没後1年で語られ始めた「高倉健」密葬の光景 列席が許された「5人」

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 映画俳優として初めて文化勲章を受けた高倉健が旅立って1年が経った。そのプライベートは生前、厚いべールに覆われていたが、最近になって秘密が徐々に語られ始めている。不思議な面々が集った密葬の光景や「養女」の父親へのインタビューから名優を偲ぶ。

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〈ちりて後おもかげにたつぼたん哉〉(蕪村)

 喪(うしな)ってから折に触れ顔かたちが甦り、その存在の大きさに気づくというのは、残された者の宿命である。

「背中(せな)で泣いてる唐獅子牡丹」と劇中で口ずさんだ俳優・高倉健が悪性リンパ腫のため息を引き取ったのは、2014年11月10日のこと。時計は午前3時49分を指していた。

 享年83。場所は慶応大学病院3号館6階の「特室」。かつて安倍晋三首相が潰瘍性大腸炎で入院したこともあり、一泊10万円を下ることはない部屋だ。

 ――そのちょうど1年前の13年11月、健さんが映画俳優として初めて文化勲章を受けたときの会見で、

「二百何本という膨大な本数の映画をやらして頂きましたけど、ほとんどが前科者。そういう役が多かったが、こんな勲章を頂いて」

 と喜びを口にしたうえで、

「これからの作品選び、章に恥じないものをやらなければいけないと思っている」

 こんな風に“次”への意欲を燃やしていたものだ。

■代筆の手紙

 だが、それを打ち砕くように病魔はすでに身体を蝕んでいた。

 事実、健さんと30年来の交友があった気学の研究家・安部芳明氏は、体調の悪化を感じ取っていたようで、

「そのころ、高倉さんに珈琲を送ったことがありました。ご存じの通り、高倉さんは珈琲を非常に好まれていましたから、珍しいものが手に入ると送っていたんですよ。そうすると必ず直筆の礼状が来るのですが、そのときは代筆の手紙でした。そんなことはそれまで一度もなかったので、筆が執れないほどに重篤なのかな、と思ったものです」

 ちなみに安部氏は、自身が監修する手帳に健さんの運気の良い方角などを記して伝えたり、人生訓となるものを毎月のように送り続けてきた。

 川端康成の小説『山の音』(新潮文庫)には、年を重ねた主人公が、〈警句や逆説に対してもはや鈍くなってい〉くさまが描かれるが、むしろ健さんにはそういったものに傾ける耳があったというわけだ。

 ともあれ、没してのち1年を迎えるまでのあいだ、付き合いを率先して話す人、黙して語らない人、さまざまではあったが、みなが虚を衝かれたのは、「健さんに、かつて女優だった養女がいた」という告白ではなかったか。

 今年で51歳になる彼女は13年5月1日に健さんと養子縁組をした。結果、唯一の子として預貯金や不動産を相続したうえで、『高倉健1956―2014』に手記を発表し、18年に亘る献身や健さんとの最期の日々などを明らかにしている。

 しかしながら、ものごとにはすべて光と影があり、さらに言えば、「大事なことは語られない言葉の中にある」といった警句がないわけではない。

■5人の列席者

 秘匿されてきた密葬について、

〈故人の遺志に従い、すでに近親者にて密葬を執り行いました〉

 と所属事務所が公表したのは昨年11月18日のことだが、葬儀は12日、東京・渋谷区内の代々幡(よよはた)斎場で営まれている。

〈【密葬】身内の人たちだけで内うちに葬式を済ませること〉(新明解国語辞典)

 よく知られるように健さんは4人きょうだいの2番目で、兄と上の妹はすでに物故したが、下の妹である敏子さん(80)は九州在住。そして彼女を含む健さん以外のきょうだいには、それぞれ2人ずつ子供がいる。すなわち、健さんから見れば甥や姪にあたる人たちだ。とはいえ、彼らに対してその時点では、健さんの死さえ伝えられていない。

 その代わりに、密葬に列席を許された人物を明かせば、島谷能成・東宝社長、岡田裕介・東映会長、田中節夫・元警察庁長官、老川祥一・読売新聞最高顧問、そして降旗康男監督の5名。煎じ詰めると、“身内”と呼べるのは血のつながらない養女ひとりだったのだ。

「みなさんは故人となった父の遺志で特別にお呼びしました。今後、父の供養をやっていくにあたって、バックアップをお願いしたいと思います」

 彼らに対してこう語りかけた養女には、50歳に達してなお美貌の女優であった名残があり、ひときわ目立つ顔全体を覆うベールからもそれがうかがえた。

「特集 文化勲章受章者の旅立ちの秘密 没後1年で語られ始めた『高倉健』密葬の光景」

週刊新潮 2015年11月19日号掲載

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