍幼年学校史』(松下芳男編、1973年)に、在校当時の勝雄についての評がある。

〈またこの期(筆者注・第26期)に、二・二六事件に関与して死刑になった対馬勝雄がいる。かれは在校中その奇抜な茶目振りによって、同期生中随一の人気者であり、絶えず同寝室の者を笑わせていたものであった。中でも幹部、教官の物真似の巧みさにいたっては、まさに天下一品と称すべきものであった〉

 父嘉七さん譲りと思える、不正義や人の困窮に目をつぶれぬ正義感。母なみさんから受け継いだように見える明るさと優しさ、温かさ。そして、傍目には突飛にも危うくも映る、純粋過ぎる思考と真っすぐな行動力が、それからの勝雄の生き方となっていく。『山紫に水清く』の勝雄評には、天真爛漫な人気者の姿とは違う、不吉な未来の暗示とさえ感じられるエピソードが続く。

〈一年生の夏休みが終り、帰校したかれは、(正装で身に着ける儀礼用の)短剣を研ぎ、刃をつけてきた。検査でそれが発見され、直ぐ刃を潰され、叱責を受けた。刀は斬るためにあるので、切れない刀は無意味である、というのが、かれの主張であった〉

 幼年学校の生徒は「将校生徒」とも呼ばれ、その自意識も日々の教育ではぐくまれた。「斬れない刀は無意味」という勝雄の余りに迫真で狂気めいた行動と言葉には、胸に軍人の魂を宿し始めた者の怒り、「幼年」と思えぬほど鋭い政治的比喩が込められていた――と筆者には響く。

 勝雄が仙台幼年学校に入った1922年は、第1次世界大戦後の軍拡制限を米国、英国、日本などが参加したワシントン軍縮条約の成立の年だった。この世界史上初の軍縮会議には、大国間の止めどない建艦競争が悲惨な大戦の原因になった、との反省が国際世論に広まった背景がある。

 開催を呼び掛けたのは、疲弊した欧州に代わり、戦勝国として世界の新秩序づくりのリーダーに躍り出た米国だった。同じ戦勝国だった日本も、広大な旧ドイツ領南洋諸島を手に入れた(ヴェルサイユ条約による信託統治)。太平洋を挟んで対峙する米国の国内には、将来の日米戦への危惧が芽生えたという。「日本の大海軍国への急伸長を抑えよう」という深慮遠謀も、会議提唱の有力な理由の1つだったとされる。

 3カ月に及ぶ軍縮交渉の結果、海軍の主力艦は米国5:英国5:日本3の比率で制限されることに決まった。日本の孤立化回避と協調を第一に立ち回った加藤友三郎首席全権代表ら政府の姿勢に、当の海軍は怒り、野党、新聞は「対米弱腰外交」と批判を繰り広げ、大正デモクラシー時代の平和を楽しんだ国民の世論も風向きを変えてゆく。

 陸軍もまた軍縮の余波で、明治以来初めての軍備費削減に甘んじることになる。軍人の間に「斬れない刀」と化す現状、軍の存在意義への危機感は広がっていった。

 勝雄を歴史の奔流に巻き込んでゆく「昭和」は、すぐそこまで来ている。(この項つづく)

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/