「123便」直前キャンセルの医師、その後イラクへ 「生かされた命を役立てられれば」
「日航機」御巣鷹山墜落 死神から間一髪逃れた「キャンセル・リスト」の後半生(3)
520人が亡くなった「日航機123便」の墜落事故。その搭乗を間一髪で逃れた当事者たちは、事故が発生した昭和60年8月12日から現在までを、どのように生きてきたのか。
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「緊急オペが入ったぞ」
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その一言で123便のチケットが反古になったのは、医師の脇山博之(56)だ。1年ぶりの帰省がかなわなくなった瞬間でもあった。
脇山は当時、研修医2年目の26歳。母校・防衛医科大学校の付属病院で、おもに消化器外科を担当していた。
しばしば「研修医は修業」と言われるように、仕事は過酷を極めていた。睡眠は3、4時間程度で泊まり勤務も多い。そんな中やっと取れた夏休みだった。
「8月12日は、実家のある福岡への直行便はとれず、まず123便で大阪へ飛び、さらに福岡行きに乗り換えるという面倒なルートでした。正直言って、あまり気が進まなかったですね」
当日はいつもと同様に、朝5時過ぎに病院に到着し、患者の採血、回診に同行した。8時頃に朝食を食べたあとだったろうか、前記の緊急オペの連絡を受けた。
研修医の場合、手術が終われば“放免”というわけにはいかない。というのも、患者の術後管理を何日にもわたって任されるからだ。
果たして、彼が墜落情報を聞いたのは病院の集中治療室の中でだった。
「驚きました。ただ、当時は、亡くなるかもしれない目の前の患者さんのことで精一杯。動揺するいとまさえなかったのです」
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