トヨタ・現場の「オヤジ」たち  中卒副社長誕生秘話

企業・業界2018年6月19日掲載

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 トヨタの現場には、尊敬をこめて「オヤジ」と呼ばれる人々がいる。大卒管理職ではなく、現場で技能を極めた、たたき上げの彼らの中から、副社長も生まれた――。
 現在、トヨタ自動車の副社長を務める河合満は、中学卒業後、15歳で技能者養成所に入所。入社後は本社工場鍛造部に配属され、主査、部長、副工場長を経て、2015年に技能職として初めて専務役員に就任した。副社長となった今でも工員と同じ釜の飯を食い、大浴場で裸のつきあいをする河合をはじめ、伝説の「オヤジ」たちの人の育て方、そして現場で働き続けることの喜びとは――。(以下、『トヨタ 現場の「オヤジ」たち』より抜粋、引用)

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裸のつきあい

 愛知県豊田市にあるトヨタ自動車の本社工場。その中にある鍛造工場には従業員が入浴できる風呂がある。「鍛造温泉」と看板がかかった浴場で、ほぼ24時間、いつでも入浴することが可能だ。広さは一般的な銭湯の2倍。天井も3メートルもある。ステンレスの浴槽が3つあり、一度に70人が入浴できる。深さもある。仕事で疲れた後、手足を伸ばして、湯のなかにつかれば極楽だ。

 自動車工場とは複合工場であり、通常は鍛造、鋳造、プレス、溶接、塗装、エンジン、機械、組立といった工場がある。ただし、現在、トヨタの本社工場にあるのは鍛造と車体工場だけだ。組立などのラインは他にすでに移管されている。

 鍛造は1千度以上に熱した鉄を叩いたり、上下からプレスしたりして部品を作る。エアコンが効いている現在はまあ過ごしやすい環境になったが、昔は高温と熱気、騒音、煤煙がうずまく3K職場の典型だった。

 トヨタ自動車の副社長で、現場の、モノづくりを担当する河合満は毎朝、午前6時過ぎには出社し、すぐに鍛造温泉に入る。風呂に入ってから仕事をして、夕方、帰る時もひとっ風呂浴びる。彼の仕事は風呂から始まり、風呂でひと区切りとなる。鍛造温泉には河合のロッカーがあり、洗面器、シャンプー、石鹸などが置いてあり、座る場所もほぼ決まっている。

 売り上げ27兆6千億円、従業員37万人のトヨタに副社長は6人。うち、ひとりはフランス人。6人のうち、5人は大学を出ている。世界の自動車会社を見ても、経営陣は、ほぼ100パーセント大学を出た人間だろう。

 だが、河合は違う。彼の学歴はトヨタ技能者養成所(現・トヨタ工業学園高等部)卒業。当時はまだ高校ではなかったから、本来の最終学歴は愛知県東加茂郡松平村立(当時)松平中学校卒業になる。中卒の副社長なのだ。

 さて、風呂につかりながら、河合は言った。

「会社人生、55年になるけど、毎朝、必ず、風呂に入っている。鍛造工場は昔は油煙がすごかったからね。作業服が真っ黒になった。だから、うちには洗濯機がふたつあったんだよ。ひとつは家族が着る服を洗う洗濯機。もうひとつはオレの作業着を洗う洗濯機。風呂もオレが入ると、お湯が真っ黒になったから、会社の風呂に入ることにしたんだ。でも、こっちの方が広いし、熱いし、気持ちがいい。むろん、うちにも風呂はあるけれど、会社に出勤した日は、入ったことはないな」

 風呂へ入った後、彼は鍛造工場に隣接した事務所の個室に入る。本社事務棟には立派な副社長室があるけれど、そこにいることはまずない。

 来客を受け入れる時だけ、出かけていく。彼にとってスーツは正装ではない。正装は55年間、愛用している現場の作業服だ。

「風呂だけじゃないよ。昼飯も構内にある食堂で食べている。現場の仲間と同じものだ。本社の役員食堂でもたまに食べることがあるよ。うん、塩分は控えめになっている。現場の食堂はしょっぱい。でも、その味に慣れているから、こっちの方がおいしく感じるんだね。鍛造の現場は汗をかくでしょう。僕らは岩塩をなめながら汗をだらだら流して、鍛冶屋の仕事をしていたくらいだから、しょっぱい味が好きなんだ。

 汗をかくから、ほんと、風呂は楽しみだった。鋳造の現場の人間が『お前ら鍛造が入ると湯が油くさくなる』って言うから、こっちは『何言っとる。お前らが入ると砂が風呂に入る。早く出てけ』といっつも言い合いになってた。鋳造って、砂で作った型に真っ赤に焼けた鉄を流し込むから、舞い上がった砂が体に張り付く。鋳造も鍛造も自動車工場の中では縁の下の力持ちみたいな仕事で、大変なところは一緒ですよ」

「オレたちいまでも裸のつきあい~」

 何の曲かわからないけれど、河合は浴槽から出て、イスに座り、うたいながら、シャンプーで髪の毛をごしごし洗っていた。

 わたしもその日、鍛造温泉に招待を受けたので、一緒に風呂に入った。隣のイスに座って、体を洗った。

 洗い終わった河合はまた浴槽に入り、熱い湯につかって、じっとしていた。しかし、わたしを見つけて、お湯をかき分けて、そばに寄ってきた。立ち上がって、わたしにも立ち上がれとうながす。

 彼はわたしの下半身を見下ろしながら、自信をもって言った。

「くらべっこしてみる?」

 河合満。70歳。トヨタの現場では尊敬を込めて「オヤジ」と呼ばれている。「オヤジ」とは現場で働く、組長、工長のことで、大卒の管理職ではない。

 生産現場は「オヤジ」が仕切る。「オヤジ」がひとこと右と言えば、全員、右を向く。トヨタのモノ作りの全責任を負っているのは「オヤジ」で、「オヤジ」が現場を動かしている。

 河合はトヨタの「オヤジ」のなかでも、筆頭だ。「オヤジ」のなかの「オヤジ」だ。だが、その「オヤジ」は今もなお、風呂に入ると、くらべっこをせずにはいられない。

トラック製造会社

 トヨタ自動車の創業は1937年8月28日。織機王、豊田佐吉の息子、豊田喜一郎が「日本人の頭と腕で自動車を作る」ことを志し、父の会社、豊田自動織機のなかに自動車部を興し、前述の年に独立した。

 当初、悪戦苦闘し、資金は底をつき、応援者は少数しかいなかった。だが、喜一郎は国産自動車を作るために頑張った。苦闘しながらトラック、乗用車を開発し、やっと会社が立ちゆくかと思ったら日本は戦争に突入。トヨタは軍需用トラックの製造会社になった。

 戦前から戦後のある時期まで、トヨタが手掛けていたのはトラックだった。乗用車は戦後のモータリゼーションまでほとんど需要がなかったのである。

 そして、彼らが作っていたトラックも、アメリカ製に比べると決して質が高いとは言えなかった。自動車は鉄、ガラス、ゴム(タイヤ)、電装品などのすそ野産業が育っていなければ成長できない。喜一郎はないないづくしの環境から自動車会社をたち上げ、鋳造品、鍛造品からシートやガラス製品まで内製したのである。

 戦中、軍需を担っていたトヨタはアメリカ軍の目標となり、敗戦の前日にはB29が本社の鋳造工場に爆弾を落としている。

 苦闘を続けたトヨタがやっと会社らしくなったのは戦後で、しかも、労働争議(1950年)の後だ。朝鮮戦争の特需とその後のモータリゼーションの進展で、自動車は売れ、同時に技術開発、生産技術を向上させていった。河合が入社し、現場に身を置いたのはちょうどモータリゼーションの時代だった。

 そして、トヨタは現在、国内に12工場、海外には28カ国、51事業体を置いている。

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