「おんな城主 直虎」で話題、天才ピアニスト「ラン・ラン」の少年時代 元天才少女・中村紘子が語る

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 昨年7月に72歳で亡くなった中村紘子さんは、日本を代表するピアニストとして後進の育成に尽力したことでも知られるが、60年近く前には、慶應義塾中等部3年在学中、日本音楽コンクールで史上最年少で第1位特賞を受賞、15歳でNHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜擢されデビューした「天才少女」として知られていた。1965年、ショパン・コンクールで日本人初の入賞と併せて最年少者賞を受賞するなど輝かしい経歴の後、チャイコフスキー・コンクールをはじめいくつもの国際コンクールの審査員を務めるようになった。

 最後のエッセイ集となった『ピアニストだって冒険する』で中村さんはこう綴る。

「大脳生理学によれば、人間の能力には、それを鍛え上げるのに最も適した年齢が各分野ごとにあり、それを脳の臨界期と呼ぶという。そして、音楽は、その臨界期が最も早くくる分野の一つで、一説によれば3歳から15歳、その時期を逃してしまうと、仮にどんな「大天才」であろうと大成するのは難しい、とされているのだ」

 ピアノと音楽の基礎訓練を受け始めた中村さんは、その後、2、3年もたたずして、グレード試験をどんどんパスし、最上級まで進んでしまったという。中村さんはこう記す。

「これは、べつに私に特別な才能があったということではない。大脳生理学上、音楽というのは、年少であればあるほど身につくのが速い、ということが証明されただけなのだ」

 当時の中村さんの様子について、教室の先生だった吉田秀和さんはこう話したという。

「とにかくね、あなたは教室の最前列に坐るんだ。で、僕の話が始まると五線紙いっぱいに、お絵描きを始めるんだな。チラっと見ると、もう、お姫さまだの王子さまだのの絵でいっぱい、こっちの話なんか聞いてやしない。夢中になって描きまくってるんだ」

 子供らしさを表すと同時に、天才の集中力、大胆さを表すエピソードなのかもしれない。

 では、中村さんが認めた天才児とは誰か。

 中村さんは1995年に仙台で、13歳の少年ラン・ランと出会う。

 審査委員長を務めた「若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」で何の予備知識もなく「ラン・ラン少年」の演奏を聴いた中村さんはびっくり仰天。

「演奏の良し悪しを云々する以前に、そのド派手な演奏ぶりにただただ唖然、理屈より先になにか生理的違和感とでもいったものを感じてしまった」

 ふっくらと健康そうなラン・ラン少年が京劇の役者のようにギョロ目をむき、舞踊のような身振り手振りをするのに驚いた中村さんだが、「しかし目を閉じて聴くと、その音色の艶やかさと並はずれた音楽性に、またびっくりさせられる」と、その桁はずれの才能を賞賛している。このコンクールで、見事、「天才児ランラン」は優勝した。ちなみに、2位は、この7年後にチャイコフスキー・コンクールで女性として、また日本人として初のピアノ部門優勝という快挙を成し遂げた上原彩子さんだった。

 その後、成人したラン・ランに何度か会い、好感がもてる青年であることも分かった中村さんは、その大袈裟な演技と大型で瑞々しい音楽の組み合せに、近い将来「巨匠」の一人になるだろうと確信したという。中村さんの予見通り、今ではラン・ランは北京オリンピック開会式での演奏やNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」のテーマ音楽の演奏でも知られるスーパースターとなった。

 数々の国際コンクールの審査員として、多くの天才児の栄枯盛衰を目撃してきた中村さんはこう記す。

「人生は長いし、紆余曲折のなかで時代と共に過ぎ去ってしまう人も多くいる。コンクールの記録を見れば、いかに多くの『1位』がその後、消えてしまったかが納得できる。今日まで依然として充実した演奏をきかせてくれる『1位』は、本当に少ない」

 同書には、熾烈な国際コンクールで1位を取った後も、その天賦の才を発揮し続けることの難しさが記されている。

 天才にしか到達できない特別な世界。その一端を、当事者たる中村さんの目を通し、垣間見てはいかがだろう。

デイリー新潮編集部

2017年8月10日掲載

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