「依存」することはそんなに悪いことですか? 高次脳機能障害ライターからお願いしたいこと

ライフ 2019年1月13日掲載

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 41歳で脳梗塞に倒れ、高次脳機能障害(以下高次脳)を負ったライターの鈴木大介さんは、ルポライターとして取材活動ができなくなったばかりでなく、日常生活の些細なこともおぼつかなくなった。

 回復までの長く険しい道のりは『脳が壊れた』(新潮新書)、『されど愛しきお妻様 「大人の発達障害」の妻と「脳が壊れた」僕の18年間』(講談社)、『脳は回復する 高次脳機能障害からの脱出』(新潮新書)の「脳こわ3部作」でユーモアを交えて綴られ、多くの人に勇気と気づきを与えている。今回は、鈴木さんを救った「あるもの」について、特別寄稿していただいた。

見た目は五体満足だけど……

 脳梗塞を起こして高次脳の当事者となったことで、「依存的」という言葉に対する印象が180度変わった。

 病前にやれていた「極めて当たり前のこと」が、当たり前にやれなくなる障害が高次脳だが、失意と絶望と混乱の中で僕を救ってくれたのが「依存」だったからだ。

 高次脳では、本当に自分でも信じられないようなことがやれなくなる。たとえば当事者になった僕は、「外出先で普通に目的地に辿り着く」ということですら、度々失敗した。身体に自立歩行できないような強い麻痺があったわけではなく、見た目は五体満足にもかかわらずだ。

 その理由は、視覚や聴覚や嗅覚など、あらゆる脳に入力される情報の「総量」が過多になると、もれなく襲ってくるパニックのせいだった。

 例えば鬼門なのが、デパートの1階入り口付近だった。化粧品や宝飾品のコーナーが集中しているこのエリアは、ひときわ照明も明るく、大量の商品がキラキラ輝いている。これに加えて店内アナウンスや呼び出し音、人のざわめきに、行き交う人の動き……。

 これら全ては脳にとっては情報であり、一気に入り込んできたその情報量に、僕の壊れた脳はあっけなく破綻を来し、パニックを起こした。

 それはもう、悪夢の世界だ。それまで聞いていた人の声が、突如として「意味を持つ声」ではなく単なる音としてしか聞き取れなくなる。目に入る文字の意味が分からなくなる。いま自分が何をしようとして、どこに向かっていたのかすら分からなくなる。

「世界の意味を読み取れなくなった」僕の息は詰まり、高所に渡された細い板の上にポンと放置されたように足が竦み、もはやその場で目を閉じて立ちすくむか、座り込むしかない。

 けれどそんな時、不思議な経験があった。

 パニックで座り込んでしまった僕の背中に妻が手を当ててくれて、僕の手を握って引いてくれるだけで、なぜか再び歩き出せるようになったのだ。意味を失っていた世界が一気に現実に戻る。単なる音だった言葉が意味を取り戻し、いま何時でここがどこで、自分がどこに向かっていたのかを取り戻す。それはそれは、不思議で感動的な体験だった。

 そして、妻の手にそんな劇的な効力があることを知った僕は、どこに行くにも妻の同伴を求め、手をつないで歩くことを求めるようになった。苦手な人と話さねばならない時も、複雑な作業をこなさなければならない時も、傍らに妻がいることで、不可能に思われた一歩を踏み出すことができた。

 その様を言葉にするなら、間違いなく「依存的」だったろう。

 けれど、そんな経験をした立場から、問いたいことがある。「依存的」って、そんなにも悪いことだろうか。当事者は、当たり前のことが全然やれないという失敗を重ね、失意と不安の中にいる。けれども、ちょっとした支えがあったり、隣に信じられる人がいるだけで、驚くほど一気に「やれることが増える」のだ。別に自分のやることを全部代わりにやってくれとお願いしているわけじゃない。そばにいて、ほんのちょっと手を添えてくれるだけでいいのだ。

 病前は僕も、依存的という言葉にあまりいい印象は持っていなかったが、当事者となった後は、耐え難い悪夢の世界から引き出してくれるその手を求めることを、否定できなくなった。

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