韓国で展示される朝鮮総督府を見よ 日本統治時代の遺物をゴミ扱いするヘンな発想

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一方“大清皇帝功徳碑”は…

 むろん半島統治の中心となったのが朝鮮総督府であり、朝鮮総督に前身の韓国統監も含めれば、総理大臣経験者(もしくはのちに就任)が伊藤博文を始め5人も任命されている。それだけ日本国家が朝鮮統治に意を用いていたということがいえるだろう。

 帝国日本のこうした朝鮮重視を可視化したのが、総督府の庁舎だった。最初に設計にあたったのが、風見鶏の館(神戸市北野)で知られるドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデであり、大理石がふんだんに用いられて建設された。総督府だけではない。京城と改められたこの街を近代都市とすべく、交通の中心には塚本靖によって京城駅が、そして東京駅や奈良ホテルも手掛けた辰野金吾によって朝鮮銀行が建てられている。前者はソウル駅旧駅舎として、後者は韓国の中央銀行である韓国銀行の貨幣博物館として残されており、辛うじて往時を偲ぶことができる。

 だが、朝鮮近代化を象徴する建築だった旧総督府は、1995年に金泳三大統領によって無残に解体されてしまった。日本の朝鮮統治が終わりを告げたのちも、政府庁舎や国立中央博物館として使われていたが、金泳三による反日の餌食となってしまったのだ。解体には反対論も強かったが、竹島に初めて接岸施設を作るなど日本を標的にして世論を煽った金泳三にとって総督府撤去は、またとない人気取り策だっただろう。

 一方で辰野金吾の弟子である長野宇平治が手掛けた台湾総督府は、いまでも現役の中華民国総統府として利用されている 。赤い煉瓦と白い花崗岩のコントラストが印象的で、内部の見学も可能だ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎しとばかりに歴史的価値のある総督府を爆破してしまう韓国と、日本との関係を大切に思ってくれる台湾の違いが、ここに端的に表れているだろう。

 同じ日に訪れたのが、蚕室(チャムシル)のロッテワールドから程近くに位置する大清皇帝功徳碑だ。そこまでするかという反日の現場を見たあとだっただけに、2つのギャップが一段と際立って感じられた。こちらは清皇帝への服従を示すことから「恥辱碑」ともいわれるが、四阿(あずまや)風に覆ってあり、夜にはライトアップもされている。

 朝鮮王朝の始祖である李成桂は、明から冊封(さくほう)を受けた。それが正統性を獲得するための唯一の手立てだったからだ。明への服属の証が、朝鮮という国号そのものを賜ったことであり、朝鮮半島北部の独裁国家は今でも自らそれを用いている。

 豊臣秀吉の朝鮮征伐に対して、朝鮮に援軍を送って財政難となったこともあり、明は衰退。北方で勃興したのが、女真族の後金(のちの清)だった。二代目の太宗ホンタイジは、中国本土だけでなく朝鮮半島にも狙いを定め、兵を進めた。内陸アジアの大地で鍛え抜かれた強者たちの前にほとんどなすすべもなく、朝鮮国王・仁祖は清に服属した。

 清と朝鮮との君臣関係を“見える化”するために三田渡(さんでんと)で行われたのが、三跪九叩頭の礼だった。清皇帝に対して国王自らが地面に額を打ち付けるという場面は、この上もなく恥辱にまみれているといえよう。文化的価値を顧みずに旧総督府を平気で潰してしまう人達なら、はるかに簡単に壊せる屈辱的な碑など直ちに撤去しそうなものだが、未だに残されている。情緒が剥き出しになる日本への反応と比較すると、とても奇妙だ。

 結局のところ、中国大陸の勢力に媚び諂うことに抵抗はないが、日本に対しては半狂乱で居丈高に振る舞ってしまうというのが、彼の国の人達の性なのだろう。中国を中心とした秩序に、いま急速に吸い寄せられつつ、日韓関係が最悪の状況にあるというのは、別々の現象ではないし、深く深く歴史に根差した方向性だということが、韓国の2つの歴史スポットから導かれる結論ではなかろうか。

村上政俊(むらかみ・まさとし)
1983年大阪市生まれ。東京大学法学部卒。外務省に入り、国際情報統括官組織、在中国、在英国大使館外交官補を経て、12年から14年まで衆議院議員。現在は同志社大学、皇學館大学で講師を務める。

週刊新潮WEB取材班

2019年4月15日掲載

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