【五木寛之×中瀬ゆかり対談】人生のピンチからの生還法

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思い出をまさぐる

中瀬 デビューまで話が飛びましたが、小説家になる前は、大学を“横に出て”、高度成長期に作詞家としてヒットを飛ばし、サバイバーズギルトに押しつぶされて、うつ状態になられた。

五木 CMソングが時代の先端をいく音楽と持て囃された時代でしたが、本当は日本に帰れなかった人々の魂を背負って、世間の片隅でひっそり生きていこうという気持ちがどこかにあり、仕事が嫌になったんです。

中瀬 五木青年は次第にうつっぽくなっていく。

五木 朝はトヨタのコマーシャルを書き夜は日産。資生堂、花王もやったし、CMソングの草分けと言いますか。活気はあっても非常に軽薄な暮らしでした。嫌悪感が自分の中にあって、次第にうつっぽくなってくるんですよ。

中瀬 売れっ子なのに全部投げ捨て海外へと行かれた。

五木 1度目はね。

中瀬 1回目のうつの時は、旧ソ連と北欧を旅されますが、なぜこの選択を?

五木 ロシア文学を専攻していたのもありますし、当時のソ連に謎めいた関心がありました。ついでに北欧も回ったので、その体験を活字にできればいいなと。

中瀬 66年に『さらばモスクワ愚連隊』で、小説現代新人賞を取るわけですよね。その翌年に『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞。この駆け上がり方はすごい。

五木 誰も信用してくれないし、冗談と思われるんだけど、その時の気持ちは嬉しいのが半分、半分はうっとうしかった。「また同じところに戻るのか」という気で。けれど、賞を貰った以上は責任がある。すごい重圧を感じて、正直まいったなと。

中瀬 69年から「青春の門」が始まりますが、72年に1回目の休筆。これはなぜ?

五木 やっぱり最初の時と同じ、心療内科に行かないといけない気分になってね。「小説現代」編集長の三木章さんに「流行作家っていうのは、しばらく休んで戻ってきたって椅子はないよ」と言われた。僕は「新人賞にまた出しますから」って答えましたが、本気だった。

中瀬 ここで五木寛之のキャリアが終わっていたかもしれない。1回目の休業、どういう状態でしたか。

五木 まず眠れない。食事をあまりしたくない。仕事をしたくない、人に会いたくない、電話に出たくない。そういう感じがあらゆる場面で出てくる。体の状態もあまり良くなかったですし。

中瀬 その当時は、世間の理解もなかったのでは。

五木 当時は“充電期間”なんて言われたけど、僕にはそういう意識はなかった。「週刊朝日」の対談で、大橋巨泉さんと話をして休みますって言ったら、勝手にマスコミが「休筆」という言葉を作ったんですよ。

中瀬 74年まで2年間、そして81年に再び……。

五木 50歳の直前でした。北朝鮮から手を引いて帰ってきた弟が亡くなり、脱力感というか、ちょっとやっていけない雰囲気があって。

中瀬 五木さんは、人生は不条理に満ちている、と話をされていましたよね。今の時代も皆、辛いことがありますが、人はどうしたら立ち直って行けるんでしょう。

五木 うーん……。なかなか即効性があるものはないですね。自分が人生の晩年に差し掛かると、よく昔のことを考えたりします。思い出をまさぐるのは後ろ向きで、カウンターで水割り飲みながら「昔は良かった」って言っているように思われがちですけど、実際はそうではないですね。70年、80年生きたってことは、記憶がたくさん残っているってことでね。それを抱えたまま消えるのではなく、引き揚げってなんだったんだろう、戦争ってなんだったろうって繰り返し咀嚼し、牛がするように反芻する。これをやり始めると、案外いい結果が出てくるもんです。さらにそれを人に話せば、より正確に、細密にリアリティがハッキリしてくる。漠然と覚えていることが手に取るように細かく見えてくる。50回100回繰り返すうち、何かの鉱脈が自分の中にあることが分かる。これを味わい尽くさず世を去るのは勿体ないと。

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