「トランプ」「毛沢東」が「夢の共演」を果した「広東オペラ」の荒唐無稽

国際Foresight 2019年5月13日掲載

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 4月12日、香港で粤劇(えつげき=広東オペラ)の新作『粤劇特朗普』が上演された。千秋楽の15日にはイギリスの『BBC』、アメリカの『CNN』、さらにロシアの通信社などの外国メディアが取材に訪れている。粤劇を研究する友人は、「劇場ロビーには『全院満座(満員御礼)』の札が下がり、粤劇公演では珍しい若者や外国人が客席に多く見られた」と伝えてくれた。

 もちろん、タイトルの「特朗普」は「トランプ」の漢字音訳。主役はドナルド・トランプ米大統領である。

 2014年の秋から初冬にかけて民主化を求めて香港の街頭を占拠した「雨傘革命」以来、政治から芸術まで、北京の中央政府による締め付けは強まるばかり。一強独裁体制の習近平政権による強権政治はとどまるところを知らない。1997年の香港返還時に中国政府が内外に向けて約束した「一国両制」の下での「高度な自治」などすでに有名無実である――こう民主派が強く訴える香港で、粤劇の舞台の上に描き出される絵空事の世界とは言うものの、トランプ大統領にどのような役回りを演じさせようというのか。

『粤劇特朗普』の物語は愛憎半ばする米中関係を主旋律に、文革を遠景に配し、虚と実、空想と史実を微妙に織り交ぜながら展開される。

双子の弟が中国に……

 幕が開くや、トランプ大統領の愛娘イバンカが舞台に現れる。彼女が手にする英語版『毛沢東語録』は、ホワイトハウスに置かれた父親の荷物の中に紛れ込んでいた。ソファーにもたれ、父親の『毛語録』に目を落とす彼女は、いつしか夢の世界に誘われて行く。

 ――夢の舞台は1972年。米中間のピンポン外交をキッカケに両国関係は一気に雪解けに向かった。

 毛沢東の招きで訪中するリチャード・ニクソン米大統領一行に、26歳の若き実業家のトランプが加わっていた。トランプ青年は盛大な歓迎宴において、周恩来に対して「中国には娼妓(ネーチャン)はいるのか」などといった不躾で率直な“それらしい質問”をぶつける一方、中国で行方不明になったままの「川普」に再会したいと強く訴える。中国のどこかに、トランプ大統領が幼い頃に生き別れになったうり二つの双子の弟が住んでいるらしい。

 トランプ青年が探し求めていた川普は、文革最大の犠牲者である劉少奇が怨みを残して死んだ開封の、しかも火葬場で働いていたのだ。彼は自らの半生については何もわからないが、恋人の蓓麗から「愛国病」と揶揄されるほどに「祖国」である中国に忠誠を示す。

 ある日、火葬場で劉衛黄という人物の処理を担当する。実はこれは紅衛兵の指導者である仇大富に虐待の限りを尽くされた劉少奇の変わり果てた姿だった。劉衛黄は劉少奇の幼名で、実際に彼の遺骨はこの名前で火葬場の納骨堂に保管されていた。川普と蓓麗を前に、瀕死の劉少奇は死を前にした心境を綴った絶命書を託す。蓓麗は秘密亡命ルートによってアメリカへ逃れるが、川普は中国に残り、劉少奇の冤罪が晴れるまで彼の遺灰を守ることを誓う。

「金正恩」に「宇宙船」まで登場

 ここで舞台は、なぜか2018年のホワイトハウスに転ずる。

 トランプ大統領に招かれ、李雪主夫人を伴いホワイトハウスに乗り込んだ北朝鮮の金正恩委員長は、スイス留学時に慣れ親しんだチーズフォンデューを作り大統領に振る舞う。李雪主夫人が亡霊に出くわしたことで、アメリカ十大化け物屋敷の1つとされるホワイトハウスの秘密が明かされる。

 イバンカの助力で渡米した川普は蓓麗との再会を果たすが、認知症を患っている彼女には目の前に立つ昔の恋人が判らない。そこへイバンカに伴われて老中国人が登場する。彼はテレビでトランプ大統領を目にする毎に絶叫を繰り返す。一方の手に『毛語録』を、残る一方に懺悔の数珠を握ったこの奇妙な老人こそ、劉少奇を死に追いやった仇大富の老いさらばえた姿だった。

 劉少奇の怨霊に責め苛まれ狂ってしまった仇大富に遇ったことで、川普は無念の死を迎えざるを得なかった多くの犠牲者に思いを寄せながら文革を振り返る。そんな川普に向かって、イバンカはホワイトハウスにとどまる亡霊――任期半ばでホワイトハウスを去らざるをえなかった元大統領の霊魂を鎮めてくれと依頼する。

 川普は兄に代わって熾烈な米中貿易交渉に取り組む。タフ・ネゴシエーターを装うものの、文革犠牲者を慰める人生を送ってきた心優しい川普には荷が重すぎた。だが怨みを残して死んでいった文革犠牲者に向かって開封の火葬場で呼びかけた「諸行無常。諦めてくれ」の思いが、米中貿易戦争という大難題を解きほぐすのであった。

 やがてホワイトハウスの上空に現れた宇宙船に乗って、トランプ大統領は金星に向かう。

「乱」と「妄」としか言いようはない

 これが『粤劇特朗普』の粗筋だが、トランプ大統領の双子の弟が文革期の中国で熱烈な「愛国主義者」として生きたという設定は、バラク・オバマ前米大統領の異母弟が中国人女性と結婚し、深圳に在住していることを知って思いついたそうだ。

 20世紀中国を代表する古代史家の顧頡剛は『ある歴史家の生い立ち 古史辨自序』(平岡武夫訳 岩波文庫 1987年)で伝統劇の構成を分析し、「作者が自分の気もちを満足させるために、物語を自分の感情が予期する経過と結果とに符合するよう」に作り上げる、とした。物語における「危険と幸運とは、人の想像次第でどのようにもなる」と指摘する。たしかにそうだろう。

 だが毛沢東、周恩来、江青、張春橋、劉少奇、金正恩、李雪主、ニクソン、トランプ、イバンカはまだしも、エイブラハム・リンカーンまでを登場させただけでなく、川普を前にリンカーンが平和の尊さを教え諭し、毛沢東とニクソンが2人だけで秘密裡の卓球試合で雌雄を決したという荒唐無稽なシーンまで挿入するのだから、『粤劇特朗普』のストーリー展開は「乱(むちゃくちゃ)」と「妄(でたらめ)」としか言いようはない。

 じつは台湾や東南アジアの一部華字紙で、トランプは「川普」と表記する。この点からして、「特朗普」の弟を敢えて「川普」と表記する背景には、大陸、台湾、あるいは東南アジアと住む地域は異なるものの、共に漢字文化圏に住む人々は「自己人(なかま)」だという思いが込められているのではないか。

 紅衛兵指導者の仇大富という名前にしても、文革初期に登場し紅衛兵のライジングスターと持て囃された蒯大富に重なり合う。同時に「大いなる富者に対する仇」とも読めるだけに、香港のみならず中国でも見られる、拡大する一方の社会的格差に対する「仇富」の感情――富者に対する貧しき者の怨嗟と復仇の念――を想像させるに十分だ。こう見てくると、仇大富の3文字には文革から現在へと続く中国現代史に対する悔悟の念が滲んでいるようにも受け取れる。

作者は元経済誌記者の風水師

 この『粤劇特朗普』の作者は、中国系の経済誌記者から風水師に転じた李居明である。

 コカ・コーラの顧問に就任した2000年を機に、同社が低迷を脱しV字回復を果したことから、風水師としての評価を一気に高めた。そこで金運に縋ろうとする多くの中国企業家も彼の許に馳せ参ずるようになり、折からの中国の都市開発ブームとも相俟って莫大な富を手にする。これが彼のサクセス・ストーリーのカラクリらしい。

『粤劇特朗普』が上演された新光戯院大劇場は、1972年に中国政府系資本で建設された香港最大の粤劇常打ち劇場である。1997年の香港返還の際には、中国の代表的京劇役者を網羅して返還祝賀のための京劇の連続公演が行われたほどに、中国政府の“御用達劇場”として知られていた。一時、粤劇が衰退して経営不振に陥り、閉鎖の危機に見舞われたが、2012年に李居明が資本を注入し、2022年までの長期で賃借したことから息を吹き返した。

 香港粤劇の最有力パトロンとして振る舞い、粤劇を「本土文化の精華」と捉え、「香港において『本土文化』を滅ばせてはならない」と説く李居明は、専門家の一部からは素人脚本家と見られながらも数多くの新作を創作し、豊かな資金を背景に同劇場を拠点にして次々に華々しい興行を打ち、粤劇界のみならず香港社会に話題を提供してきた。

 2016年には「毛澤東之虛雲三夢(1)」と銘打って『粤劇毛澤東』を上演している。今回の『粤劇特朗普』が「毛澤東之虛雲三夢(2)」であり、すでに「毛澤東之虛雲三夢(3)」として『特朗普夢會毛澤東』が構想されているとのことだ。

 なぜ、ここまで李居明は毛沢東にこだわるのか。習近平国家主席、あるいは中央政府に対する「拍馬屁(ゴマすり)」の声も香港では絶えないが、そんな背景を持つ李居明の芝居のために、過激な反中論調で知られる『蘋果日報』が見開き両面(冒頭写真)を提供するのだから、やはり不思議としか言いようはない。

 たとえるなら、日本共産党機関紙『しんぶん赤旗』が見開き2頁大の安倍晋三首相礼賛本広告を掲載するようなもの。やはり日本的常識では考えられないはずだ。

『粤劇特朗普』の公演終了後、現地メディアから「作者が望んでいたように若者の観客も少なくなかった」「和を以て貴しというメッセージが舞台から伝わる」など前向きな評価も聞かれた。また「やはり天安門事件の犠牲者の冤罪を雪ぐことが至難であるように劉少奇の名誉回復は容易くない」との声も伝わってくる。その一方で、「相変わらずバカバカしい限り」「粤劇復興をカネ儲けに結びつけるな」「いつまで共産党政権にゴマすりを続ける心算か」などの酷評もあった。

 李居明に対する毀誉褒貶は尽きそうにない。だが彼の活動によって衰退一途であった香港の粤劇が息を吹き返しつつあることだけは認めざるをえない。

香港のアイデンティティー

 返還以来すでに20年を過ぎた香港では、返還前後に話題になった「中国人か。香港人か」などといった単純な二項対立を超え、自らの認同(アイデンティティー)をめぐる複雑極まりない議論が見られる。

 たとえば「香港文化の本土化」という命題にしても、李居明のように「本土」の2文字に広東色を色濃く滲ませる考えもあれば、それとは反対に広東との関係を絶ち切り香港こそが「本土」であり、香港独自の文化を追求するといった動きもある。

 この考えを過激化して香港独立を唱える勢力もあるが、水から食糧までライフライン全般を中国に頼っている以上、掛け声だけは勇ましいが、香港独立など不可能というものだ。

「共産党の官僚語」でしかない中国語による教育は、「香港文化の蔑視」を意味する。香港や広東を中心に東南アジアやアメリカの華人社会を合わせるなら1億人ほどが話す粤語こそ香港と運命共同体の関係にあり、粤語が中国語との戦いに敗れたなら「香港文化は滅亡する」と、教育をテコに中国本土との一体化を目指す中央政府・香港特区政府への強い抵抗も見られる。

 粤語教育を掲げることは広東との結びつきを一層深めることに繋がり、その先に位置する中央政府に引き寄せられてしまうようにも思える。中央政府が基盤とする北京中心の北方文化に対抗し、南方文化を掲げ粤語圏の独自性を打ち出そうという狙いを理解できないわけではない。

 だが、そういった考えは、中央政府が掲げる「粤港澳大湾区構想」(珠江デルタに位置する広東、香港、マカオを結びつけた新たな巨大経済圏を目指す構想)に重なり、経済面でも現在以上に中央政府の掣肘を受けてしまうはずだ。

 返還以降、広がるばかりの貧富の差に苦しむ一方、その原因を中国人――具体的には中国からの旅行者や移住者――に求め、彼らに対する不快感を露わにする動きも見られる。香港では中国を「内地」と呼ぶことから、こういった「排内主義」は他国・地域で見られる「排外主義」に通じ、世界各地に災禍をもたらす「民族浄化」を引き起こしかねないとの批判も聞かれる。

香港の渾沌状況を象徴している

 こう見てくると、荒唐無稽と形容するに相応しい筋運びの『粤劇特朗普』は、舞台の上の絵空事の世界を飛び越え、現在の香港が置かれた「乱」と「妄」とが綯い交ぜになった渾沌状況を象徴しているようだ。

 そこに1842年の南京条約でイギリスの植民地に組み込まれて以降、2度の世界大戦、中華人民共和国の成立、1997年の返還を経て現在まで、自らの運命を自らで定めることができなかった香港の人々の悲哀が隠されているようにも感じられる。

 だが、あるいは悲哀などと言う感傷は余りにも日本的に過ぎるかも知れない。『粤劇特朗普』には、「支配されながら支配する」という彼らの“生きるためのしたたかな戦略”が秘められているのではなかろうか。

 こう考えればこそ、次回作とされる「毛澤東之虛雲三夢(3)」の『特朗普夢會毛澤東』への興味は募るばかりだ。

<追記:「仇大富」について>

 コラムニストの沈旭輝は『亞洲週刊』(2019年4月28日)で「粤劇特朗普」を論じているが、「仇大富」と綴る。一方、プログラムには「仇大虎」とある。あるいは李居明は、富(Fu)と寅(Hu)は音が近いことを承知の上で、観客が「大富」と受け取ろうが、「大虎」と聞こうが、どちらでもいいような仕掛けを考えているのかもしれない。つまり「富」なら香港と中国に共通する超格差社会を、虎なら「トラもハエも一網打尽」を掲げる習近平政権の反腐敗運動を連想させる。「大富」であれ「大虎」であれ、「仇」を討つことで庶民が留飲を下げる、という仕掛けである。

樋泉克夫
愛知県立大学名誉教授。1947年生れ。香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士課程を経て、外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(83―85年、88―92年)。98年から愛知県立大学教授を務め、2011年から2017年4月まで愛知大学教授。『「死体」が語る中国文化』(新潮選書)のほか、華僑・華人論、京劇史に関する著書・論文多数。