ジャニー喜多川「子どもたちへの深い愛情が原動力だった」関係者証言集

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 男性アイドルグループというジャンルが今日の隆盛を見たのは、偏(ひとえ)にジャニー喜多川氏(享年87)の功績であろう。だが、当然ながら、それほどの快挙が綺麗ごとだけで成し遂げられるはずはない。彼を知る人々の肉声から、光と影を併せ持つ稀代のショーマンの人生に迫る。

〈Johnny Kitagawa:

Japanese boy band mogul dies at 87〉

 世界各国のメディアが、日本を代表するエンターテイナーの訃報を伝えるなか、英・BBCはこうしたタイトルの記事を配信した。

「mogul」を和訳すれば大立者、重要人物、大御所となる。ギネスブックに「チャート1位を獲得した歌手を最も多くプロデュースした人物」と認定され、日本の芸能界に「帝国」を築き上げたジャニー喜多川氏は、まさにその言葉を体現する存在だった。

 12日に執り行われた「家族葬」には数多くの「子どもたち」が参列し、亡き「父」を悼んでいる。その一方、

「あの人はどこまでもプロデューサーだった。それもプロ中のプロの、ね」

 そう語るのは元フォーリーブスの江木俊夫氏である。

 1967年に江木氏や故・北公次氏ら4人で結成されたアイドルグループは「帝国」の黎明期を支えた。

 当時のジャニー氏について江木氏が述懐する。

「俺は3歳から子役をしていたんだけど、中学生の頃、ドラマの稽古場になぜかジャニーさんが顔を出した。そこで“ユー、なんて言うの?”“江木俊夫です”という簡単なやり取りがあって、“今度、遊びにおいで”と言われたんだ」

 それは、あおい輝彦らを擁する、事務所初のグループ「ジャニーズ」が解散したタイミングだった。

「ジャニーさんは、歌って踊れるアイドルグループを作ってアメリカのようなエンターテインメントを生み出したいと考えていた。当時は日本の芸能界には目もくれず、俺たちを連れて年に2、3回は本場アメリカに飛んでね。ロスやラスベガスの高級ホテルでプレスリーやトム・ジョーンズのショーを見せてくれた。とはいえ、その頃の事務所はジャニーさんとメリーさんの他に事務作業をする女性が2人いるだけだった」

 ジャニー氏は自らクライスラーを運転し、テレビ局や劇場にメンバーを送った。トランクには4人の衣裳が詰め込まれていた。

「日劇ウェスタンカーニバルに出演した時も機材車なんてないからさ。ジャニーさんは俺たちを劇場に送った後、事務所にトンボ返りしてアンプを積み込んで戻ってきた。それをみんなで汗を流しながら搬入する。デビューからの4年間はメリーさんの手縫いの衣裳を着ていたし、すべてが文字通りの手作業だったね」

 稀代のショーマンの伝説はここから始まったのだ。

 それからまもなく、フォーリーブスは国民的人気グループへと登りつめる。

「デビュー当初は実家に住んでいたけど、『夜のヒットスタジオ』に出演するようになると仕事が終わるのはきまって深夜。ジャニーさんに送ってもらって翌日の早朝に集合するのでは時間がもったいない。それで“合宿所”が始まったんです」

 とはいえ、遊び盛りの若者にはそんな生活が窮屈に感じられたようで、

「合宿所は夜になるとカギを閉められるから、夜遊びした時は風呂場の窓から忍び込んだ。俺が新宿で飲んでいたなんて話がジャニーさんの耳に入ったら“トシ坊、昨日の夜どこにいた?”と問い詰められる。それも絶対に他のメンバーのいる前でね。怒鳴ったりはせずに、グループのなかで孤立させて懲らしめるんだ。親から子どもを預かっているという思いがあったんだろうけど、俺はよく見せしめにされたね」

 少年に対する独特の審美眼を持つ彼が男性アイドル界の名伯楽だったことは誰もが認めるところ。だが、今回の訃報に際して、芸能マスコミの報道は綺麗なエピソードに終始し、煌(きら)びやかな栄光にのみスポットライトを当てた。どこか違和感を覚えた方も少なくないのではあるまいか。

 ゲーテは〈光が強ければ影もまた濃い〉と説いたが、一代で「帝国」を築いた天才を語る上でも、その両面を取り上げることが必要であろう。

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