飯舘村「オオカミ信仰」の里で始まった「人と人の交流」の地域再生(下)

ビジネスForesight 2019年3月11日掲載

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 東京電力福島第1原子力発電所事故から、今日、3月11日で、丸8年となる。

 東京からの支援者として福島県飯舘村佐須の人々に出合い、この日を、住民の1人として迎えた人がいる。

 明日の見えぬ避難生活の中で「帰還、帰農」を決意した農家の訴えに共鳴し、仲間となって8年間、放射線禍の克服に挑んできた。「核」の世界との数奇な運命を背負う科学の人と、開拓者精神を受け継ぐ農家との協働の絆が今、オオカミ信仰の山里再生に新しい可能性を開こうとしている――。

原発事故が変えた運命

 オオカミ信仰の里、飯舘村佐須の山津見神社氏子総代、菅野永徳さん(80)の家の隣に、新しい薄茶色の木造住宅ができた。家主は田尾陽一さん(77)。完成した昨年7月から、佐須の新住民として暮らし始めた。

 東京電力福島第1原子力発電所事故による住民避難指示が解除された翌日の2017年4月1日、自宅がある東京から村に住民票を移したが、地元との関わりは、原発事故から3カ月後の2011年6月にさかのぼる。首都圏を中心に、定年世代の元サラリーマンや主婦、現役・OBの研究者、医師ら多様な仲間と共に支援NPO「ふくしま再生の会」を結成し、佐須を拠点に村の人々と協働して環境、生業、生活基盤の再生に挑んできた。

 東京大理学部で高エネルギー物理学(素粒子などの研究)を専攻し、博士課程にいた1968~69年に大学紛争が起きた。東京大学全学共闘会議、大学院全学闘争連合の創設メンバーとなって安田講堂の攻防戦、安保反対闘争、その後の裁判闘争の事務局運営に参加した。大学院中退後は、学習塾経営、岩手県田野畑村との交流活動や長野県鬼無里村(現・長野市)の自然キャンプ開設、パソコン雑誌『RAM』編集長、「セコム」の情報戦略を担うCIO(最高情報責任者)兼CISO(最高情報セキュリティ責任者)を務め、団地の高齢者支援システムづくりなどを手掛けてきた。ヒマラヤやデナリに挑んだ登山家でもある。それだけで波乱万丈の半生といえるが、さらなる大転機が原発事故だった。

 初めて佐須を訪れたのは2011年6月6日。大学院時代などの仲間20人と集って原発事故を議論し、「戦後に人生を歩んだ人間の価値観や知識が根底から問われる事態だ」という意見が一致して、田尾さんら3人が世話人になって「とにかく現地に行ってみなくては」と行動を起こした。

 常磐道を下って、いわき市から南相馬市、相馬市を経て飯舘村佐須に入り、地元の農家で当時、村農業委員会の会長だった菅野宗夫さん(68)の話を聴いた。

 原発事故後、村には福島県が委託した放射線リスク管理アドバイザーの医学者が相次いで訪れ、不安がる住民に「外ではマスクを着用し、外出後は手を洗うなど基本的な事項さえ守れば、医学的に見て村内で生活することに支障がない」「注意事項を守れば健康に害なく村で生活していけます」などと講演した(同年3月30日『広報いいたてお知らせ版』より)。

 伊達市に避難中の宗夫さんは、自宅で田尾さんらを前に、憤りをにじませて語った。「村は安全であると信じ、私たちは南相馬市、浪江町などの避難者を約1500人も受け入れていた。ところが、4月11日になって政府は突然、村の放射線量が高い、と計画的避難(全村避難)指示の方針を発表した。それまでに、県や村の調査で村内の土壌の放射性物質濃度も、放射線量も、安全な基準を超えていることが分かっていた。学者たちは何の説明もせず、安全か危険か、信頼の物差しは失われた。国も頼りにならない。地域がどうなっているのか、まず自ら測り、自ら調べ、知恵を集めて暮らしと生業を再生する活動をしていくほかない」

 その話し合いから、住民と支援者が協働して継続的な「調査・交流・実験・行動」を行うNPO「ふくしま再生の会」が旗揚げした。活動の拠点として、宗夫さんが佐須の自宅を開放。「現地で課題を発見し、必要なプロジェクトを考え、『この指止まれ』方式で取り組む」という現場主義を掲げ、多彩な経験を持ったボランティアと放射線、土壌、農業工学、医療などの専門家、大学生らが加わり、毎週末、さまざまな道具、機材を持って佐須に集合した。

現場から除染法を模索

「ふくしま再生の会」を筆者が知ったのは2011年9月のこと。当時、参加者は70人に増え、車に線量計を積んでの放射線量分布マップ作り、水系への放射性物質流入の調査、家屋の汚染洗浄や山林除染の実験、作物ごとの放射性物質吸収の違いを調べる試験などに取り組んでいた。

 最優先課題の除染で、国は重機をフル投入して農地の汚染土壌をはぎ取るモデル除染を村内で進めていた。

 一方で宗夫さんと田尾さん、仲間に加わった土壌物理学の専門家、溝口勝東京大教授(大学院農学生命科学研究科)らが目指したのは、自然条件を生かし、ばく大なコストを掛けず、住民が実践できる方法の開発だった。

 その1つが、零下10度以下になる冬の水田の「凍土はぎ取り」だ。2012年1月初め、宗夫さんの自宅前の凍った水田で実験が行われた。小型のショベルカーで、もなかの皮のように凍った土が簡単にはがれ、表土から5センチの深さまで密集しているという放射性セシウムを一気に除去した。仮説通りの成功だった。

 さらにユニークな実験は、2012年4月の雨の中で行われた。男性メンバーたちが除草の道具である田車を並べ、水田の端から押し進んだ。土と水が攪拌されて泥水が広がる。後からテニスコート・ブラシの一隊が続き、その泥水を押し出す。水田の反対の端に排水口が開けられ、どっと流出していく。泥水は、一時保管の貯水池とした隣の水田に流れ込んだ。「われわれは、田車式除染法と名付けた」と、田尾さんは語った。「表土近くの放射性セシウムを、この方法では、攪拌して巻き上げた泥水ごと外に押し流す」。地元の言葉で「手間暇掛けて」を意味する「までい工法」と後に改名された。

 自走式の除草機に主役を替えたり、泥水を深い溝に貯水して水を干上がらせて埋めたり、アイデアを発展させて実験は重ねられた。宗夫さんは手応えを語った。「2011年は『怒りの1年』だったが、これからは『行動の1年』だ。やれることをどんどん探りたい」

 その後の水田では、稲の試験作付けが行われた。除染実験の成果や、放射性物質の稲への影響を比較検証する狙いだった。村での稲作は「自粛」とされていたが、宗夫さん、田尾さんは農林水産省に掛け合い、「現場のトライ・アンド・エラーであらゆる除染の手立てを試み、効果を確かめる実験を重ねなければならない。チャンスを1年遅らせれば、農業再生や帰還の時期も遅れる」と訴え、同省の研究機関・農研機構との研究協定に基づく実験と認められた。

 2012年6月の田植えには、会のメンバーやボランティアら50人余りが首都圏から参加した。宗夫さんは原発事故前のようにお神酒を田に注いで豊作を祈願し、山形県の農家から提供された苗は、昔ながらに手植えされた。田の神とともに皆で食べて飲み、祝う風習の「さなぶり」も復活した。これを喜んだ宗夫さんの父、当時89歳の次男さんは「はるか彼方は相馬の空かよ 相馬恋しや懐かしや」と望郷の『新相馬節』を聞かせ、参加者の喝采を呼んだ。

 その秋に収穫された稲は、連携する東大農学部職員らのグループによって詳しく分析され、筆者は次のような報告を2013年1月31日の『河北新報』に書いた。〈田尾さんは「土壌から植物にセシウムが移行する量の係数は10%といわれたが、結果は0.2〜0.3%だった。田車方式の除染効果は確か。手法を改善しながら今春、線量の異なる地域でも実験できるよう、また提案したい」と話している。菅野さんは「国が行う生活圏除染だけでなく、住民の生業再生こそが帰村への本来の条件だ。実験の結果を、希望と受け止めたい」と語った〉

世代を超えた農民の思い

 宗夫さんは2018年春に佐須の行政区長に選ばれた。古い自宅を改築し、妻千恵子さん(67)と念願の帰還をかなえ、地域づくりの活動を再開した。だが、それに先立つ昨年9月29日、父の次男さんを95歳で亡くした。「あれほど帰りたがった家に住まわせたかった」と無念がった。

 次男さんが若かった当時の東北は貧しく、尋常小学校のころ、生家を出て山津見神社の宮司家で1年を過ごし、佐須の篤農家の養子になった。戦争で朝鮮・羅南に出征し、フィリピンに転戦する途中に輸送船団を攻撃され、九死に一生を得て台湾で終戦を迎えた。戦後は佐須で払い下げの林野を開拓、「農地を増やし、耕す半生だった」と宗夫さん。

「村の原発事故被害を深く憂えていた。新聞を必ず読み、『戦争よりひどいな、先が見えず、終わりがない』と言っていた。しかし、宗夫さん・千恵子さん・お子さん・お孫さんたちを激励して、前向きに生きようとしていた」

「毎年の田植えと稲刈りは、放射能に汚れた田んぼの除染と土壌や稲の放射能測定という私たちの試みを持続させる厳しい目的とともに、稲作の伝統を体験する楽しいものでもあった。その主役はいつも次男おじいちゃんであった」(『ふくしま再生の会』のフェイスブックに田尾さんが寄せた次男さんの追悼文より)

 宗夫さんは経営を次男さんから継いで、新しい農業を志して1972年、山津見神社総代の菅野永徳さん(『飯舘村「オオカミ信仰」の里で始まった「人と人の交流」の地域再生』(上)2019年3月4日参照)、現村長の菅野典雄さんらと「飯舘酪農青年研究同志会」を結成した。

「高冷地の飯舘村は昔から冷害常襲地で農耕馬の産地。中でも佐須は土地が細長くて傾斜地が多く、農地が少なかった。もともと牛も身近な家畜。食生活の洋風化で乳製品の需要が増え、牛のたい肥を循環させて農地も肥やせる。経営安定への希望があった」。最盛期に乳牛30頭を飼った会長の宗夫さんら、佐須では8戸の農家が仲間になって共同防除にも取り組み、「若い農業者グループ活動コンクール」の内閣総理大臣賞に選ばれた。次男さんの代の開拓者農業協同組合から受け継ぐ「結(ゆい)の精神の助け合いで地域づくりをしてきた」

 原発事故が起きる前は水田約3ヘクタールとハウスの野菜栽培、和牛11頭を飼っての繁殖を営み、集落営農のまとめ役だった。

 田の縁の木々の葉に、モリアオガエルの泡のような卵が揺れる、豊かな環境でコメを育て、天日干しで自然乾燥させた。しかし全村避難を境に、地元の農家は離散した。宗夫さんは当時、村農業委員会の会長でもあり、生業を続けたい農家の避難先の役所を訪ねては「農地をあっせんしてほしい」と頼んで歩いた。

 自らも避難生活1年目から宮城県丸森町で、一緒に避難した近所の農家、阿部勝男さん(70)と水田50アールを借りた。水も環境も佐須に似た山里で、天日干しの手間暇掛けたコメ作りを今も続ける。「1人の農家として、田んぼと切り離された生活は考えられない。辛抱も苦労も仲間と一緒なら半分になる」と、丸森町での取材で語った。

 次男さんも避難先で毎日5000歩の運動を欠かさず、毎年春の稲作試験の田植えでは伝統の蓑も着て、見事な手植えの手本を見せた。原発事故で汚染され、被災地となった村の農地は先人たちの血と汗によって生まれた。再生への思いは世代を超えたものだった。

「不死鳥の如く」

 昨年暮れ、佐須の宗夫さんの家で取材を終えた時、「これ、持っていってよ」と渡されたものがある。720ミリリットル瓶に墨文字で『純米 不死鳥の如く』とかかれた日本酒だ。

 ラベルの写真には見慣れた景色があった。いつも相馬市方面から国道115号を折れて峠を越え、飯舘村で最初に出合う佐須の里の雪景色だ。山津見神社のご本殿が鎮座する虎捕山も見える。

 この酒が初めてお目に掛かる銘柄なのは当然のことだった。「ここの田んぼで獲れたコメを原料にして、世に出たばかり」と言う。原発事故から再起しようとする村の人々の願いを込め、売り出そうとしている。

「ふくしま再生の会」との協働で、宗夫さんが水田除染や稲作試験に挑んだことを紹介した。その効果を示したのが2014年秋だった。収穫した玄米を地元の「JAそうま」(福島県指定検査機関)に持ち込み、放射性物質の有無の検査を受けた結果、「不検出」(測定限界値25ベクレル/キロ)となった。村では農地除染完了まで農業を再開できないため、あくまで試験サンプルだが、「科学的な知恵を集め、継続的にチャレンジして得られた成果だ。村の農業再生は可能であると証明できた」と喜んだ。試験栽培のコメは以後も毎年秋、「不検出」の結果を重ねた。

「最初の稲作試験の分析結果から、除染後の水田から玄米に放射性物質はほとんど移行しないという事実が分かった。糠(ぬか)を削った白米から、酒造りもいけるのではないか、という発想だった」。こう語るのは溝口勝さん。同僚の研究者たちと「東京大学福島復興農業工学会議」を立ち上げ、専門の知見を生かした農業再生の実験や実用機材の開発を担ってきた。

 佐須発の酒造り計画は2017年に始まった。福島県が奨励する酒米品種「夢の香」を試験栽培に加え、秋の収穫後、喜多方市の老舗「大和川酒造」に醸造を委託した。500本の酒が生まれ、村内の道の駅や再開した商店で販売された。「舌の奥までぴりっと染みる、今までにない辛口の自信作」と溝口さん。『不死鳥の如く』の命名者でもある。もともと母校東大の野球部の試合で攻撃のチャンスが巡ると、応援席で演奏される曲の名だ。「その年の夏、応援部の主将らを佐須の公民館に招き、住民激励の演武を披露してもらった縁もあった」

 宗夫さんらは、避難指示解除を経て稲の本格栽培を始めた昨年、「夢の香」の栽培面積を前年の3倍の40アールに拡大した。タブレットを使って遠隔地からも水管理の操作ができる、溝口さん考案の装置を活用して育てた。「天候にも恵まれて豊作だった。品質がいい」と言う。この4月には新酒2000本を見込む。「不死鳥の如く。われわれの気持ちだよ」

「交流の里」に託す未来

 田尾さんは今、新居のすぐ近くでログハウス風の新しい施設が日々、姿を現していくのを眺めている。自宅を建築した福島県南会津町の「芳賀沼製作」(芳賀沼伸社長)が、飯舘特有の凍りつくような風が吹く1月に着工した。

 現場に運ばれた部材は厚さ10.5センチ、幅18センチ、長さ4メートルほどの均一な角材。彫られた溝を組み合わせる独特の工法で、宿泊棟を備えた交流の家が3月下旬には完成する予定だ。建築材料はすべて、二本松市にあった避難者の仮設住宅を分解した部材。木の優れた断熱性、耐久性に加え建築が容易な利点を生かし、各地で再利用されている。佐須では、地域の未来が託された施設になる。

「避難中に自宅を解体し、佐須を離れて暮らす住民が一時帰郷の折に泊まれる、古里の家だ。帰還した仲間とのお茶飲み、おしゃべりの井戸端空間にもなる。隣には、木造の大きな共同浴場も建てるんだ」。にぎわいを想像するように田尾さんは語る。計画、運営するのは、行政区長の宗夫さんが会長、永徳さんが顧問、田尾さんが事務局長を務める「佐須行政区活性化協議会」。いまだ住民の帰還が少なく(村民の帰還率は2月現在で17.6%)、農業の回復も進まぬ地域を「交流の里」づくりで再興しようと、国の事業を活用してプランを立てた。宗夫さんは「佐須に戻った人、戻らない人を孤立させず、結の作業も維持し、高齢者にも生きがいをつくる。古里を思う気持ちを1つにまとめ、誰もが幸せになれる地域づくりだ。難題だが、取り組まなくては」と決意する。

「ふくしま再生の会」は会員約300人の認定NPO法人に成長し、田尾さんは理事長としての活動も忙しい。その間、支援者として宗夫さんらと重ねた協働は信頼の絆になり、ついには家を建てて住民の1人となった。「無論、自分は当事者でなかったが、同志になった人々が奮闘する現場で共に生きたい、と思うのは自然なことではないか」と言う。

 横浜で生まれ、戦争中、祖父母がいる広島県安芸郡坂町に疎開。4歳だった1945年8月6日に、隣の広島市を焼いた原子爆弾のキノコ雲を目撃し、ひどい火傷を負った被爆者たちが運ばれてくるのをまぶたに焼き付けた。

 原発事故が起きた時、「記憶がフラッシュバックした」と語り、高エネルギー加速器物理学の研究に携わった東大時代を挟んで、放射線や原子力との人生の因縁を重ねた。「原爆の惨禍、“原子力ムラ”の人材養成をした大学、福島の生活と生業を壊した原発事故も、いまだ責任者が責任を取っていない。それらを支えてきた社会と意識を変えなくては解決にならない」と考えてきた。

 象徴的な出来事が、原発事故後の2011年4月にあった。米国の大学にいた先輩の要請で久々に訪ねた東大工学部。未曽有の大事故を扱う原子力関係の集会や討論会があるわけでもなく静まり返り、学生に理由を問うても「いえ、自分は関係ありません」「知りません」の言葉が返る、当事者なき世界だった。その現実に衝撃を受けたという。

「多くの無理解、無関心が飯舘の村民を傷つけているのだ。だからここでは、どんな来訪者も取材者も拒まず、忙しくても時間を割いて村を案内し、現場の事実を説明する。それが、ふくしま再生の会にとっても大事な活動になった」

「交流の里」づくりでも、村外の客を呼ぶ農家民宿と農業体験、四季折々の村内ツアーを構想する。山津見神社の氏子総代である永徳さんが願う、伝統の例大祭の復活(『飯舘村「オオカミ信仰」の里で始まった「人と人の交流」の地域再生』(上)2019年3月4日参照)も目指す。屋台が並び、氏子たちが泊まり込んで遠来の参拝者をもてなしたという名物の「茶屋」のにぎわいを、「新しい交流の目玉として復活させたい」と田尾さんは語る。全国のどこにもない地元の宝、天井絵のオオカミたちも出番を待っている。

 

寺島英弥
ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。