医師が目指すべき「自立」した「プロフェッショナル」 医療崩壊(27)

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 夏休みが終わった。毎年、夏休みには私が理事長を務める「医療ガバナンス研究所」に大勢の若者がインターンにやってくる。その中には高校生もいる。多くは医学部志望である。

 今年は3名の高校生がやってきた。いずれも神戸市の灘高校1年生だった。私は1987年に灘高を卒業しているから、35年後輩にあたる。生徒の母親が、私の友人と高校の同級生というご縁で紹介していただいた。予想通りだが、この3名も医学部への進学を希望していた。

 灘高は医学部に進学する生徒が多いことで知られている。今春の入試では104名が医学部に合格した。うち京都大学に26人、東京大学に20人で、共に日本一だ。

 灘高は1学年220人だから、卒業生の半数が医学部に進むことになる。この状況は異様だ。教員の中にも苦々しく思っている人が少なくない。

「現場からの逃走」

 灘高元教頭の倉石寛氏は辛辣だ。私どもが主催する『現場からの医療改革推進協議会シンポジウム』に登壇し、優秀な人材がバカになる例として「昔、陸軍参謀本部、いま東大理3」と揶揄したこともある。

 灘高は1960~70年代にかけて躍進した。1968年に日比谷高校を抜いて、初めて東京大学合格者が日本一になると、70年代は7回トップを占めた。東京以外の高校が日本一になったのは後にも先にも、この頃の灘高だけだ。

 倉石先生は1946年生まれ。長野高校から東京大学に進み、学生時代は学生運動の闘士として知られた存在だった。その後、灘高に日本史の教師として就職する。当時の雰囲気を知る最後の世代だ。

 倉石先生は「灘の生徒は変わった」と言う。多くの生徒が裕福な家庭に育ち、幼少時から塾に通う。ITを使いこなし、良識やマナーをネットで学ぶ。生徒は上品になった。悪いことをしたり、学校を批判する生徒は少なくなった。昼間から学校で酒を飲んでいた、中島らものような生徒はいなくなった。

 中島らもは1952年に、尼崎市で歯科医の次男として生を受ける。1965年に灘中に入学したが、入試の成績は全合格者中8位だったという。入学後、「親や教師に言われるままの勉強ロボット」になっていたことに気づき、独自路線に進む。その学生時代を知るには『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』(PHP研究所)がお勧めだ。灘高に限らないだろうが、この手の生徒はいなくなった。

 最近の生徒と接していて、倉石先生が気になるのは、自己本位の学生が多いことだ。「生活保護を貰うなら働けばいい」、「沖縄の何が問題なの」と発言する生徒が珍しくない。

 勿論彼らも、生活保護も沖縄戦も、制度や歴史は、抽象的な概念としては理解している。問題は「その先に、生きる人々をイメージできないこと。物心つくまでに、そうした人々と出会ったことがないのが原因」(倉石先生)だろう。

 このような生徒は、自分の力でここまできたと考え、親も自分の子は賢いと思っている。

 このような親子は、何でもスマートにやりたがる。「再生エネルギーをやりたいが、原発には関わりたくない」など、問題の本質を知るために現場で経験しようとは考えない。彼らの憧れはコンサルタントだそうだ。倉石先生は、彼らの行動様式を新フロイト派のエーリヒ・フロムの代表作『自由からの逃走』になぞらえ、「現場からの逃走」と評する。

 このあたり、医療行政や医療政策、公衆衛生が好きな学生が増えてきた医学部とも酷似する。現場で泥臭く働くことに抵抗感を抱くようだ。

医師は本来「プロフェッショナル」

 なぜ、こうなってしまったのだろうか。倉石先生は、「医学部が頂点に君臨する受験が日本をダメにした」と言う。

 幼少時から画一的な受験勉強を続け、自分の頭で考えなくなった。「好きなことをやればいい」という親は減り、昆虫が大好きで、図鑑を貪り読むような生徒はいなくなった。学校から学問が消え、受験勉強が残った。幼稚になった日本人は、この状況に疑問を感じていない。倉石先生は、優秀な若者が医学部に進むことに反対する。

 倉石先生の意見は正鵠を射ている。私は1点を除き、賛成する。賛成できないのは、医学部受験を勧めないことだ。

 私は、このような状況だからこそ、優秀な若者は医学部に進めばいいと思う。

 なぜ、私が医学部進学を勧めるのだろうか。それは、医師が古典的な意味での「プロフェッショナル」だからだ。どこで、どれだけ働くかを自分で決めることができる。患者さえいれば、国境も定年もない。

 では、「プロフェッショナル」とはなんだろう。その語源は“profess”で、「pro =前」で「fess = 話す」ことだ。

 これは中世の欧州で、医者・法律家・聖職者が養成機関を卒業し、その職に就く前に神に対して「自らの専門的な技能を用いて、社会(医師の場合は患者)のためにベストを尽くす」と宣誓することに由来する。

 いずれの職種も高度で専門的な技能を要し、一般人とは「情報の非対称」が存在する。このような状況下では、専門家が素人を欺くことは容易だ。「プロフェッショナル」には「全ての知識を患者のために用いる」という自己規律が求められた。米国の多くの医学校では、臨床実習を始める前の白衣授与式で「ヒポクラテスの誓い」が読まれる。

 これが古典的な意味での「プロフェッショナル」だが、20世紀に入り、多くの職業が「プロ」と呼ばれるようになった。プロ野球選手、プロダンサーなど、顧客から金をとる仕事をする人が、アマチュアと対比する意味で語られることが増えた。

 さらに近年は「プロ経営者」や「営業のプロ」など、複数の会社を渡り歩き、もっぱら1つの職種をこなす人のことを言うようになった。本稿で使う意味とは異なる。

マッキンゼーの場合

 では、古典的な意味での「プロフェッショナル」は、現代になってどう発展したのだろうか。ご紹介したいのがマービン・バウワー(1903~2003)という人物だ。世界的なコンサルティング会社「マッキンゼー・アンド・カンパニー」の中興の祖と呼ばれている。

「マッキンゼー・アンド・カンパニー」は、1926年にシカゴ大学の会計学教授だったジェームズ・マッキンゼー(1889~1937)が立ち上げた会社だ。マッキンゼーは1937年に48歳で亡くなるが、その後、同社を発展させたのが、1933年に入社した弁護士出身のバウワーだった。彼は60年以上にわたってマッキンゼーを率い、大企業の戦略策定に比重を置く、現在のスタイルを確立した。

 この際、彼が留意したのは、「プロフェッショナル」としてのコンサルタントだ。バウワーが主張する「プロフェッショナル」の条件は、医師や弁護士と同様に、コンサルタントも「専門的知識や技能」を有し、顧客のために働くことだ。その際、報酬は顧客から貰う。情報の非対称があるため、自己規律が必要となる。

「マッキンゼー・アンド・カンパニー」はパートナー制を採用している。同社は、独立した対等なパートナーから構成される。弁護士事務所も同じような組織形態だ。「プロフェッショナル」に適合した働き方なのだろう。

「ニュルンベルク」がつきつけた「責任」

 では、医師の場合はどうだろうか。私は多くの医師、特に勤務医や研究医の働き方は「プロフェッショナル」とは呼べないと考えている。報酬や研究費を病院や国から貰うためだ。大学病院の場合なら、教授がトップに君臨する医局に所属し、人事は教授の言うがままだ。1つの病院や研究所・大学で働き、専従義務が課される。

 お金を払ってくれる人、人事権を持つ人に頭が上がらなくなるのは世の常だ。この条件で働くと、患者より上司や国の意向を尊重するようになる。いつのまにか、長いものに巻かれるのに慣れる。理不尽と思っても上の者には楯突かず、やり過ごす。やがて感覚が麻痺する。

 以前、東大病院血液腫瘍内科の医師が、患者に無断で、個人情報を製薬企業に送っていたことが露顕したが、これなど、その典型例だろう。

 世界の医師は、どうすれば「プロフェッショナル」たり得るか、議論を積み重ねてきた。苦い経験もした。

 有名なのは、1946年12月から翌年の8月にかけてドイツのバイエルン州ニュルンベルクで行われた「ニュルンベルク医師裁判」だ。罪に問われたのは、強制収容所での人体実験と約350万人のドイツ国民を対象とした強制不妊手術を行った23人の医師たちだ。

 被告たちは「上司に命令された。自分の責任ではない」と無実を主張したが、訴えは認められず、7人が絞首刑となった。

 この裁判では、政府からの命令で個人がとった行動の責任を問えるのかが議論されたが、最終的には医師の職業規範が優先され、極刑となった。医師は、たとえ組織人であろうと、自らがとった行為に個人的な責任を追及されたのだ。

 この裁判では、許容されうる医学実験の10のポイントをまとめた「ニュルンベルク綱領」が作成された。ポイントは、医学実験を行う時には患者の同意が必須であるということ。ナチスの蛮行に対する反省から生まれた考え方だ。

 当初、この綱領は英米の医師からは歓迎されなかった。ナチスの人体実験は「野蛮人の蛮行で、自分たちのような文明人とは無関係」と考える人が多かったからだ。戦勝国からはファシズムが吹き荒れたドイツや日本は見下されていたのだろう。

国家を超える職業規範

 ところが、先進国であるはずの米国でも人道にもとる人体実験が行われていたことが明らかになる。

 例えば1940年代、シカゴにあるステートヴィル刑務所で、マラリア治療薬の効果を調べるため、マラリアに感染した蚊に囚人の血を吸わせ感染させていた。この研究では少数だが死亡者も出た。

 当時、米国は日本と交戦中だった。マラリアが蔓延する東南アジアが戦場となった。マラリアの治療薬確保が至上命題だったが、特効薬であるキニーネの供給には限界があり、米軍は新薬の開発に力を注いだ。ペンタキンという新薬候補が見つかったのだが、国内にはマラリア患者はあまりいない。新薬開発を推し進めるため、マラリア患者を「製造」しなければならなかった。この研究は29年間も続けられ、441人がマラリアに感染させられた。

 米国の医師も国家の指示に従い、人体実験を行った。メディアも「被験者は説明を受けた上で、米国のために身を捧げた」と後押ししたのだった。

 20世紀は「戦争の世紀」だ。20世紀の戦争は軍人だけが行うのでなく、老若男女を問わず全ての国民が関わる国家総力戦となった。医師も国家の歯車だ。これはドイツや日本に限った話ではなかった。戦後、世界各国で行われた人体実験が次々と明らかになる。

 このような流れを受け、1964年6月に世界医師会は「ヘルシンキ宣言」を採択する。ポイントは、「もう人体実験は許されない。医学研究を行う場合には、被験者の尊厳、自己決定権を尊重せよ」ということだ。

 この宣言は法的拘束力のある国際法ではないが、医師の職業規範として、それより上位に位置する。こうやって、医師の世界では職業集団としての規範を確立していった。医師という職業集団が、国家の枠を超えて共通の価値基準を持つようになったのだ。

時代に逆行した日本の「暴走」

 一方、わが国の状況はお寒い限りだった。戦後の1948年には、旧優生保護法に基づき、遺伝性の精神疾患や身体疾患を有する人を対象に強制不妊手術が始まった。「ニュルンベルク綱領」など眼中になかったようだ。

 日本政府の「暴走」は止まらない。4年後には遺伝性疾患以外の精神障害や知的障害者にも対象を拡大した。1996年に母体保護法に改正・改称されるまでに、少なくとも1万6475人が施術を受けている。

 残念なことに、わが国でこの政策を推し進めたのは医師だ。中心となったのは谷口弥三郎(1883~1963)である。

 谷口は、私立熊本医学校(現熊本大学医学部)を卒業した産婦人科医だ。ドイツへの留学を経て、1915(大正4)年には母校の教授となる。1947(昭和22)年には第1回参議院議員選挙に出馬して当選。そして提案したのが優生保護法だ。

 戦前、谷口は国策である「産めよ、殖やせよ」に賛同し、熊本で婦人を中心とした人的資源調査を行なっていた。ところが、戦後は一転し、産児制限に繋がる優生保護政策を支持する。機を見るに敏な医師だったのだろう。

 谷口は参議院議員を務める傍ら、1950~52年まで日本医師会会長を務め、1953年には久留米大学の第2代学長に就任する。久留米大学には現在も谷口の銅像がある。

 谷口は職業的プロフェッショナルである医師というより、医学知識を有した政治家だ。このような人物をいまだに顕彰し続ける日本の医療界は未熟と言わざるを得ない。

 ちなみに優生保護法については、当時から批判も多く、日本を占領していたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は「医学的根拠が不明」と批判し、見直しを求めたことがわかっている。

 公衆衛生の名を借りた国家の犯罪は強制不妊政策に限らない。1996年にらい予防法が廃止されるまで、ハンセン病患者の強制隔離が続いた。

 強制不妊であろうがハンセン病患者差別であろうが、実際に手を下したのは医師だ。ニュルンベルグ裁判により、国家の暴走を止めるのは「プロフェッショナル」である医師の責任と認識されたにもかかわらずだ。

医師個人の「自立」を

 わが国で強制不妊やハンセン病患者差別に対して、政府の責任を追及する声はあるが、医師個人の責任が議論されることはない。また、この問題に医師が自ら取り組む気配もない。医学界や医師会も頬被りを決め込んでいる。

 本来、医師は患者を治療する「個人商店」だ。業務独占資格を有し、経済的にも容易に自立できる。このように医師が優遇されているのは、国家や権力者に媚びず、患者サイドに立って働くことを社会が求めているからだろう。

 ところが、強制不妊手術から東大病院血液・腫瘍内科の患者情報漏洩まで、医師の職業規範にもとる行為は枚挙に暇がない。露顕したのは氷山の一角だろう。

 なぜ、こんなことになってしまうのだろうか。私は、医師個人が自立していないからだと考えている。

 大きな理由が、日本では医師の多くが勤務医で、大学の医局に所属することだ。勤務する病院は医局が決め、若い頃は数年ごとにローテーションする。派遣先の病院での雇用形態はサラリーマンと同じだ。これでは精神的にも経済的にも自立しない。自らの保身のために、上司の意向を忖度する。

「プロフェッショナル」である医師は「自立」した生き方ができる。医師・患者関係に国境はないため、グローバルに活動しやすい。高齢化が進む世界で、健康は大きな関心を集めている。国内外に医師を求めている人は多い。医師という仕事には大きなポテンシャルがある。

 ところが、わが国の医師の多くは未だに「白い巨塔」に閉じこもり、その能力を有効に活用出来ていない。そして、多くの若者は、このような先輩医師の姿をみて、進路を決める。

 21世紀の世界で必要とされるのはどのような医師なのか、誰も明快な答えはもっていない。現場で働き、地道に試行錯誤を繰り返すしかない。

 次回は、自立した医師を目指して試行錯誤する医師たちを紹介したい。医学部を目指す高校生や、その父兄に是非、読んでもらいたい。

上昌広
特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長。
1968年生まれ、兵庫県出身。東京大学医学部医学科を卒業し、同大学大学院医学系研究科修了。東京都立駒込病院血液内科医員、虎の門病院血液科医員、国立がんセンター中央病院薬物療法部医員として造血器悪性腫瘍の臨床研究に従事し、2016年3月まで東京大学医科学研究所特任教授を務める。内科医(専門は血液・腫瘍内科学)。2005年10月より東京大学医科学研究所先端医療社会コミュニケーションシステムを主宰し、医療ガバナンスを研究している。医療関係者など約5万人が購読するメールマガジン「MRIC(医療ガバナンス学会)」の編集長も務め、積極的な情報発信を行っている。『復興は現場から動き出す 』(東洋経済新報社)、『日本の医療 崩壊を招いた構造と再生への提言 』(蕗書房 )、『日本の医療格差は9倍 医師不足の真実』(光文社新書)、『医療詐欺 「先端医療」と「新薬」は、まず疑うのが正しい』(講談社+α新書)、『病院は東京から破綻する 医師が「ゼロ」になる日 』(朝日新聞出版)など著書多数。

Foresight 2019年9月9日掲載

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