「若山富三郎」の女性しかいない“大奥”事務所 息子語る

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「なにしろ、そこはプロダクションというより、父である若山富三郎を囲む大奥でしたから」

 在りし日の名優・若山富三郎をふりかえるのは、息子で俳優の若山騎一郎氏である。

「そこは、俳優・若山富三郎をめぐる、女性の嫉妬やライバル心が充満していて、よどみきっていた。生まれてはじめて、本当に空間が灰色に染まるのを見ました」

 昭和の名優、若山富三郎。昭和4年(1929)、東京・深川で長唄三味線の名手・杵屋勝東治の長男として生まれた。遊び人だった若山は、20歳になってやっと長唄の修業を始め、父は彼を尾上菊五郎劇団に預けた。しかし、長唄や三味線は役者より格下という厳しい階級制がものを言う歌舞伎の世界に嫌気がさし、父の跡を継ぐことを断念。一時は用心棒などもやりつつ、実弟、勝新太郎の名声に引きずられるようにして俳優になった。すぐに映画デビューは果たしたものの、俳優としてもなかなか芽が出なかった。一時は城健三朗と改名したり、そのキャリアも迷走気味だった。転機を迎えたのは37歳の時。東映の任侠映画で演じた悪役で高く評価されると、その後は幅広い役をこなし、名優として右に出るものがいない存在になった。芸域が広がるにつれ、初期の凶悪なイメージは薄れ、渋みのある好人物の役がふえた若山富三郎だが、実生活では映画に登場するようなプレイボーイ顔負けの艶福家人生を送っていた。

 平成4年(1992)4月2日に亡くなった時は独身だった若山だが、過去に2度の結婚と離婚を経験し、1女1男をもうけている。1度目の相手はハワイ在住の日本人女性だったが若山の浮気が原因で離婚。2度目は元女優・藤原礼子が相手で、その時さずかったのが、長男の騎一郎氏である。しかし、新人女優の安田(大楠)道代と若山が深い仲になり(以後7年にわたって同棲した)、2年ほどで離婚する。その後、騎一郎氏は、神戸で割烹を経営していた母に女手一つで育てられた。そんな母は実父の存在をひた隠しにしていたという。

「実家のアルバムの中に、生まれたての私を抱いている写真があったんです。抱いているのは若山富三郎なのですが、母はそれを『病院の院長先生だ』と言い張っていました」(同)

 14歳の時、家出をした騎一郎氏は、偶然訪れた理髪店で父が若山富三郎であることを確信する。

「その床屋さんが、あら、割烹藤原の息子さんってことは、若山富三郎さんの息子さんなのね、とぽろりと言ったんです」(同)

 意外な形で実父が大役者であることを知ったものの、父と再会を果たしたのはその6年後。役者を目指していた騎一郎氏に日活の松尾昭典監督が、

「役者になるなら父親に会っておきなさい」

 と段取り、父と面会したのだ。そこで騎一郎氏は思わぬ言葉をかけられる。

「ウチ(個人プロダクションの若山企画)に来て修業してみないか」

 これで役者人生は約束された、と騎一郎氏は小躍りしたという。しかし、

「毎年熱海の旅館で行う新年会の席で、俺の付き人から始めさせるから、面倒みてくれと紹介されたんです。その途端、全てがガラリと変わりました」(騎一郎氏)

 今でこそ笑い話と騎一郎氏は言うが、

「それまで坊ちゃん扱いしてくれた、優しかったお手伝いさんが豹変したんですよ。旅館で突然、夜中に私を呼び出すんです。何事かと思い駆けつけると“今すぐお寿司が食べたい”と言う。旅館は山の中。寿司屋なんて開いてないし、ひどいもんです。今、考えれば彼女達には、若山の息子に対して複雑な思いがあったんでしょうね」

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