いよいよ開幕「全米オープン」誰もがチャンスの「頭脳プレー」コース

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 全米オープン(6月14日~18日)はゴルフのメジャー4大大会の1つだが、オープン競技ゆえ、その門戸は広く開放されている。プロもアマチュアも外国人選手も、出場資格さえ満たせば、誰もが挑むことができる。

 今年、全米オープンにエントリーしたのは総勢9049人。そのうち14日からの戦いに挑むことになったのは、トッププレーヤーをはじめ全米各地や英国、日本などの地区予選を勝ち抜いた156人だ。

 その156人の出場者の中で、アマチュアは20人。これは1962年以来、最大の人数だ。そして2013年以降、アマチュアの出場人数は6年連続で増え続けている。

 かつて「球聖」と呼ばれたボビー・ジョーンズのように、生涯アマチュアを通すケースももちろんあるが、狭き門を潜り抜けて全米オープンに挑むアマチュアは、多くの場合大学生などの若いゴルファーで、大会出場後にプロ転向し、米ツアー選手を目指す。その人数が増えていることは、米ゴルフ界の将来に向けた未知数も大きいと言える。

 同様に、外国人出場者が増えることは、ゴルフ界の国際化が進んでいることの証でもある。今年は日本から松山英樹、小平智、秋吉翔太の3人だけが出場予定だったが、直前になって日本予選を経て補欠に位置付けられていた星野陸也にも出場枠が巡ってきた。

ウッズ「棄権」ジャンボ活躍の「1995年」

 今年の全米オープンの舞台はニューヨーク州ロングアイランドの名門、シネコックヒルズ。このコースで全米オープンが開かれるのは今回が5回目になる。初回は1896年、2回目は1986年だ。

 そして3回目の1995年大会は、まだスタンフォード大学の学生だったタイガー・ウッズが前年の全米アマチュア選手権の優勝によって出場資格を獲得し、生まれて初めて挑んだ全米オープンだった。

「それまで見たこともないコースセッティングで、あのときは驚いた」

 今年の開幕前の会見で、23年前の思い出をしみじみ語ったウッズ。彼が当時「驚いた」という1995年大会は、腰の高さほどもある深い深いフェスキュー(芝草)群から無理やり脱出を試みて手首を痛め、2日目に途中棄権となった。

 実を言えば、1995年大会は私にとっても初めての全米オープンで、私も深いラフ、カチカチのグリーン、コース各所の高低差等々、すべてが怪物級のコースセッティングに驚き、その驚きの中で無我夢中で取材した。

 棄権を決意し、ラフに立ち尽くしていたウッズの元へUSGA(全米ゴルフ協会)が用意したカートが走り寄ったとき、どうしてだか私はそのカートの真横に立っていた。そして、6人乗りのカートの後部座席に後ろ向きに乗ったウッズが、顔をこちらへ向け、口をへの字に結んで遠ざかっていく場面にずっとカメラを向けていた。あのシーンは今でも忘れられない。

 だが、あの1995年大会で私の脳裏に刻まれた場面は、去り行くウッズだけではない。あの大会は初日から「日本人選手が全米オープンチャンピオンになるかもしれない」とドキドキしたことを今でも鮮明に覚えている。

 そう、あの大会はジャンボ尾崎(尾崎将司)が初日に5位タイ、2日目を終えて単独2位に浮上し、3日目は単独首位だったグレッグ・ノーマンとともに最終組。私は2人のプレーを無我夢中で追いかけていた。

 3日目のラウンド中、いろんなことが起こった。ジャンボの打った球がディボットのような穴の中に入り、それが小動物によるものか、ディボットか、ルール委員の判断を仰ぐ場面の空気はピンと張り詰めていた。

 そんな中、我らがジャンボは徐々に後退し、最終日は優勝争いの蚊帳の外へ。それは日本人としては淋しい結末だったが、日本人も全米オープンという世界の大舞台で優勝するチャンスが確かにあるということを、あのとき私は初取材にして実感させられた。

 さらに言えば、優勝争いの大詰めはパワーヒッターのノーマンと、ショートヒッターのコーリー・ペイビンの戦いになり、勝利したのはペイビンで、非力でも、小柄でも、本当に誰にもチャンスがあるということを、私は初めて取材した全米オープンで教えられ、とてもラッキーだったと今は思う。

2004年は丸山茂樹「激闘」

 2004年の前回開催は、丸山茂樹が優勝争いに絡んだ。あの年、丸山は決して好調ではないと感じながらシネコックヒルズにやってきた。だが蓋を開けてみれば、初日から首位タイの好発進。2日目も好プレーを披露し、3日目はフィル・ミケルソンと最終組で回り、順位こそ4位タイへ後退したものの、首位を走っていたレティーフ・グーセンと3打差で最終日を迎えようとしていた。

 大勢の米メディアに囲まれた丸山。そこにやってきた1人の米国人記者がこんなことを言った。

「シゲキ、カラオケがうまいって本当かい? ここで1曲、歌ってくれないかい? ワンフレーズでもいいから聞かせてくれないかい?」

 丸山はすかさず自力の英語で、こんな返答をした。

「今、ここで歌うのは嫌。でも明日、優勝したら、必ず歌を歌います」

 米国人記者が「本当かい?」と半信半疑で問い直すと、丸山は「イエス! プロミス!」。

 わずか14年前。いや14年も前と言うべきなのだろうか。あのときのシネコックヒルズは激しい日照り続きでコース全体が干上がり、グリーンはガチガチに固くなって厳しい戦いだったが、取材の場には、そんな和気藹々のムードもあった。

 最終日。3パットのボギーで発進した丸山のゴルフは大きく揺れ動き、試練の1日になった。ショットを右に押し出し、アンプレアブルを宣言したかと思えば、すぐさま会心の寄せを見せたり、スーパーショットを放ったりと振れ幅の大きな内容。

 最終ホールのバーディートライは無情にもカップを舐め、こうして日本人初のメジャー制覇の夢は、またも夢で終わった。

 優勝を逃して4位タイで終戦。だが、丸山の表情には戦い切ったという達成感が溢れていた。

「小さな努力が実ってきたのかな。それがなかったら、今の自分はなかった」

 そう言った丸山の笑顔を、私は頷きながら眺めていた。

日本人との「縁」

 過去3回と比べれば、シネコックヒルズは1995年より2004年、2004年より今年のほうが、一見すると易しくなっているかのように思える。

 コース全長は、2004年の6996ヤードから7445ヤードへ伸長されているが、この14年間の用具の進化による選手たちの飛距離の伸びを考慮すれば、7445ヤードは、昨今のトッププレーヤーたちが攻略不能と感じるほどの長さではない。

 フェアウェイ幅は過去大会の平均より15ヤードほど広げられ、グリーンは30%以上も大きくなっている。フェアウェイキープ率やパーオン率は過去大会より高まるはずだ。

 ラフも前回ほどの深さではなく、入れたら必ず出すだけだった1995年、2004年と比べれば、「今年は全然違うセッティングだね」とはタイガー・ウッズの言。そして松山も「ライ次第じゃないですか?」と、出せるチャンスもありえることをうかがわせている。

 解説者として現地を訪れている青木功いわく、「コースは全部で500ヤード伸びたって、18で割れば、1ホールごとの伸びは大したことない」。

 ティショットで打った球が左下がりの急角度の傾斜地になだれ込む9番ホールには、練習日の間、落としどころにネットが張られ、保護されている。その傾斜地の上に第1打を止めると、残り距離は210ヤード前後。

 青木いわく、「ほら、みんなこの(傾斜の)下に来ちゃうんだよな。この(傾斜の)上からなら210だろ? (グリーンの)後ろに何も(物が)ないから、もっと遠くに見えるけど210だ」

 刻むか。攻めるか。フェアウエイの落としどころは広いようで狭い。

 そして、ピンを狙うセカンドショットも「グリーンは大きいところもあるけど、狙える場所はすごく狭い」とは、世界ナンバー1に返り咲いたばかりのダスティン・ジョンソンの言。

 そう、今年のシネコックヒルズは頭脳プレーの勝負になる。だからこそ、小柄なアジア人、米国ゴルフに不慣れな外国人など、誰にもチャンスはあるはずだ。

 そして、1995年にジャンボ尾崎、2004年に丸山茂樹が優勝ににじり寄った場所でもある。この土地に日本人との「縁」というものがあるのなら、今年も日本人が活躍してくれるのではないか――そう思えてならない。

舩越園子
在米ゴルフジャーナリスト。1993年に渡米し、米ツアー選手や関係者たちと直に接しながらの取材を重ねてきた唯一の日本人ゴルフジャーナリスト。長年の取材実績と独特の表現力で、ユニークなアングルから米国ゴルフの本質を語る。ツアー選手たちからの信頼も厚く、人間模様や心情から選手像を浮かび上がらせる人物の取材、独特の表現方法に定評がある。『 がんと命とセックスと医者』(幻冬舎ルネッサンス)、『タイガー・ウッズの不可能を可能にする「5ステップ・ドリル.』(講談社)、『転身!―デパガからゴルフジャーナリストへ』(文芸社)、『ペイン!―20世紀最後のプロゴルファー』(ゴルフダイジェスト社)、『ザ・タイガーマジック』(同)、『ザ タイガー・ウッズ ウェイ』(同)など著書多数。

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Foresight 2018年6月14日掲載

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