「渡辺喜美」述懐! 「橋下徹」が「安倍新党」を夢想した日

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 平成の政治史を語る上で「第三極」という言葉を外すことはできないだろう。その最たる存在は日本維新の会を率いた橋下徹前大阪市長(49)だ。時は維新結党前夜。当時の二大政党に割って入るため、彼がトップに据えようとしたのは、後の総理その人だったのである。

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 2010年(平成22年)4月、当時、大阪府知事の橋下氏は地域政党・大阪維新の会を設立。翌年に「大阪都構想」実現を旗標に大阪市長に当選すると、国政進出への期待が高まった。

「当時の維新人気はとてつもないものでしたよ」

 と振り返るのは、渡辺喜美参院議員(66)。自身の8億円借金問題から辞任・解党を余儀なくされたものの、かつて代表を務めていたみんなの党は、同じく第三極政党として一世を風靡した。

「12年春、橋下・松井(大阪府知事)コンビと赤坂で一席を設けたことがあってね、マスコミがパパラッチのように大挙して押し寄せて大変でした。その頃、彼らは“維新を国政政党にしたい”と話していて、“我々は国会議員ではないので、そのトップに就かせたい議員がいる”と。それが他ならぬ安倍晋三さんだと言う。“お願いしても、良い返事をいただけない。渡辺さんが口説いてくれませんか”と懇願されたのです」

 当時、下野していた自民党は9月に総裁選を控えていたが、安倍氏はまだ政権投げ出しの印象が強く、復活は難しいと見られていた。

「そこで、まず菅(現官房長官)さんと横浜のホテルでお会いしまして、ケーキと紅茶をいただきながら“維新が国会議員の顔になる人を探している。安倍さん、やってみないか”と聞くと、“実は総裁選に出馬して復活を果たしたいと思っている”と断られてしまった。六本木のバーの個室で安倍さんにも話したのだけど、菅さんと同じ返事。強い決意を感じました」

 結局、目論見は実現せず、国政政党の代表には橋下氏自身が就任する。

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